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再挑戦~再生

 二十一 再挑戦

 あれから、曽根は妻にも打ち明けたのをきっかけに、精神科医のカウンセリングを受けることになった……と、後日理咲からの連絡で、知ることになった。やはり曽根は幼少期に、実の父親から『躾』と称した虐待を受けていたことが明らかになったが、驚くべきことに、曽根にはその頃の記憶が残っていなかったらしい。精神科医の話によると、『心』にあまりにも大きな衝撃を受けると、そういうこともありうる、との見解だったそうだ。

 また、曽根一家にとっては幸いと言うべきか、これまでの被害者から訴えられる様な事もなく、示談金を支払うにとどまった……とのことで、もちろん武士に対しても打診があったが、武士はとにかくまとまった金ではなく、仕事がしたい……と訴えると、また例のコンビニで働ける様に、取り計らって貰えることになった。

 それから数日後、コンビニの店長から武士の携帯に電話が掛かってきて、

 「川藤君!良かった、また君に働いて貰えることになったよ!君さえ良ければ、早速明日の夜間からでも来てもらいたいんだが……大丈夫かい?」

 そう、嬉しそうに話す店長に、武士も思わず、

 「ありがとうございます。早速、明日から伺わせて貰います。」

 すぐに良い返事をすると、店長は、

 「僕ね、あれから何度か本部に掛け合ってみたんだ。そりゃあ君は、元ヤクザで前科があるかも知れない……だが、『今の彼はとても真面目で仕事熱心だし、それに何より、夜間のコンビニでの仕事は危険な時もあるから、彼はそういう点でも安心して任せられる、うちには必要な人材なんだ!』って、そう言ってやったんだ。しばらく有耶無耶にされていた様だったが、うちの店で責任を取れるのであれば……と、許可が下りて、本当に嬉しかったよ。これで……少しは君に恩返しが出来たかな?」

 店長は誇らしげにそう話した。武士は、きっと本部が動いたのは、曽根の影響だろうと思いつつも、彼が自分の様な者の為に、そこまでやってくれていたということが分かり、込み上げるものがあった。震える声で、

 「ホンマに……おおきに、店長。」

 そう言うと、店長は電話口で鼻をすすりながら、

 「これからまた、よろしく頼むよ、川藤君。」

 「……こちらこそ、またよろしゅう頼みます。」

 最後はお互い笑いながら、電話を切った。

 その後、真弓は無事看護学校を卒業し、そして、看護師の資格試験にも合格を果たすと、内定を取っていた都内の病院で働き始めたのをきっかけに、武士の部屋で同棲することになった。

 真弓が住んでいた元々の家は、父康夫の死後も親戚たちが居すわり続け、その後、真弓が看護学校の寄宿舎にいた為、すでに彼女の居場所など無くなっていたからだ。

 真弓の就職と入れ違いに、高卒資格認定試験に合格した武士は、救急救命士の資格を得る為、専門学校に通い始めた。学校に通いながらも、週末はコンビニで夜間バイトを続けたので、ほとんど真弓とはすれ違う日々だったが、一緒に暮らせる……もう一人ぼっちではないということが、武士と真弓、孤独を知る二人にとっては、幸せな事に違いなかった。

 それに、他にも喜ばしい出来事があった。まず礼司が、ハッキングの技術を曽根に認められ、正式に『ソネシステムズ』の社員になったことだった。……とはいえ、ほとんどを家で仕事する彼にとって、やっている内容こそ変わったものの、環境としてはほぼ同じだったのだが。

 それから理咲が、武士達と同じマンションに部屋を借りて住むことになった。どうやら、例のバカでかいマンションは売却したらしく、普通の間取りでの生活の方が、特に独身者向けに、自分がデザインしたインテリアを使ったコーディネイトがしやすいから……と、理咲は話していたらしいが、きっとそれだけの理由では無く、売却した金を被害者への償いに充てたのではないか……と、武士はみている。

 それはともかく、一気にご近所さんになった理咲と真弓は、年齢も近い為、すぐに打ち解け、気が付くと時々二人……たまに弥栄子や、真弓の高校時代からの友人である紗枝やリカも一緒に、女子会を楽しむ程の仲になっていた。同年代に友人がいない武士にとっては、うらやましい限りであったが、そうやって真弓が楽しそうにしているのを見るのも、武士にとっての喜びとなった。

