01:完璧令嬢のポンコツな婚約者
私がライオネル様と初めて出会ったのは今から十年前。
その日は、私が人生で初めて「完璧令嬢」でいられなくなった日でもある。
私は生まれた時から、ライオネル様の婚約者になることが決まっていた。王位継承を巡る事情もあり、王家は我がキャンベル公爵家を後ろ盾に選んだのだ。
王太子妃という肩書きや責任に押しつぶされないよう、両親は幼い私に最高峰の教育を施してくれた。
「教養やマナーはリーリエを守る武器となり盾になるだろう」
「王家に嫁ぐ者として、一瞬の隙が命取りとなるわ。精一杯励みなさい」
「はい。お父様、お母様」
勉強、外国語、歴史、マナー、刺繍、護身術……。
幼い私は毎日それらに追われ、いつしか周囲からこう呼ばれるようになった。
『リーリエはどこに出しても恥ずかしくない完璧な令嬢』
その名に恥じないよう、これからも努力を続けようと幼いながらにひっそりと誓っていた。
そして迎えた、婚約者との顔合わせを兼ねたお茶会の日。
王宮へ向かう馬車の中で、お母様は私に優しく微笑んだ。
「リーリエならきっと大丈夫よ」
「えぇ、これまでの成果を出してみますわ」
そう答えたものの、お母様の瞳には心配そうな色が浮かんでいる。私は安心させるように微笑み返した。
やがて部屋に通され、少し待つと王妃陛下と王太子殿下が到着した。婚約者同士の顔合わせが始まる。
大人も聞き惚れるような美しい声での完璧な挨拶。
淑女の見本となれると口々に言われた美しいカーテシー。
貴族として隙のない優雅な笑顔。
全て、練習通りだった。
「貴方がライオネルの婚約者で良かったわ」
「自慢の娘よ」
「有り難きお言葉ですわ」
王妃陛下もお母様も満足そうに笑っている。
これまでの努力は決して無駄ではなかった。
その日は全てが完璧に進むのだと、私は確信していた。
――あの王子が、私の完璧をいとも簡単に崩すまでは。
そもそも、今回のお茶会の目的は婚約者であるライオネル王太子殿下と親睦を深めること。
第一印象は何よりも大切だ。婚約者たるもの、今日一日で彼に私を気に入ってもらわなければならない。
そう思って、私はライオネル様へ向き直った。
けれど、ライオネル王太子殿下は私が挨拶をしても、話しかけても、ずっと黙ったままだった。
気弱そうに俯いているのなら、まだ分かる。あるいは不機嫌そうにしているのなら、この婚約に不満があるのだと推測できる。
ところが、彼はそのどちらでもなかった。
深海を思わせる青い瞳を見開き、ただひたすら私を見つめている。
……何を考えているのか、まったく分からない。
そんな私たちの様子を見て、大人たちも少し困ったようだった。
「そうだ、良ければ王宮自慢の庭でも見ていって頂戴。
外の空気を吸えばライオネルの緊張も解けるでしょう」
王妃陛下の言葉に、私は頷いた。
確かに、こうして黙って向かい合っているだけでは、親睦を深めるどころか何も始まらない。庭を歩きながらなら、私から話題を振ることもできるだろう。
婚約者との初めての交流なのだから、ここで私が気を利かせなければ。
そう考え、私はライオネル様と二人で庭を歩くことになった。
私をエスコートするわけでもなく、ただ隣を歩くライオネル王太子殿下を見やる。
やはり、何を考えているのか分からない。
そう思いながら歩いていると、突然、彼の足が止まった。
「すごい!!」
「……え?」
突然の歓声に目を丸くする。
何か綺麗な花でも見つけたのだろうか。好きな虫でもいたのかもしれない。
けれど、周囲を見渡しても特に変わったものはない。
そしてライオネル様の視線は、相変わらず私に向けられていた。
「俺、こんな妖精みたいに可愛い子と結婚出来るの!? すごい嬉しすぎる、やったー!」
ライオネル様は目を輝かせ、鼻息荒く飛び上がった。
この時、私の頬が赤くなったのは、それが王族に相応しい態度なのかと怒っていたからだ。もちろん、淑女たる私が照れたわけではない。
王族らしくない口調。
初対面の令嬢をじっと見つめる無作法。
突然飛び跳ねるという、あまりにも子供じみた振る舞い。
本来なら、注意すべきところはいくらでもあった。
けれど、その一言で全て吹き飛んでしまった。
