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噂の令嬢と婚約解消した管理官  作者: 丸井空知


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3/7

図書室での二人

屋敷の図書室は、北向きの冷たい部屋だった。

壁一面の書架に、代々の領主が残した日誌と地図と契約書が、背表紙をそろえて並んでいる。

高い窓から落ちる光の中で、埃がゆっくりと舞っていた。


エレナは緊張しながら本棚を指した

「こちらです。領主日誌は、年ごとにこの二つの棚に」

「ありがとうございます」

ラインハルトは礼を言うと、上着を脱いで椅子の背にかけ、いきなり一番上の段に手を伸ばした。

エレナは慌てて梯子を示した。


「あの、お手伝いします。十二年前から十年前の巻でしょうか」

ラインハルトは少し目を見張りながら

「ええ。そうですが、なぜ分かりました?」

エレナはそんなラインハルトに少しとまどいながら

「兄が、水位の記録を探していると言っておりましたので。

堤防の最初の大きな修繕は、十一年前でした」

その言葉を聞いたラインハルトが、

はじめてちゃんとエレナをきちんと意識したかのように見やった。


其のあと日誌を三冊、机に並べるまでに、さほどの時間はかからなかった。

ラインハルトは黙々と頁をめくり、時おり紙に何かを書きつけた。

エレナは入口に近い席に座り、邪魔にならないよう息をひそめていた。

しばらくの間、部屋には頁をめくる音だけがあった。


一刻ほど過ぎたころ、ラインハルトが、机の端に積んであった綴りの一冊を引き寄せた。

エレナが夜ごとに組み替えた、あの書類の綴りだった。

兄が持ち出したものを、彼がここへ持ってきていたらしい。


ラインハルトがエレナを見ながら

「この水位の表について、伺いたいのですが」

ラインハルトの問いにエレナは少し緊張しながら答えた。

「はい。私でわかることでございましたら。」

「余白に書き込みがある。第三堰の石積みは十年前から傾いていた、

去年の補修は水位の三割にも耐えない、と。数字の根拠も、日誌の頁番号まで添えてある。

この筆跡は、ユリウス殿のものではないように見える」


心臓が、一度大きく鳴った。エレナは膝の上で指を組み直した。

「私が、書きました」

エレンハルトは少し驚いたように

「あなたがですか?」

エレナはやはり出過ぎたことをしてしまったと後悔しながら答えた。

「兄が忙しくしておりましたので。出すぎたことをいたしました。

もしご迷惑でしたら、その部分は」

「迷惑どころか」

ラインハルトは、エレナの言葉をさえぎるように小さく首を振った。

「この書類は、これまで私が見た被災領地の報告のなかで、いちばん正確です。

足りないものを足りないと書き、隠したいはずの借財まで一覧にしてある。

普通、領主の側は被害を大きく見せるか、傷を小さく見せるか、どちらかに傾く。

ここには、そのどちらもない」


エレナはラインハルトの言葉に

「隠しても、管理官様はお調べになるでしょう。

それなら、最初から出したほうが、話が早いと思いました」

ラインハルトはその言葉にうなづきながら

「その判断が、最初に正しかった」

褒められているのだと気づくまで、少しかかった。

慣れない言葉に、エレナは思わず頬が染まり目を伏せた。


「ひとつ、提案があります」

と、ラインハルトは続けた。

「三年前の水害の際、決壊した場所は第三堰の下流でした。

ところが、あなたの書き込みによれば、隣のローゼンベルク領の水路は、

あの場所の少し上流で川から分かれている。

水路を拡げて増水時の逃がし道にすれば、堤を作り直すより先に、

被害を半分にできるのではないですか」


エレナはラインハルトの言葉に思わず顔を上げた。

それは、彼女が家族が三年間、領地のことを考える度に何度もなぞってきたことだった。


「我が家も考えておりました。

ただ、水路は隣の領地のもので、拡げるには、あちらの許しと費用が必要になります。」

「その話をまとめる人は?」

「……私が親しくさせていただいております友人の家が、ローゼンベルクです。

今までは費用のことを考えるとなかなか話を持っていくことに父も躊躇しておりましたが、

何かしら王宮からご支援の道筋ができるのでしたら、話してみることはできると思います」

ラインハルトはエレナの言葉を聞くとうなずきながら

「では、それも書類に加えましょう。

支援を決めるのは私ではなく王宮ですが、報告書を書くのは私です。

この資料を、あなたの名前で添えたい」

「私の名前ですか?」

びっくりして反射的に、エレナは首を振っていた。

「兄の名前にしてください。領主の娘が帳簿に口を出したと知れたら、また」

「またとは、、何ですか」

問われて、言葉が詰まった。噂のことを、ここで口にするわけにはいかない。

けれどラインハルトは、答えを待たなかった。

「正確な記録に、書き手の身分は関係がないと私は思います。

私なら、自分の名を書きます。ただ、決めるのはあなたです」


図書室が、静かになった。窓の光が、少しだけ傾いている。

エレナは、綴りの表紙の空けておいた作成者の欄を見つめた。

三年間、父や兄の陰に隠れていた自分の名前を、そこに書く。

たったそれだけのことが、ひどく大きなことに思えた。


「……エレナ・ハルトマンと、書いてください」

まだすごくドキドキしている。

しかしエレナは小さい声ながらはっきりと伝えた。

「承知しました」

ラインハルトは、わずかに口元をゆるめた

それは笑顔と呼ぶには控えめだったが、初めて見る、飾らない表情だった。


「明日も、質問に来てもよろしいですか。

案内役が、あなたのままであれば助かる」


エレナはその言葉を不思議に思い

「書庫の場所は、もうお分かりでしょう」

「分かっていても、分からないことは、たくさんあります」

真顔で言うので、エレナは返事に困って、棚の日誌を整えるふりをした。

もしかしたらラインハルトが自分を認めてくれたような気がして

知らず知らずのうちに頬が熱くなっていくのを、背を向けて隠した。

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