姉妹、勉強をする 1
七話ほどかきだめてきました。ちょろちょろ投下します。感想くれるとうれしいです。
○
「どちらも上巻ですがよろしいですか?」
同じ本を二冊持ってきた客に対しそうした指摘を行うかどうかは、接客の上でとても難しい判断だ。単なる間違いならそれは親切な指摘だが、友達にあげる、保存用と観賞用がある、など同じものを二冊買うことへの合理的理由も考えられるからだ。その意味では、この店員は思い切った判断をしたことになる。
店員の指摘を受け、紫子は首を傾げてこういった。
「え? 隣同士ならんどったっちゅうことは上巻と下巻いうことちゃうんか?」
単に客のミスだった。
食料品の買い物に行く際ふと思いついて、妹に欲しがっていた文庫本を買って来てやると請け負ったのだ。タイトルは『キャットキラー』と全てカタカナだったので、紫子にも探し当てることができたのだが、しかしその本は大作で上巻下巻が存在した。『上』『下』この二種類の漢字を読み分ける能力は紫子には備わっていない。困った紫子が妹に電話をかけたところ、『棚に二冊が隣り合ってるんだよね? じゃあ、その二冊を買ってくれれば大丈夫だと思うよ』というアドバイスがあり、これに従ってレジに持って行ったところ、実際は両方上巻だったという訳だ。
「いえ、両方上巻ですね。見てください」
「見ても分からへんウチ漢字読めん」
店員は激しく困惑した表情になった。紫子は実年齢より幼く見られるがそれでも十歳より下に見られることはなく、そもそも漢字読めない人間がどうして小説なんか買うのだろうかという話でもあり、この店員の混乱は自然なことだった。
「そ、そうですか。では、私が下巻の方を取ってきま……」
「せやから並んどったっちゅうことはその二冊が上巻と下巻やないん? 両方上巻いうことはないんとちゃう?」
真顔の紫子に、店員はますます困り顔になる。
「いや、しかし実際に上巻で」
「ほんなはずあるか。いや、でも……」紫子は眉を顰める。妹が言っていたとおりにしたのだからそれで良いはず、というのはこの場合紫子にとってあまりにも自然な判断なのだが、しかしこの店員の態度から自分に間違った買い物をさせようという悪意は感じない。巧妙にその悪意を隠しているという可能性もあったが、そんなことをする理由も思いつかない。
「えー、どうしたらええんやろ、これ」紫子は困り果てて腕を組んで黙り込む。
「いや、どうしたらも何も……」本屋勤務史上稀であろう珍妙な客の前で、冷や汗をだらだら流す店員。
「ウチをからかっとるんちゃうよな?」紫子は店員を睨む。
「と、とんでもございません」
「自分の買い物やったらあんたの意見とか無視して会計してもらうんやけどなぁ」とんでもないことを真顔で紫子は言う。「でも緑子の本やしなー。迷うたまま買いたないし……うーん」
紫子は携帯電話を取り出して、妹に電話をする。
「ウチやでー」
「なぁにお姉ちゃん」妹の声。姉から電話がかかったというだけでちょっと嬉しそう。
「ちょっと店員に『変なこと』言われてなー」紫子は事情を説明する。「念の為漢字合っとるか確認してくれん?」
「分かったよー。どんな字なの?」
紫子はレジに置かれたその本を手に取り、タイトルの一番下の『上』をじっと睨む。
「まず短いヨコが右上の方に一本」
「うん」
「ほんでそれと垂直に、真ん中らへんに長いタテが一本」
「うん、うん」
「そのタテと垂直に長いヨコ。これなんて読むん?」
「『上』だね。上巻だと思うよ」
「ほうか。ほな次行くで」もう一冊の本を手に取る紫子。タイトルの一番下の『上』をまたしてもにらんだ。「まず短いヨコが右上の方に一本、それと垂直に長いタテが一本、最後にそれと垂直に長いヨコが一本。これは?」
「それも『上』だよー」まったく同じことを二回説明して、しかもそのことに自分で気づいていない紫子に突っ込むことなく、妹はひたすら優しい声音で答えるのだった。「二冊とも上巻なんだと思う。きっと、売り場のメンテナンスが不十分だったか何かで、同じ本が二冊並んでたんだね」
「あちゃーそうなんか。そういうこともあるんやな」
「うん。ごめんねお姉ちゃん、わたしが変なこと言うから迷わせちゃったね」
「ええんやで。それにしても、おまえは漢字が読めて賢いなぁ」
「そんなことないよー」
「謙遜せんでええで」謙遜なはずがない。「ほな『下』でどう描くか教えて? 探してくるわ」
「一番上に長いヨコ、それと垂直に長いタテ、タテとヨコの右側のカドに小さな点だね」
「分かったわー。ほな買って帰るでー」
