婚約破棄された人形令嬢と湖の栞(1)
伯爵邸で怒りを迸らせる令息に、表情を動かすことなくただ彼の瞳を見つめ返す令嬢。この伯爵邸に嫁ぐ予定のご令嬢である。
何不自由ない暮らし、自分を愛してくれるお相手、何も文句のない幸せな毎日だった。
だが、その均衡は今まさに崩れようとしている。
「なんなんだ、お前は! 笑いもせず、泣きもせず、怒りもせず、ただ私が言ったことをこなすだけ。まるで人形じゃないか!」
「申し訳ありません」
「またそれだ。君は私を愛してなどいないのだろう?」
「そんなことはございません」
「なら頬のひとつでも染めてみせてくれよ。私にしてもらいたいことは? 我儘だって言ってくれ。……なぁ、私たちの関係ってなんなんだ?」
「それは婚約関係にございます」
手本のような淡々とした返答に、令息の気持ちはロウソクの火が消えるように冷えていった。
「……アリシア嬢、私は君との婚約を破棄する」
「承知いたしました」
婚約破棄の宣言、それさえも彼女は動揺の色一つ見せずに躊躇いもなく受け入れた。
「ねぇ、聞いた? あの子婚約破棄されたそうよ」
「そうでしょうね。だってまるで感情のない人形のようだもの」
(わからない。愛していると毎日伝えてもあの人には伝わらなかった。笑わないといけない、泣かないといけない、怒らないといけない。私にはわからない)
彼女は美しくも感情のない人形のような女性だった。
◇
「ルイー、ネロがまた僕のリボン引っ張った」
クマのぬいぐるみがほどけた首のリボンを持ちながらルイに近づいていく。
「ちょろちょろしてたら引っ張りたくもなるだろ」
ルイは苦笑いでリボンを奇麗に結いなおすと、クマのぬいぐるみの頭を撫でた。
「はいできたよ」
「ありがとう、ルイ!」
アトリエのソファーに寝転がってあくびを零したネロは、今日も今日とて朝からここに入り浸っている。
「わん!」
「お、チップ。なんだ、俺に遊んでほしいのか?」
「わん!」
「よし、散歩行くか」
「わん!」
「「散歩なら僕ら(たち)も行く」」
「誰が連れていくか」
と、賑やかでいつも通りの言い合いの後、チップをリードに繋いだネロはぬいぐるみたちをルイの腕に押し付け意気揚々と散歩に出かけて行った。
「ま、いいもんね」
「僕たちがルイを独り占めできるから」
ぬいぐるみたちは小さな体でルイのことを抱きしめる。「ふふ」と笑い声を漏らしたルイもぬいぐるみたちを抱きしめ返した。
――カラン、カラン
「ただいまー」
ほどなくして散歩から戻ってきたネロとチップだったが、後ろに一人の女性を引きつれていた。
「なんか、扉前で行ったり来たりしていたから連れてきた」
ルイは慌ててソファーから立ち上がると女性に手を差し伸べる。
「ようこそ、“忘れ物探偵事務所”『記憶のアトリエ』へ」
「失礼いたします」
女性――アリシアは動く物たちを見ても動じず、小さな魔法使いであっても見下さず、ただ誰に対しても同じように丁寧に頭を下げた。
ルイと向かいのソファーに座ったアリシアの前に現れたティーカップとソーサー。それからウサギとクマのぬいぐるみ。
「紅茶は何が良い? アールグレイはどう?」
「はい、構いません」
「手作りフルーツティーなんてどうかな?」
「はい、構いません」
「レモンケーキはいかが?」
「はい、いただきます」
「……泥団子でも食べる?」
「はい、いただきます」
「ちょっと、ウサギさん!」
これには穏やかにやりとりを見ていたルイも止めに入る。
「そんなの出さないさ。だって僕の手が汚れるもん」
その場でティースプーンと共に一回転したウサギのぬいぐるみは鼻歌を歌いながら、冷やしてあるレモンケーキをキッチンに取りに行った。
「わん、わん!」
「よしよし」
ルイとアリシアの座るソファーからやや離れた位置で寝ころがりながら遊んでいるネロとチップ。