 さらに三年の月日が流れ、無事専門学校を卒業した武士は、晴れて救急救命士になった。かねてから山岸に声を掛けて貰っていた通り、彼らが起ち上げた医療機関に就職が決まって、安定した収入を得ることが出来る様になった為、真弓にプロポーズすると、彼女は涙を流しながら、

 「『お兄ちゃん』って呼ぶの、やめなきゃね……?」

 そう言って、とびきりの笑顔を見せた。

 既に一緒に暮らしていた武士と真弓は、当面の生活に大きな変化は無かったが、籍を入れる際、『神村』姓にした。武士自身、『川藤』姓に未練は無かったし、真弓の権利を考え、その方が良いと判断した為だ。

 入籍後、真弓より少し早く結婚した紗枝や、真弓と同じく看護師として働くリカら、ごく親しい友人達だけを招いての、結婚報告を兼ねたミニパーティを開いた。その時点で、既に真弓は身籠っており、その半年後には、二人の第一子となる剛士が生まれた。

 そうしてまた更に三年後……

 「病院で、『女の子だ』って言われたよ。」

 真弓は、最近目立ち始めたお腹に手をやり、仕事先から帰宅した武士に報告をした。

 「ホンマに!?やったー!ほら、剛士も!」

 武士は、保育園から一緒に帰って来た剛士の方を見ながら、両手を挙げる仕草をすると、

 「やったぁ!やったぁ!」

 剛士も同じ様に両手を挙げて、その場で飛び上がる。男二人でバンザイしながら、「やったぁ!」と連呼する姿をみて、

 「ちょっと!やめてよ、二人とも!下の階に響くでしょ!!」

 そう注意しながらも、真弓は顔を真っ赤に染めている。嬉しい反面、二人の異様な喜び様が恥ずかしいのであろう。

 「きっと、おかーたんに似た別嬪やろうなぁ……。」

 そう言いながら、相好を崩す武士を見て、真弓も思わずつられて微笑んだ。

 「あ、そうや、来週小林さんに会うから、また報告しとくわ。」

 武士は、三年前に定年退職した小林と、時々会っている。現役時代は彼の職業上、接触を控えていたのだが、定年を機に、小林から連絡を取ってくれたのがきっかけだった。

 「え?まだ早いんじゃない?出産予定日はまだ四ヶ月先なのよ?」

 「いや、だって剛士の時かてあの人、『どうして教えてくれなかったんだ!?』言うてたし……。」

 当時、まだ定年を迎えていなかった小林には、真弓との結婚の際も、剛士が生まれた時も、手紙で一通りの報告をしただけだったからだ。

 「近いうちに私も一緒に行くから、その時にしない?」

 「せやな。その方がきっと小林さんも喜ぶわ。」

 武士はそう言って、目を輝かせる。表情がよく変わるのは、以前と全く変わらなかった。

 「大阪にも……連絡しておかないとね?」

 真弓がそうポツリと言う。大阪とは、武士の母のことだ。剛士が生まれて半年程経った頃に一度訪れたら、思いのほか歓迎してくれた為、以来、真弓は自分から時々連絡を取ってくれている。武士は真弓の顔を見つめて、

 「ホンマ、おおきに、真弓ちゃん。俺には過ぎた嫁さんやなぁ……。」

 武士はそう言って、真弓の頭を撫でる。

 真弓は内心、(また子ども扱いして……。)と思うのだが、武士に頭を撫でられるのは、いつも悪い気がせず、自分でも不思議だった。

 「おかーたん、ケータイがブルブルしてるよ?」

 剛士がそう言って、真弓の袖を引っ張る。

 「あ、ホントだ!」

 真弓は慌てて、リビングに置いてある携帯電話に出ようと画面をみると、弥栄子からの着信だった。

 「もしもし、弥栄子さん?病院?今日、行って来ましたよぉ……。え?どっちだと思います?」

 そう電話で話す真弓を、眩しそうに見つめながら、武士は剛士の頭を撫でた。

 そうして、二人目の弓奈ユナも生まれ、武士と真弓の二人が夢見た幸せな家庭を築いていった。

 それからまた六年が経過し、武士は四十四歳となって、図らずも父功士の年齢を越えた。真弓は三十五歳となり、お兄ちゃんの剛士は小学四年生、妹の弓奈もこの四月から晴れて小学生になった。

 弓奈の入学から二カ月以上が過ぎた、ある六月の日曜日、剛士と弓奈の通う小学校で運動会が行われることになり、これまで武士は、自分の過去の事などもあって、積極的に子供たちの学校行事に参加することはなかったのだが、その日はたまたま非番だった為、真弓と二人で応援に行くことにした。

