役目を終えた盲導犬(3)
「ほら、こい! なに勝手に脱走してんだこのクソ犬が!」
男性は人目のない路地にチップを連れていくと腹を蹴った。
「キューン……」
苦しそうに鳴き声を上げるチップ。
「きょうは飯抜きだから」
女性は扇子で顔を仰ぎながら早く歩けと言わんばかりにチップの後ろ脚を蹴る。
その晩、チップは夢を見た。愛おしいあの人との夢を。
――――――
『チップ、チップ。どこにいるんだい』
『わん!』
『ああ、すぐそばにいたのかい』
『わん!』
チップは自分を優しく撫でてくれるおじいさんが大好きだった。目が見えなくても、自分を大切にしてくれていることが伝わってくる。
『チップ、お隣さんが犬のおもちゃをくれたんだよ。どうだい、遊ぶかい?』
『わん!』
『でも、私は見えないからどこにおもちゃが飛んでいくかわからないよ。それでもいいのかい?』
『わん!』
『それ!』
おじいさんはボールのおもちゃを優しく投げた。チップとしてはもう少し強く投げてもらいたかったが、それでもおじいさんが一緒に遊んでくれるだけで嬉しかったのだ。
毎日寄り添って寝た。
『チップ、私が死んでもどうか悲しがらないでくれ』
『くぅーん……』
『お前は賢い子だから。私がいなくなってもきっといい人と巡り会えるさ』
自分の死期を悟ったおじいさんは毎晩同じ言葉を言ってから眠りにつく。まるで、朝起きたら心臓が止まっていたとしても後悔がないように。
――――――
そして、とうとうおじいさんは冷たくなってしまった。鳴き続けるチップ。でももう、自分がいくらすり寄ってもそのしわくちゃで大きな手は撫でてくれない。
ほどなくしてチップはおじいさんの弟の息子夫婦に預けられたのだが、おじいさんの言う良い人ではなかった。
散歩は行かない、ご飯だってまともなものが与えられない。ない日だって多い。なにか気に入らないことがあると何度も蹴られた。
傍らにあるお気に入りのボールに残る新しい匂い。チップは夢の最後で今日会ったルイの温もりを思い出した。
◇
ルイはその日チップが心配で眠れなかった。いくらリュカが傍にいようと、ぬいぐるみたちがトントンしてくれようと眠ることができない。
別れ際のチップの姿が脳裏に焼き付き、そして嫌な想像が支配するのだ。
そして、一睡もできず次の日の朝を迎えた。
「大丈夫ですか、ルイ」
濃く浮き出た隈、血色のない顔、時々ふらりと揺れる体。リュカは何度もルイに声をかけた。
日課でショーケースを覗いたルイの目が開いていく。
「……ハーネス」
すぐさま取り出したルイはハーネスに魔法をかけた。現れるおじいさんの幻影。彼はアトリエの外をただ指さしていた。
『どうか、チップを助けてくれ』
頷いたルイは、おじいさんの後を走ってついて行く。
「ルイ!」
呼び止めるリュカの声を差し置きただ案内される方へと走った。
着いた家から聞こえる犬の声。だが、苦しそうな声なのだ。ルイは脇目も振らずその家の扉を開けて飛び込んだ。
「チップ? ……チップ!」
家の中で男性に棒で殴られているチップを見つけ庇うように体に覆いかぶさった。
男性はいきなり飛び込んできたこどもに目を丸くする。だが、一度振り下ろされた棒の勢いは止められない。そのままルイに下ろされていく。
衝撃に備え目を瞑ったルイ。しかし痛みはやってこない。ルイを抱きしめたリュカが腕で木の棒を受け止めたのだ。
「……その棒をどけろ」
低く、水を凍てつかせるような温度のない声が発せられる。彼の纏う威圧に男性は棒を落として腰を抜かした。
「ルイ、怪我はありませんね?」
「は、はい。リュカさんが守ってくださったので」
リュカはそのままルイを抱き上げチップに「ついてきなさい」と声をかける。チップはお気に入りのボールを咥えると彼の後を追って家を後にした。
『……ありがとう』
玄関の前で足元から消えていくおじいさん。
ルイはリュカに抱かれながら小さく手を振った。