客人が来たということで帰ろうとしたネロだったが、まだ遊び足りなかったのかチップが彼の纏う夜空色のマントを引っ張り引き止めたのだ。
ルイは気にしていないのだがネロはやたら邪魔をしないか気にしているため、
「むしろチップと遊んでくれるとお客さんとゆっくりお話ができます」
と、伝えると彼は気恥ずかしそうに「お前がそこまで言うなら?」と照れ隠しにマントのフードを被ってチップと遊び出した。
「「はい、どうぞ」」
あっという間にルイとアリシアの前に並ぶレモンケーキとアールグレイの紅茶。彼女は恭しくお礼すると美しい所作でレモンケーキにフォークを刺した。
紅茶を飲む姿勢においても無駄一つない。
「この人、僕ら以上に機械みたいだ」
「そうだね。全部決められた機械みたいだ」
「お前ら元から機械じゃねぇだろ」
口に手を添えてコソコソ話しをするぬいぐるみたちにすかさずツッコむネロ。
「ええ、あなたたちに入っているのは精密なものなどではなく、ただの綿でしょう?」
勿論この男、リュカも黙ってはいない。
「「うえ~ん。ルイー、またリュカがいじめてくるよー」」
ぬいぐるみたちはルイの膝にしがみつき泣き出す。が、彼らはぬいぐるみだ。涙も流れなければ、表情だって縫われた状態のまま変わらない。
空気が落ち着いたところでルイが切り出す。
「アリシアさんはどのような“忘れ物”を?」
「わかりません」
「わからない?」
「はい。わからないのでここへ来ました」
「では、何があったかお聞きしてもいいですか?」
頷いたアリシアは婚約破棄の流れについてルイに端的に話した。
「私は感情のない人形だ、と多くの方に言われました。もちろんあの方からも」
「うーん。アリシアさんの忘れ物はもしかしたら“感情”かもしれません」
立ち上がったルイはアリシアに手を伸ばす。
「一緒に“忘れ物”を拾いに行きましょう」
アリシアは抵抗なくルイの手のひらに自分の手のひらを重ねた。
「と、いうことで、プチ街探検です!」
「「わーい!」」
ルイ、リュカ、アリシア、そして二つのぬいぐるみはアトリエの外へ繰り出した。
先程散歩に出られなかったぬいぐるみたちはここぞとばかりにルイに縋り、見事外へ出る切符を手に入れたのだ。
「楽しいことをしたら感情を思い出せるかもしれません」
「かしこまりました」
ぬいぐるみたちはリュカではなくアリシアの腕の中にいる。
「僕らを見ていたら“可愛い”を思い出すかもしれないからね」
「そうそう、僕たちに任せて!」
そして一行は日が暮れるまで街を巡った。売店での食べ歩き、ブティックへも訪れた。運よくバスカー(※大道芸人や路上ミュージシャンのこと)に巡り合い鑑賞も楽しんだ。
心機一転、畑の収穫もしてみたし、有名なカフェでケーキも食べた。
それでもアリシアの表情は変わることなく、ただ時間が過ぎていくだけ。
アトリエに戻り頭を下げる彼女。
「申し訳ございません」
「謝らないでください。なんだか、僕がすごく楽しんじゃいましたね」
心からの笑顔を浮かべているルイを見て、アリシアの心の中に一つの感情が浮かんだ。
(……羨ましい)
だが、本人にもなぜかわからない。ただ、物事を素直に楽しむルイの姿がアリシアには眩しくて仕方がなかった。
「ご迷惑をおかけして――」
「また明日お待ちしています」
ルイの声に、下げかけていた頭を上げるアリシア。ルイは彼女へ花が綻ぶように微笑みかける。
「あなたの“忘れ物”は僕たちがきっと見つけます。だから、また明日も一緒に楽しみましょう」
「……あ、ありが、とう」
それは、彼女が初めて言葉を詰まらせた瞬間だった。
ご高覧いただき感謝の至りでございます。
感情という”忘れ物”の行方をどうか暖かい目で見守り下さい。