「……え、えっと。妖精というのは」
「もちろんお前のことだ!」
あまりにも真っ直ぐな瞳で言われ、言葉を失う。
そもそも令嬢を「お前」と呼ぶのも問題だ。
「……なら、何故ずっと黙っていたのですか。私が婚約者なのが気に入らないのかと思いましたわ」
「そんな訳ないだろ!!」
突然の大声にまた肩が揺れる。
私の反応に気づいたのか、ライオネル様は頬をかいた。
「えっと、ごめん! こんな可愛い子が婚約者なんて、夢なんじゃないかって思ってビックリしてたんだ」
「……夢なんかじゃありませんわ」
「良かった」
そう言って、穏やかで幸せそうに微笑む。
その表情はとても美しく、先程までの騒がしさが嘘のようだった。
少しだけ見惚れてしまった私に、彼はさらに言葉を重ねる。
「あとあまりにも美しいから、ずっと見てたかったんだ。あとずっと所作も全部綺麗だなって見蕩れてた!」
口を挟む暇もないほど直球な褒め言葉が飛んでくる。
……今だけは認めよう。少しだけ嬉しかった。
「それに、リーリエって名前まで綺麗なんだな」
「ありがとうございます。王太子殿下に褒めていただけるなんて、両親に感謝しなくては」
これ以上は取り乱してはまずい。
私は気を取り直し、淑女に相応しい笑みを浮かべた。
「それ嫌だ!」
「……え?」
「おうたいしでんか、ってやつ! 俺はライオネルってかっこいい名前なんだ!」
ライオネル様は私を指さして胸を張った。
人を指さしてはいけませんって、最初に習わないのか。
「お名前はもちろん存じておりますわ。それでは、ライオネル殿下とお呼びすればよろしいでしょうか」
「殿下も禁止だ!」
「……ら、ライオネル様」
「様もいらないぞ」
「これ以上は流石に譲れませんわ」
「俺の命令だぞ!!」
困って口を噤む。
出会って数刻で王族を呼び捨てにするのは、模範の貴族として生きてきた私にはハードルが高すぎる。
しかし、不満を露わにして口を尖らせる彼は、本当に子どもらしい。
ここは私が大人にならなければと気を引き締める。
「それなら……仲を深めていって、呼び方も変化させていきましょう?」
「じゃあ、俺はリリィって呼ぶな!」
「え?」
「他のやつに呼ばせたら駄目だぞ!」
「……あの、私の話聞いてました?」
「俺のことも愛称で呼ぶのを特別に許可してやる!」
「聞いておりませんわね」
うん、会話のラリーが続かない。
段々と頭が痛くなってきて額に手を当てる。
それでも、キラキラと期待した瞳を向けられると、眩しくなってつい目を細めてしまった。
「……では何とお呼びするか、家で考えてきますわ」
「あぁ、次に会う時は呼んでくれ」
「……二人の時だけですからね」
「二人だけの秘密ってことか? 分かった!」
「もう、そういうことにしておきますわ」
そんな私のことなどつゆ知らず、彼は楽しそうに「リリィ」と何度も私の愛称を呼んでいた。
私は優しいので、そのたびに返事をしてあげた。
決して、返事をすれば彼が嬉しそうに笑うからではない。
そうしているうちに、気づけば時間は随分と過ぎていた。ふと空を見上げれば、日は傾き始め、庭にも長い影が伸びている。
そろそろ戻らなくてはいけない時間だ。
用意していた話題はほとんど使っていなかった。
今日のために世界情勢も、流行の舞台も、王子が好みそうな本まで頭に叩き込んできたというのに。今日はただ嬉しそうなライオネル様を見て終わってしまったようなものだ。
こんなお茶会になるとは思ってもみなかった。
「そろそろ戻る時間ですわ」
「嫌だ! もっとリリィと一緒にいたい!」
「……何をしているのです?」
「こうしたらリリィが帰れないと思って……」
そう言って彼は、私たちが来た道を両手を広げて塞いだ。
通せんぼをするその姿に思わず笑いそうになり、慌てて口元を引き締める。
私は今まで、こんなに分かりやすい感情表現をしたり、子どもらしい我儘を言ったりする人を身近で見たことがなかった。
今日一日で、私はすっかり彼にペースを乱されている。
これは完璧な令嬢として不覚である。
このまま失敗の結果だけを残して終わるわけにはいかない。
「……では、次はいつ会えますの?」