通話を終える。周囲の人々は、電話口に対して行われるその異常なやり取りに、憐れむような怯えるような視線を向けていた。
世の中にはいろんな人がいる、十六になって漢字が読めない人とか。
「すまんな店員さん。ウチが間違っとったわ」
「い、いえかまいませんよ」素直に非を認める紫子に尋常ではない物を感たのか、店員は腫れ物に触るかのような営業スマイルを浮かべたのだった。
×
「帰ったやでー」
食料品などの買い物から姉が家に戻るのを、緑子がいつものように笑顔で迎えた。脚の悪い自分に代わって買い物をしてくれるのはいつも紫子だ。体調が良い時など、時々連れて行ってくれたりもする。
「おかえり、お姉ちゃん」
「おうただいま。これで良かったか?」文庫本を渡してくれる紫子。
「うん。当ってるよ」緑子は幸せそうにそれを受け取る。「嬉しいな。好きな作家先生の新作なの。前から読みたかったんだぁ」
「どんな話なん?」
「動物虐待で憂さ晴らしをする若者たちが、ネットで知り合ってオフ会をやるんだけど、それがすごい惨劇に繋がって行って……」
「お、おもろいんそれ? でもおまえが読むんなら、気になると言えば気になるな」
「きっと面白いと思うよー。読んだら筋を話してあげるね」
一時間前後にまとめたダイジェスト版を身振り手振りを交え表情を変え、情感たっぷりに説明する緑子の技能は達人的で、しかるべき人間に見出されれば商売になるレベルだった。識字能力や集中力に問題のある姉は、たまに読みたい本があると緑子に代わりに与え、筋を話すのをせがんだりする。楽しそうに聞いてくれるので、緑子も嬉しい。
「ちゃんと上下巻揃ってるよ。ありがとうお姉ちゃん」緑子はそう言って姉に買って来てもらった本を抱きしめる。
「ええんやで」紫子は胸をなでおろす仕草をした。そして少し浮かない顔。「でもウチもなー。やっぱ漢字くらい読み書きできた方がええんやろな。買い物間違えるとこやったし……」
「読めるに越したことはないと思うけど、でもお姉ちゃんは今のままでも十分素敵だよ?」
「でもこの年で字ぃも読めれんのってやっぱヤバない?」
「あのねお姉ちゃん。人間って誰でも苦手なこととか、できないことがあると思うの。お姉ちゃんにとっては漢字がそうかもしれないけど、でもお姉ちゃんはその中で、店員さんの意見を取り入れたりとかわたしに電話をかけたり、色々工夫して、結局は間違わずにわたしの為に本を買って来てくれたじゃない?」
「そりゃおまえのお陰やで。漢字読めるおまえが身内におったからや」
「お姉ちゃんがわざわざ電話を掛けてくれたからだよ? 苦手なことは工夫したり人に聞いたりして、最後に目的を達成できるのなら、ひとまずはそれで良いんじゃないのかな?」
自分の内部では奈落の如き劣等感が渦巻いていても、姉のことは母親の如き許容力で全肯定するのが緑子だった。しかし漢字が読めないなりに人に頼って正解にたどり着いてくれた紫子は、客観的にも立派なんじゃないだろうか?
「それとね、……お姉ちゃん。ちょっと変なこと言ってると思うかもしれないから、そのつもりで聞いてほしいんだけど」
「ん? なんや?」
「お姉ちゃん、本当はこのくらいの漢字読めるよ?」
言われ、紫子はロボットの如き動きで両手を小さく開いて頭の少し上くらいの高さにあげた。そして片脚を静かに退くと、驚きを示した表情で停止する。
「そんな訳あらへんやろ? 実際、その所為で今日困った訳やし」
「うん。お姉ちゃんの識字能力のことうっかり忘れて本なんて頼んでごめんね。でもさ……お姉ちゃん、マンガは読むよね?」
「大好きやで」
「じゃあさ。このマンガのこのセリフなんだけど……」
言いながら、緑子は本棚から一冊の漫画を手に取って開く。メガネをかけたスーツの男が、悲壮を極めた表情で『馬鹿な! それ以上パンツを上に上げたら、睾丸が圧迫されて苦痛なはずだ!』と叫んでいる大ゴマだ。
「このセリフ、読める?」
「『ばかな、それいじょうぱんつをうえにあげたら、こうがんがあっぱくされてくつうなはずだ』やろ?」
「読んだよね! 今、読めてたよね!」緑子は興奮して言った。「読めてるよ! 『以上』も『上』も『上げる』も全部読めてるよ! 『上』って漢字読めてるよお姉ちゃん! あとついでに『馬鹿』も『圧迫』も『苦痛』も、それに『睾丸』なんて難しいのまで読んだよ!」
「アハハっ。おまえがでかい声で『睾丸』やいうとこが見れるとは思わんなだわ」紫子はなんだか楽しそうに笑う。
「あ、えっと、その……」緑子は顔を赤くする。「と、とにかく、お姉ちゃん、やっぱり本当は漢字を読め……」
