プロローグ
私は今日も、愛する婚約者の尻拭いをしている。
王宮の執務室、その最奥が私の定位置だ。
私以外にも、目が死んでいる疲れきった文官たちが今もあくせく働いていた。
私は一応誇り高き公爵令嬢で、次期王妃なのだけど。
身分にふさわしい優雅な生活とは、程遠い有様だった。
毎日机に張り付いているせいで、まだ二十歳だというのに腰痛に悩まされている。
しかも、私専用に支給された最高級の椅子を使っていても、これである。
「お待ちください、殿下!」
「なぜ止める!? 俺だぞ!?」
ふいに、廊下の外から騒がしい声に、私はすべてを察した。
ため息を飲み込んだ、次の瞬間。
王宮には似つかわしくない大きな音を立てて、扉が開く。
「おい、リリィ!! 俺が来たぞ!」
予想通り、私の婚約者であるライオネル王太子殿下だった。
私と違って、王太子という身分にふさわしい煌びやかな服装は、この部屋ではかなり浮いてしまう。
顔立ちまで良いものだから、このまま夜会にでも行けそうな姿だ。
こうしてライオネル様が、時間も場所も構わず仕事の邪魔……否、私に会いに来るのは日常茶飯事である。
同じ部屋にいる文官たちは慣れたもので、簡易的な礼をとった後はすぐに仕事に戻る。
それもそのはず。ライオネル様は私しか見えていないのだから。
私は彼がこちらへたどり着くまで、書類から目を離さず必死にペンを走らせた。
この後どうせ仕事が滞るのが確定しているから、最後の悪あがきだ。
やがて私の机に影がさした。
「リリィ……」
先程とは違って蚊の鳴くような声で呼ばれ、私はゆっくりと顔を上げる。
「……あら、ライオネル様。私に会いに来てくれたのですか?」
「今気づきました」と言わんばかりに私は彼に向かって満面の笑顔を浮かべる。
全然最初から気づいていたし無視していたが、嘘っぱちでも言葉には出していないので、嘘をついたことにはならないのだ。
私は分かりやすく喜んでいるように目を細め、あざとく手を頬に当てておいた。
単純なライオネル様には、言葉だけではなく態度まで見せてあげることが大事なのだ。
……おや、返事がない。
いつもなら私の言葉に被せるかのように、
「そうだ!!! 俺が来てやった幸せを噛み締めて喜ぶがいい!!」
などと叫んでは、尊大な態度で仰け反っているというのに。
彼を見やれば、珍しく何か言いたげに口をもごもごさせている。
普段は横暴さや粗雑さが隠せない我儘君主の代表のようなライオネル様だというのに、今は妙に情けない顔をしていた。
なんだか、存在しないはずの犬耳まで垂れているように見えて、私は思わず目を擦った。
……やはり寝不足は良くない。
このあと王宮医に診てもらった方がいいかもしれない。
「ライオネル様、どうされましたの?」
私は可愛らしく首を傾げる。
「リリィは仕事と俺、どっちが大事なんだ……?」
彼は潤んだ瞳でそう言った。
その予想外の問いかけに、思わずペンを握る手が止まった。
……私はあなたの尻拭いのために仕事をしているんですけどね!?
と叫びたいところだが、そういう訳にも行かないのだ。
そもそも周りに人がいるというのになんて質問を……と舌打ちしたくなるのを抑える。
そして私はキリのいいところでしぶしぶ仕事の手を止めた。日々愛用して酷使しているペンを、自ら折りたくはないもの。
なぜこんなことを聞かれたのかと考えて、ふと思い出す。
最近忙しすぎて、ここ一週間は彼とゆっくり話すどころか、顔すら見ていなかった。
なるほど。寂しくなったのだろう。
私に嫌われたのではないかと不安になって、こんなふざけたことを聞きにわざわざ来たのかもしれない。
……とはいえ、もう少し人目を気にしてほしいものだ。
そんなことを考えているとは悟られないよう、私は目を細めてライオネル様を見つめた。
そして、私より背の高い彼に近づき、そっと抱きしめる。
「……そんなこと聞かせてしまってごめんなさい。そんなこと、私達の仲なら聞かずとも明白でしょう?
私もライオネル様と会えず寂しゅうございました」
もしかしたら私、名女優になれるかもしれない。
今から全部の仕事と責任と立場を放り投げて女優になろうかしら。
ライオネル様は私の言葉を聞いて分かりやすいほど表情を明るくした。
「……そうか!! いや、俺は寂しかった訳では無いぞ!」
嘘つけ。
明らかに私の数千倍は寂しかったであろう犬王子は、私にだけ見えるしっぽを嬉しそうにぶんぶんと振っている。
王族としては欠点でしかないが、感情が分かりやすいところは実に犬らしくてお可愛いこと。
「まあ、失礼しました。私も寂しいと素直に口にすればよかったのですね。ライオネル様は本当にご立派ですわ」
「うむ! だが恥ずべきことでは無いぞ、寂しくなったらいつでも俺に言うがいい!」
「まぁ、お優しいですね」
私のささやかなる嫌味もすり抜けて胸を張る能天気な王子に、にこりと笑いかける。きっと彼はこの笑顔もありがとうの気持ちと受け取ってくれることだろう。
いつものような尊大な態度に戻ったということは元気を取り戻したのだろう。
どうやら私に会いたいという目的は達成したようだ。そろそろお帰りになるかなと期待する。
……それにしても、どうして仕事場でイチャついているところを文官たちに見せつけなきゃいけないのか。この後に半笑いで書類提出されるのは私なんだぞ。
あぁ、このやり取りの時間だけで三件は仕事を処理できたものを。今日も何時に寝られることやら……と泣きたくなってくる。
「そうかそうか、リリィは俺に会えて泣きそうになるほど寂しかったんだな!」
「ふふふ」
まあ、いいでしょう。これで機嫌も直ったようですし。
彼に尽くすのも、世のため国のため。
腐った王族に嫁いでしまったのが運の尽きか、自身の真面目さを恨むべきか。
王宮内でライオネル様は「ポンコツな王太子」と噂されている。
未来の王に対して不敬な噂など、優秀な私が地道に叩き潰しているので、そのうち聞かなくなるだろう。
私が王妃になったとき、邪魔な不穏分子を残しておく必要はないもの。近い将来、「愚王の妻」なんて陰で囁かれることになったら、私の矜持が許さない。
こんなライオネル様に尽くす、聖母のような私だが——
一度だけ、この王子を手のひらで転がすのを諦め、婚約破棄をして握りつぶしてやろうかと考えた時期がある。
彼との出会いを思い出せば、もう十年も前になる。




