03:完璧令嬢は手紙を書く
ライオネル様が毎日のように顔を見せるようになって、しばらく経った。
休憩時間になれば廊下へ出て、柱の陰を確認する。
そこに彼がいれば少し話をして、教育係の先生に注意される前に別れる。
そんな毎日が、いつの間にか私の日常になっていた。
けれど、ふと考えた。
いつもライオネル様から会いに来てもらっているばかりで、私からは何もしていない。
婚約者との交流も大切な務めではあるけれど、王太子妃教育を受けている私が授業を抜け出して会いに行くわけにもいかない。
それなら、今の私にできることをすればいい。
そこで私は、ライオネル様に手紙を書くことにした。
婚約者同士が手紙を交わすのは、王侯貴族の間では珍しいことではないらしい。私も婚約者として、一度くらい手紙を送ってみるのも悪くないだろう。
さらに、王太子妃教育にも少しずつ慣れ、最近では手紙を書くくらいの時間なら取れるようになっていた。
そうして私は、王家へ送るのに相応しい便箋を選ぶところから始めた。
机の上に並べた便箋を一枚ずつ眺め、紙質や色合いまで確かめていく。
……気づけば、一時間は余裕で経っていた。
これは真面目な私だからである。
初めて婚約者へ手紙を書くから浮かれている、なんてことは断じてない。
ようやく便箋を決めたところで、今度は文面を考えなければならない。
これにも随分と時間を使った。
まずは無難に挨拶から。
『ライオネル様へ。お元気でお過ごしでしょうか』
……少し堅すぎる。書き直す。
『ライオネル様。先日はお時間をいただき、ありがとうございました』
これではまるで、何かの礼状のようだ。
今度はもう少し親しみを込めてみよう。
『先日もお話しできて嬉しかったです』
筆を止める。
……これは、少し恥ずかしい。
結局、書いては消し、書いては消してを繰り返した。
「……何故こんなに文章が思い浮かばないのかしら」
招待状なら何枚でも書けるというのに。
社交辞令ならいくらでも並べられる。
相手に失礼のない言葉も、場に相応しい表現も、これまで嫌というほど学んできた。
それなのに、たった一人へ向けた文章となると、途端に筆が進まなくなる。
そもそも『婚約者への手紙の書き方』という本がなかったのが悪い。
何しろ初めてなのだから、見本がなければ仕方がない。
そう責任転嫁しておくことにした。
しばらく悩んでいると、部屋の扉が控えめに叩かれた。
「失礼いたします、お嬢様」
顔を上げれば、私の専属侍女であるアビーが入ってくる。
「どうしましたの?」
「そろそろ休憩なさったほうがよろしいかと思いまして」
そう言って、アビーは机の上へ紅茶を置いた。
どうやら私は、思っていた以上に長い時間机へ向かっていたらしい。
「ありがとう」
立ち上る紅茶の香りに、張り詰めていた気持ちが少しだけ解れていく。
アビーは本当に気の利く侍女である。
「で、恋文は順調ですか?」
私はインクをぶちまけた。
幸いにも手紙は無事だったが、机の上は大惨事である。
「……お嬢様、何やってるんですか」
「恋文じゃないわ」
「説得力ゼロですね」
アビーは呆れたように言いながら、慣れた手つきで机の上を片付け始める。
「もうお嬢様も恋文を書くお年頃ですか」
「恋文じゃないったら」
「はいはい」
「はいはいじゃないでしょう」
私は目を吊り上げる。
しかしアビーはまったく堪えていない。
「その反応が恋する乙女なんですよ」
「違います!」
「では、何の手紙なんです?」
「婚約者への手紙ですわ」
「それを世間では恋文と言うんですよ」
言い返せない。
前言撤回。気の利かない侍女である。
私はふいと顔を背け紅茶を飲んだが、アビーは楽しそうに笑っていた。
「それでは、頑張ってくださいね」
「……ええ」
アビーはそれ以上何も言わず、空になったティーカップを下げると、部屋の隅に控えた。
私も気を取り直し、再び便箋へ向き直った。
しばらく考えた末、今度こそ何とか文章をまとめる。