「いや、そない言われてもウチ漢字なんか読んどらんわ」紫子は真顔で言って首を傾げた。
「え? る、ルビ振ってないよ? 漢字読めてないのになんでキャラのセリフが分かるの?」
「いや、なんで分かるも何も、キャラが喋っとるんやで? そら分かるんちゃう?」
「え? ど、どういうこと?」緑子は困惑した。
「おかしなこと言うとれへんやろ? 『この漢字を読みなさい』言われても『ウチは漢字が読めへん』のやから無理やけど、『キャラクターが喋っとんのやったら』それは分かるわ。マンガってそういうものちゃうんか?」
「え、えっとぉ……。うん? あ、あれ? うぅ……うぅうう」緑子はほとんど混乱して頭を抱える。姉のことは理解しているつもりでいたが、その実、彼女の抱える問題は自分の思っていたより深刻で歪曲していて難題だったのだ。
「い、いけるか緑子? ウチなんか変なこと言うたか?」
「……お姉ちゃんなりにきちんと筋の通った理屈なんだと思う」緑子は言った。「ちょっと、どこで躓いてるか考えてみるね」
この姉はアタマが悪い訳では決してない。緑子から見れば、今でも利巧で頼れる姉だ。小学生の途中までは100点を取るのが当たり前の子で、漢字だってきちんと読み書きできていた。
おかしくなったのはやはり養護施設に入ってからだ。
机に向かおうとする姉に付きまとい勉強を教えたがった『とある職員』が、他人の意欲や思考能力を破壊する天才で、彼女が些細なミスをあげつらいヒステリックに喚き平手を飛ばす度、紫子は勉強という行為に生理的嫌悪感を覚えていった。数年が立つころには問題に対して『解こう』とか『解ける』という気持ちが完全に萎え、もともとできていたはずの漢字の読み書きや四則計算の能力を失っていった。
緑子より二年遅く、紫子は小6で養護学級に入った。授業は粗末なひらがなで黒板の読める字を断片的に書き写すだけになり、テストは選択問題をいくつか正当するだけになった。戸惑い苦しんだ紫子だったが、中学一年生のある時一念発起して妹に教えを乞うた。少しはまともに勉強をできるようになりたい、だが『鬼婆』に教わっても余計にバカになるだけだ、おまえしかいないとそう言われた。緑子に断る理由はなかった。
紫子は必死で努力した。心を開いた相手から丁寧に教わることで、遅れていた部分の学習に追い付き、失われていた能力を取り戻していった。二学期の中間テストでは平均点が90点を超える結果を出して、二人は手を叩き合って大喜びをした。
紫子はお前のお陰だと緑子の手を握ったが、それだけではないと緑子は思う。勉強とは日々の積み重ねであり一朝一夕の猛勉強で好成績を取れたりしない。紫子は自分の能力に鍵をかけていただけで本当は漢字も割り算も覚えていたし、ひらがなだけでも書き写す日々の授業だって紫子の力になっていた。それが報われた、これでもうお姉ちゃんは苦しまなくていいんだ、緑子は心底そのことを喜んだ。
しかし周囲はそんな紫子を祝福するどころかカンニングを疑った。
施設の人間はほとんど端から決めてかかって紫子を追及し、学校は神妙な顔で的外れな倫理の話をした。紫子は己の知識と思考力に改めて厳重な鍵を施して開くことをしなくなり、緑子は強がる姉の代わりにたくさん泣いた。
「……マンガは、お姉ちゃんの好きなものだから」緑子は言った。「だからきっと、自分の漢字を読む力を素直に発揮できるんだと思う」
「え? ど、どういうこと?」
「お姉ちゃん、千円を持って行ったら九十円のジャガイモいくつ買えて何円残る?」
「そんなん十一個に決まっとるやろ? んで手元に十円やな」
「1000÷90の解は?」
「あ? えーっと……。どう考えるんやっけ? 1000の中に90が、ひとーつ、ふたーつ、みー……ああ、もう分からへん」
「お姉ちゃん!」緑子はそう言って拳を握りしめた。「もし勉強したくなったら、いつでも教えるからね。いつでも、お姉ちゃんの気が済むまで教えるからね!」
「なんやねんいきなり」紫子は困ったように笑って言って、それからうんと頷いた。「まあでもおもろそうやわ。おまえがそんなに言うならやってみよかな?」
「え?」緑子は目をぱちくりさせる。
「おまえ、子供の頃の教材とかおいとるか?」
「ば、場所取るし、中学のだけ……」
「そりゃウチには無理やなー。じゃあちょっと小1の奴買ってくるでー」
そう言ってあっさり家を出ていく紫子。緑子は深呼吸をして、「よぉし」と意気込み、筆記用具とお茶とお菓子と学業成就のお守りを用意し始めた。