アトリエについてもチップの尻尾は下がったまま。ご飯も食べず、体を震わせていた。ルイが近づけばチップは震える足で離れていく。
「どうしよう……」
チップの痛々しさにルイの瞳から涙が零れていく。
「ごめんね。昨日助けてあげられなくて、ごめんねっ」
自分が昨日無理にでもあの夫婦からチップを守ってあげられていたら、こんなに辛そうにならなかったのではないか。
自責の念が彼の胸を締め付けていく。
そんなルイの傍らに膝をついたリュカ、優しくゆったりと声をかけた。
「では、今できることを考えてみましょうか」
「今、できること……」
ルイは周囲に視線を走らせる。ふと目に付いたもの。チップがわざわざここにまで持ってきたお気に入りのボールのおもちゃ。
「おじいさん、まだここにいますか? いるのなら、力を貸してください。‘Olu Makana」
ボールを手のひらに乗せて目を瞑りルイは魔法をかける。
ふわりと現れたおじいさんとチップの幻影。在りし日の二人の記憶だ。
チップも一人と一匹の姿をじっと見ていた。
――――――
『チップ、今日のごはんはどっちがいい?』
『わふっ』
チップは二つあるドッグフードのうち、黄色い袋を前足で触った。手探りでチップの前足を見つけると、おじいさんは選んだ方のご飯を皿に入れてくれる。
『チップ、ほれとってこい』
『わん!』
ボールを前より遠くに投げられるようになったおじいさんだけど、チップにはまだ物足りなかった。でも、それでいい。それがいいのだ。
『チップ、君の毛は何色なんだい? 黒?』
『わん!』
『白?』
『わん!』
『青?』
『わん!』
『赤?』
『わん!』
『そうか、カラフルなんだね。色は奇麗かい?』
『わん!』
『それじゃあ、きみもとても奇麗なんだね、きっと』
『わん!』
――――――
ルイの瞳から零れる涙は止まらない。こんなにも幸せに満ちている光景を見てどうして泣かずにいられよう。
ルイが泣いている姿を見たチップは恐る恐る近づいていき、その白い頬に伝う涙を舐めた。
「チップ、抱きしめていい?」
「わん」
ルイはゆっくりとチップを抱きしめた。伝わってくる暖かさにルイの心が落ち着いていく。
「チップ、おじいさんね。今そこで笑っているよ」
「わん」
「またね、だって」
「わん!」
「君がこっちに来たらまたそのボールで遊ぼう、だって」
「わん、わん!」
チップはルイから離れるとボールを咥えて戻り「投げて」とねだった。
「遊ぶ?」
「わん!」
ルイはチップが満足するまで何度もボールを投げて遊んだ。
『よかったね、チップ。良い人に巡り会えたね』
穏やかな顔で瞼を開いたおじいさんの目が丸くなる。
『……そうか、チップ。君はそんな姿をしていたんだね』
おじいさんの気配を感じ取ったのか、アトリエを忙しなく歩き回るチップ。
「おじいさんは、そこだよ」
ルイが指を差した方向へ顔を向けたチップは最後に大きく吠えた。
『ありがとう、素敵な小さな魔法使いさん』
光の粒となって消えていくおじいさん。
「はい」と微笑んだルイの元へとやってきた光の粒。しばらくアトリエの中を舞うと、光の粒は彼の首元のキューブの中へと収まっていった。
「ようこそアトリエへ、チップ……」
寝不足がたたり傾くルイの体。キッチンにいたリュカの手は届かない。
「わん!」
しかし、チップが受け止めた。安心しきった顔で寝息を立てているルイ。
「……やりますね、チップ」
「わん!」
アトリエには新しく犬の声が響いた。
役目を終えた盲導犬 ―完―
ご高覧いただき感謝の至りでございます。
盲導犬の役目を終えた犬の物語でした。
犬好きとしてはどうしても書きたかった物語です。最後までお付き合いいただきありがとうございます。
さあ、”記憶のアトリエ”に新入りの登場です。次は誰が訪れるのでしょう。
次回『意気地なし偽勇者はドラゴン討伐の夢を見る』




