紫陽花が散る音
約束の時間を裕に半時過ぎてることを、錆び付いた公園の時計は知らせる。遠くの妖々と光る橙を眺めていると、微かに祭りの賑わいが影を伸ばす。
「おーい、ごめんごめん。洋服感覚で浴衣は着れるものだと思っていたらさ、案外着付けって難しいんだね。あっでもこのデザイン綺麗じゃない? 古き良きって感じ!」
俺が彼女を一人で待っていた公園で、彼女は紫陽花の散りばめられた浴衣を俺に見せびらかす様にクルクルとポーズをとる。彼女曰く祭りには浴衣が絶対らしい。
「確かに、綺麗だ」
待たされたことに対する些細な反撃として、敢えて浴衣か彼女か、どちらの事かは口にしない。
彼女はその俺の言葉を警戒して目を細める。彼女も敢えて俺がどちらのことを言っているのかは聞いてこなかった。
そんな様子を見て軽く和み、頬が緩んだところで「冗談だ、ちゃんと似合ってる」と一言訂正を入れて、また和む。
「さ、行くんだろ? もう遅いし、今からだとイベントは花火くらいしか残ってないけど」
「当たり前じゃん。それと私としては花火が見れればそれで充分、祭りの醍醐味は花火だからね」
彼女は遅れてきた事に対して、大して悪びれる様子もなく、花火への期待を膨らませているようだ。
「オッケー、じゃぁ行こうか」
カランコロンと彼女の履いた下駄が心地よいリズムを作りながら進んでいく。その音についつい釣られて、暗闇に紛れて彼女の横顔を盗みみようとしたけれど、失敗、先回りされていた。数秒見つめ合って照れくさくなって、目を直ぐ逸らしたけれど、それもまた直ぐにちょっとだけ後悔した。
足を進めて行くにつれ微かだった祭囃子が勢いを増し、道中転々と据えてあった灯篭の火は、連なり橙の一縄になっていった。瑰麗かいれいな景色に特筆するほどでもない雑談を交わしながら、数分。目まぐるしい量の提灯がぶら下がった祭りの中心通りに出た。平生とは比べ物にならない人で溢れかえった道、少しでも気を抜けば押し流されてしまいそうな勢いがある。集合を好まない俺や彼女にとって、この光景は最も苦手とする物の一つだ。
彼女を見据える。淡い光が当たった顔はとても体調が優れているとは思えない、そんな表情を作っていた。
だから、手を取った。此処は俺達の居場所じゃないから、二人で逃げる事を決めた。
二人で人込みの中、僅かな隙間を縫いながら夏祭りの中心通りを横断する。何度も人に流されそうになった。それでも彼女の手は決して離さないように、固く握り進んで行く。
「なぁ、花火が見られればそれでいいんだよな?」
小声でそう訊くと彼女の首がコクっと縦に揺れた。実を言えばここは俺の地元で何度もこの祭りにはいったことがある。祭りに群衆は付き物で花火だけを楽しみにしていた俺にとっては邪魔でしかなかった。
だから穴場とも呼ばれる、人が全く来ない、しかも花火が綺麗に見える場所を実は何か所も知っていたりする。
彼女を連れてそこへ向かう、すれ違う人の足は皆俺と彼女とは反対方向に向いていて、バカの一つ覚えの様にメイン通りで花火を見ようと足を急かし、有象無象と化した人の荒波へ次々と飛び込んでいた。
すれ違う他人の中にはカップルが沢山見えた。毎年憎い目で見る、まるで自分達の事しか考えていないのだろうと推察できるほど、燥はしゃぎ狂う彼ら・彼女らを観て、今年だけは妬み嫉みといった黒い感情を一切覚えなかった。
理由は見え透いているから、敢えて言葉にするような無粋な真似はしない。目を逸らすのは得意なんだ、理由なんて俺は知らない。
この頬の熱も、きっと気の所為だ。
人込みを抜けて階段を上り始める。彼女と手は繋ぎっぱなしだったけれど、彼女は忘れているのか何も言ってこなかったので、便乗、俺も忘れている振りをした。
そうやって俺は、この行動を普遍的なものと錯覚したかったのかもしれない。
階段の半分ぐらいまで来たときだろうか、突然爆竹の音が鳴り響いた。同時に彼女に繋がれていた手が少しだけ強く握られた。
残念、ここまでだ。目が合ってしまえば普遍と偽っていた仮初に触れざるを終えない。気付かなかったじゃ、もう誤魔化せなくなるから。
「あぁ、ごめん。繋いだままだったね」
彼女は申し訳なさに寂しさを滲ませた顔をして、俺から手を放した。そう見えたのは主観だけかもしれない。彼女の手の温もりが幽かに残留した右手はどこか切なく、俺は拳を開いたり閉じたりして、またそれを紛らわそうとする。
そのまま足を進めて、メイン通りから少しだけ登った所にある、ほぼ空き地と同義の小さな公園に辿り着いた。
「ねぇ、高崎。本当に此処から見えるの? みんなはあんな下にいるのに、ここからじゃ綺麗に見えないんじゃない?」