内容は、王太子妃教育が始まったこと。
最近は勉強が忙しいけれど、少しずつ慣れてきたこと。
そして、休憩時間に話せるのが嬉しいこと。
最後に、また明日も話しましょう、と書いた。
……少しだけ素直すぎただろうか。
けれど、書いてしまったものは仕方がない。
私は最後に署名を入れ、便箋を丁寧に折りたたんだ。
そして、ふと思いついて香水をひと吹きする。
ふわりと馴染んだ香りを確認してから、私は首を傾げた。
「……これは、要らなかったかしら」
恋文ではないのだから、香りなどつける必要はなかったのではないだろうか。
しかし、もう綺麗に折りたたんで封蝋までしてしまった。
後戻りはできない。封筒ごと捨てて、最初からやり直すべきだろうか。
そんなことを考えていると、いつの間にか近くまで来ていたアビーが、封蝋の施された手紙を覗き込んだ。
「まさかまた書き直すおつもりですか?」
「……少し、気になるところがあるだけですわ」
「あれだけ何度も書き直されたのですから、きっと大丈夫ですよ」
「そうかしら」
「ええ。それに、これ以上書き直していたら、いつまで経っても出せませんよ。せっかく書いたのですから、早く届けて差し上げればよろしいのでは?」
アビーはそう言って、にこりと笑った。
私が渋々手紙を差し出すと、アビーはそれを受け取り、胸元へ大事そうに抱えた。
「では、こちらは私が責任を持ってお届けします」
「ええ。お願いしますわ」
「承知いたしました。お返事が来たら、すぐにお知らせしますね」
「別に、急がなくても構いませんわ」
「では、届いても少し時間を置いてからお知らせしましょうか」
「それは困りますわ!」
思わず声を上げてから、私ははっと口を閉じた。
アビーは目を細め、楽しそうに笑っている。
私が睨みつけると、アビーは笑い声をこらえながら、今度こそ部屋を出ていった。
我が家に勤めて長い私の侍女とはいえ、全くもって不敬である。
私は深いため息をついた。
けれど、もう手紙は彼女の手に渡ってしまった。
今さら取り返すのも、かえって恥ずかしい。
気がつけば、すっかり夜も更けている。
寝る前になって、ふと今日書いた手紙のことを思い出した。
文章に間違いはなかっただろうか。
言葉遣いは失礼ではなかっただろうか。
香水は、やはり余計だったのではないだろうか。
考え始めると、次から次へと気になることが出てくる。
……まあ、明日に届くわけでもないでしょう。今から気にしても仕方がありませんわ。
そう自分に言い聞かせ、私は眠りについた。
翌日も、その翌日も、王家から返事が届くことはなかった。
別に、気にしていたわけではない。王家との手紙のやり取りなのだから、私の元へ届くまでにはそれなりに時間がかかるだろう。
そう思っていたはずなのに、日を追うごとに、私は妙に落ち着かなくなっていった。
そして、一週間が過ぎた。
「……遅い」
私は机の上に置かれた書類を眺めながら、小さく呟いた。
王族へ届けられる手紙は、内容に問題がないか確認される決まりになっている。
それにしても、確認に一週間もかかるものなのだろうか。
そんなことを考えていると、部屋へ入ってきたアビーが、机の上の書類を整理し始めた。
「お嬢様、何かお探しですか?」
「いいえ?」
「先ほどから、何度も扉をご覧になっていますけれど」
「……そんなことはありませんわ」
アビーはそれ以上追及せず、何でもない顔で作業を続けている。
その態度が、かえって気になった。
「アビー」
「はい」
「……今日、王家から何か届いていないかしら?」
「届いておりませんね」
「そう……」
私は何でもない顔をして頷いた。
けれど、その日の午後も、扉が開くたびに、ついそちらへ目を向けてしまう。
……どうやら私は、思っていた以上に返事を楽しみにしているらしい。
アビーに知られたらまた笑われそうなので、それを認めるのはもう少し先にしておこう。