「俺は明日でもいいぞ!!」
「明日はいきなり過ぎて無理だと思いますわ。王妃陛下とお母様に聞かないとダメですわね。聞きに戻りましょうか」
「……分かった」
渋々といった態度で頷いたので、私はほっとする。
すると、彼は捨てられた子犬のような目を向けてきた。
「リリィはまた、俺と会ってくれるのか?」
彼の方が私より少し身長が低いため、上目遣いのようになっている。
「もちろん。私たちは婚約者になるのですから」
「……そうか! 婚約者って良いものだな」
ライオネル様は嬉しそうに笑った。
そのままスキップでもして向かおうとする彼の袖を、私は慌てて引く。
「ライオネル様。こういう場では普通、男性が女性をエスコートするものですわよ」
淑女に恥をかかせないでくださいまし、と手を差し伸べる。
本当は男性からするものなのだが、仕方ない。
ライオネル様は私の手を見て目を丸くした。
「そうなのか、知らなかった!」
「もう、常識ですわよ」
「それにしてもリリィは手まで綺麗なんだな」
「ありがとうございます。この手は侍女の手入れの賜物ですわ」
「こんな綺麗な手に、触っていいものなのか……?」
「手に触れず、どうエスコートするのですか?」
もう一度手を差し出すと、ライオネル様は慣れない様子でおずおずと私の手に触れた。
そうしてようやくエスコートされる。
……いや、ライオネル様のエスコートがお粗末すぎて、ただ子供が手を繋いでいるように見えてしまうだろう。
「へへ、リリィの手はあったかいな」
「ライオネル様こそ」
「ずっと繋いでたい!」
「帰るのでずっとは駄目ですわ」
「そんな!」
そう言いながらも、私はすぐに手を離すことはなかった。
その手はあたたかいを通り越して少し汗ばんでいたのだが、不思議と嫌ではなかった。
そうして部屋に戻ると、王妃陛下と歓談していたお母様が微笑ましそうにこちらを見ていた。
「なぁ、次のリリィとのお茶会はいつなんだ!? 明日か?」
「ライオネル、明日な訳ないでしょう」
「えっ、そんな!! なら明後日!」
お母様は嬉しそうに目尻を下げ、王妃陛下は呆れたように扇子で口元を隠している。
「次のお茶会の日程は、キャンベル公爵家とも相談して決めるものですよ。ライオネルが勝手に決めてはいけません」
「……分かった。でも、なるべく早くしてくれよ!」
王妃陛下に諭され、ライオネル様は渋々ながらも頷いた。
とはいえ、次に会えることが分かっただけで満足したのか、それ以上は駄々を捏ねなかった。
そうして私たちは、無事に顔合わせを済ませて帰ることになった。
「リリィ、またな!」
「えぇ。ライオネル様、ご機嫌よう」
別れ際にまた駄々を捏ねられたらどうしようと思っていたが、王妃陛下の前なのもあって、ちゃんと弁えているようだ。
それにしても、まさか私の婚約者が、ここまでポンコツだったとは思わなかった。
帰りの馬車で母と二人きりになると、私はライオネル様の常識のなさや愚痴を漏らした。
「本当に子供っぽくて、自分勝手なお方でしたわ」
「ふふ、良かったわね」
「何がですの?」
「だって、リーリエが楽しそうな顔をしていたから。きっと素敵な時間だったのでしょう」
「……そんな顔していませんわ」
そう言って私は馬車の窓に目を向けた。
夕日のせいか、窓に反射する私の顔は少し赤いような気がした。
家に帰って父や兄にありのまま報告すれば、「仲良くなれそうで良かったな」と微笑まれたり、「惚気話かよ」と呆れられたりした。何故だ。
その日の夕食は私の好物ばかりで、勉強の予定もなかった。どうやら今日は、ゆっくり休ませてもらえるらしい。
いつもより早くベッドに入った私は、今日の反省会を始めた。
次のライオネル様とのお茶会では、もっとスラスラ話せるように話題をおさらいして、余裕を持って接しなくては。
それから、持ち帰った課題についても考えなければならない。
ライオネル様の愛称って、何かしら。
呼び捨てなんて絶対に無理だわ。
しかし婚約者からのお願いだから、課題を放置するわけにはいかない。
……それだけの話だ。
そう自分に言い聞かせながら、私は眠りについた。
口元には、穏やかな笑みが浮かんでいた。