 お昼に、子供たちと一緒にお弁当を食べ、こんな風に家族揃って共に過ごすことは、自分もだが真弓も、子供の頃に経験出来なかったことだろう……そう思い、もっと自分も積極的に参加しないといけないな……などとボンヤリ考えている内に、最後の競技……六年生の組体操が始まった。剛士はどうするのかわからないが、弓奈は運動会終了後に、武士達と一緒に帰ると言っていた為、子供たちの出番は終わっていたが、最後まで観戦することになったのだ。

 組体操もいよいよ終盤に差し掛かり、徐々に大きなピラミッドを作り上げていたが、その時異変が起きた。すぐ隣で担当教員が監視していたにもかかわらず、バランスが崩れたと思うと、かなりの速さでピラミッドが崩壊した。子供たちの悲鳴が巻き起こる。監視に当たっていた教員全員が駆けつけ、子供たちはすぐに助け起こされたが、一番下敷きになったと思われる男子生徒一人が、ぐったりとした様子で動かない。それを見た武士は、無意識に観覧席を飛び出していた。

 「佐藤君、佐藤君!」

 教員たちが生徒の名前を必死で呼び掛けている。武士は教員をかき分ける様に、男子生徒の側へ行き、

 「四年一組、神村剛士の父です。救急救命士です。」

 そう名乗ると、教員たちは場を開けてくれた。武士はすぐに、真っ白な顔をしている男子生徒の脈をみるが、恐れていた通り、確認出来なかった。すぐさま男子生徒を抱き抱え、

 「AED、ありますか!?」

 そう声を掛けると、救護テントを目指す。移動中に一人の教員が、

 「救護テント内に設けてあります!」

 予想していた通りそう答えたので頷き返すと、そのまま足早にそこへ向かった。

 テント内に入り、用意されている簡易ベッドに男子生徒を寝かせると、武士はすぐに心臓マッサージを開始した。

 心臓マッサージの最中に、この生徒の両親だと思われる二人組が駆け込んできて、

 「翔琉!カケル!ああ……っ!!」

 そう、子供の名前を呼ぶが、まるで反応が無い様子に、母親はその場に崩れ落ちた。武士は、心臓マッサージでは回復しない為、呆然と立ち尽くしたままの父親に、

 「AEDを使いますが、よろしいですね!?」

 そう早口に尋ねると、理解したのかどうかわからないが、頷き返してきた。迷っている暇は無い。電源を入れ、手早く生徒の身体にセットすると、間もなく「ショックが必要」と装置が告げる。

 「子供さんから離れて下さい!」

 武士はそう言いながら、手で周囲の人間を制し、除細動ボタンを押すと、ショックを受けた生徒の身体が少し痙攣する様に震えた。

 その後、装置のメッセージ通り、再度心臓マッサージを行うと、程無く心拍が戻って来た為、武士は胸を撫で下ろす。

 「もう大丈夫やと思います。後は……救急に任せたらええですわ。」

 そう言うや否や、誰かが連絡していたのであろう、救急車のサイレン音が聞こえたと思うと、救急隊員達が数名現れたので、武士は手短に状況を説明してから、すぐその場を立ち去った。

 観覧席に戻ると、真弓が心配そうな面持ちで、

 「お疲れ様。あの子、どうなったの?」

 すぐさまそう尋ねて来たので、

 「もう大丈夫や。心拍が回復したさかい。」

 武士がそう答えると、ほっとした表情で、

 「良かった……!」

 そう言って、微笑んだ。

 結局その日の運動会は、そのまま閉会となり、武士ら家族も二人の子供と共に、帰路についた。

 その翌々日、日勤から帰宅すると、同じく仕事を終えて帰宅した真弓に、

 「小学校から留守電が入っていて……何だかパパにお礼を言いたいから、明日来て欲しいってことだったわよ?」

 そう告げられる。武士はとっさに何のことか分からず、不思議そうに真弓の顔を見返すと、

 「ほら、運動会で六年の子を助けたじゃない。それと明日、今回の事故の説明会をするって。」

 あの日の晩、学校側は例の事故の件の報告を、連絡網のメールを通じて行った。武士が助けた児童は、その後まもなく意識も回復し、全身に打撲はあったものの、骨折等は無く、奇跡的に軽症で済んだらしい。まぁ、まだ精密検査を行う必要がある……とのことだったが。