少しだけ元気を取り戻した彼女は、ベンチに座るなり早速疑問と不安の混じったものと俺に投げかけてくる。
実に彼女らしい。
「正面にさ、湾がみえるだろ? この祭の花火はいつもあそこから打ち上げられるんだ。そして毎年規格外な大きさのものが打ち上げられる。度肝を抜かれるくらいね。だからメイン通りじゃ首が痛くなるほど上を見上げないと全体が見えないんだ。でもここだったらある程度距離があるし、ちょっとだけ高度がある。ここの方がメイン通りなんかよりもずっと楽に綺麗に見れるよ」
そういって俺は彼女の横に座った。
ベンチに手を置くと彼女の手がそこを先に占領していて一瞬だけ重なる。俺は反射的に手をひっこめた。
「悪い」
「別に……構いわせんよ」
彼女は聞きなれない日本語で呟く様に返事をした。祭りの赤い光が俺と彼女の頬を、恍惚とした橙色に染めあげる。
それは……手を重ねていても良いと。
まぁ、もしそうだったとしてもそんな勇気俺には無い訳で。そもそも俺には抜かれるような肝も据わっていないんだ。どこまでも俺は弱い。こんな俺が最近嫌になる。御子柴が死ぬのを手伝い始めてから、他の奴ならもっといろんなことを彼女にしてやれたのかもしれない、もっと彼女を満たすことができたのかもしれない、なんて考えるようになっていた。
もし無い物だらけで欠陥品の俺じゃなく、もっとしっかり者で誠実で頭が冴えていて人望もあって底抜けに明るく優しい、そんな奴が御子柴の手伝いよ引き受けていたとしたら……
万が一、億が一くらいには御子柴に死なない未来を与えれたのかもしれない。なんて、
これは冗談だ。悪い悪い冗談だ。
「始まったみたいだよ、高崎。ほら」
そう言われて顔を上げる、見事予想どうり、去年ここで一人きりで見た光景が目に映った。黒のカーテンに光の絵の具が一斉に撒き散らされ、大輪の花が現れる。やっぱり馬鹿みたいにでかくて、去年より火の描く線が少し繊細で煌びやかに見える気がする。
君が隣に居るからかもしれない。と、劣等の権化のような俺が発して良い言葉じゃないな、彼女も困惑してしまうだろう。
それでも心臓が躍動する、これは生理現象だ、そう言い聞かせ、花火と同様に軽快に開花した俺の思いを押し殺す。
現状を例えるなら、そうだな……夜空に一瞬だけ浮かぶ大輪の紫陽花とでも言っておこうか。言えないけど。
そして、君みたいだ。なんて恥ずかしくて声には出せないけど。
「うわぁ……」
七色に輝きそしてすぐに跡形もなく消える、儚くも美しい。違うな、儚いからこそ花火は美しい。消滅が約束された燦然さんぜんな炎。毎年同じ物を見て、同じ事を感じる。でも、それは伝える人間が永久欠席の為どこに吐き出すこともなく、そっと自分の中に閉じ込める。そして摩耗していき、いつの間にか忘れてしまう。
その時思った感情さえも散り散りになって消えていく。儚い夢のような一瞬。
俺の心のうちに咲いた、目の前の大きな花火にも勝る大輪の感情もまた、時に希釈されそう遠くない日に消えてしまうのだろう。
夜空に映える花を物思いに耽るように眺めた彼女を、俺は見てこう思う。消えてしまうとしても、摩耗してしまうとしても、この感情は何らかの形を残す気がする。この感情はある意味を持って必ず何かを果たすのだ、と思った。
どうしてか、嘘でもいいから俺はそう思っていたかった。
「なぁ、御子柴。今日は死ねそうか?」
「いいや死ねない、でももう幸福で私はいっぱいだよ。だからさ、明日の夕方この場所で夕陽を見ながら死のうと思う。この場所って位置的に夕陽も綺麗に見えるよね、あっちが西側だから海に映った夕日が見れるはず」
「すごいな、大当たりだ。じゃぁ明日の夕方な。忘れないでちゃんと俺も立ち会わせてもらおう」
「うん……ちゃんと来てね? いくら私でも人生の最後が一人なんて寂し過ぎるからさ。最後は孤独なんて忘れて死にたい、だから必ず来てね」
その言葉は俺に「逃げるな」と突き付ける。自分の内での勝手な解釈に少し心を締め付けられながらも、彼女が決心を覆さないように、感情に反して頬を明るく歪ませ肯定した。
ドン、と盛大な音を立て、また一つ天空に花が咲く。
「あぁ、ちゃんとわかってるよ」と花火に照らされた彼女の満面の笑みに向けて、俺は軽薄に微笑んだ。
それでも、自分を偽りきれず、ただ彼女を少しでも感じていたい、そんな焦燥めいた衝動に駆られ、愚かしい感情が臆病を麻痺させたらしい。俺はゆっくりと彼女の手に自分の手を重ねることが出来た。
氷細工を掴んだ。脆弱で華奢な、そんな手だった。
あぁ、やっぱり。
俺は御子柴の事が××だ。
今、そう確信を持った。