 それを知った武士や真弓は胸を撫で下ろしたものの、やはりメールのみの説明では一部の保護者達が納得せず、学校側は対応を迫られていたのだ。もしや、その説明会の場で、自分に対してお礼を言いたいとでも……?武士が渋面になっていることに気付いた真弓が、

 「別にどうしても行く必要は無いと思うわよ?事故の説明を聞くのだって、六年生と、来年にむけて五年生の親がほとんどだと思うし。」

 武士が過去の事で、いつか自分たち家族に迷惑を掛けるのではないか……?と、日々気を遣っていることを知っている真弓がそう話すと、武士は彼女の考えを汲み取った様に、

 「変に気を遣わせてしもうて……堪忍な。あの時、俺が何も考えんと飛び出してしもうたさかい……。」

 そう言いながら、苦笑いを浮かべる。すると真弓は、武士の方に向き直り、

 「何言っているの!?あの時パパが助けてなかったら、あの子は死んでいたかも知れないのよ?少なくとも、私があの子の親だったら……ううん、あの子じゃなくて剛士や弓奈だったら、助けてくれた人に、心から感謝するわ!」

 怒ったような顔つきでそう言うと、武士は彼女の顔を見つめながら、

 「おおきに、真弓ちゃん。」

 そう言って微笑んだ。そうして自分の家族が、このまま何事も無く、いつまでも穏やかに過ごせたら良い……そう心の中で祈った。

 だが武士の願いも虚しく、後に彼が危惧していた通りの騒動へと発展することになる。

 運動会から一週間が過ぎ、ようやく例の事故の騒ぎも収まりつつあると思われていたある日、夜勤明けの武士は午前中には家に戻っていて、少し仮眠を取った後、夕刻になって、そろそろ夕飯の支度をしようかとキッチンに立った時、剛士と弓奈が学校から帰って来た。

 剛士はこの四月から、学童保育は無くなったのだが、入れ代わりに妹の弓奈が学童に入ったので、大抵自分の授業が終わったら、一緒に連れて帰ってきてくれている。親の目から見ても、剛士は妹思いの、面倒見の良いお兄ちゃんだと思われた。

 「ただいまぁ〜!あ、今日はパパが居る!何かおやつ、ちょうだい!」

 そう言って、弓奈は嬉しそうに手を洗いに洗面所へ行く。

 武士は二人に「お帰り。ママのプリン、あるで。」と、声を掛け、早速弓奈の好きな、真弓の手作りプリンを冷蔵庫から出してやった。

 歓声を上げながら、リビングに顔を出す弓奈とは対照的に、剛士は心なしか沈んだ口調で、

 「先に宿題、やるから……。」

 そうとだけ言うと、自分の部屋に入ってしまった。

 武士自身、親は父一人しか居なかったので、必要な事はきちんと話していたとは思うが、弓奈の様にむろん母親である真弓や、それに父親である自分に対して、色々おしゃべりすることは無かった為、剛士の態度も特におかしいとは思わなかったが、何か言い様の無い違和感を覚えた。いつもより元気が無いだけだろうか?そこで、それとなく弓奈に聞いてみることにする。

 「なぁ、弓奈。今日、剛士兄ちゃんはずっとあんな感じやったんか?」

 プリンを食べて、幸せいっぱいな表情をしていた弓奈は、武士の質問の意味が分からないと言う様に目を丸くして、

 「お兄ちゃん……何かヘンだった?」

 そう答えてから、何か思い出した様に、

 「そういえば……帰り道に弓奈がお兄ちゃんにお話しても、ずっと『うん』とか『そうだね』っていう返事しか、してくれなかったかも……。いつもなら、同じクラスのハセが……あ、ハセっていうのは長谷川クンって言う、ちょっとお調子者のコでね、お兄ちゃんはどちらかというと大人しいでしょ?だから、時々ちょっかいを出されるみたいで……。そうそう、この前なんかね……」

 武士は、弓奈に尋ねてしまった自分を少し呪った。このままノンストップでおしゃべりが続きそうである。小一とは思えない大人びた口調で、兄貴の同級生も『コ』呼ばわりかいな……でも女の子っていうのは、こんなもんで皆口達者なんやろうなぁ……などと、内心思いつつ、さりげなく席を立ち、弓奈の話に相槌を打ちつつ、夕飯の準備に取り掛かることにした。

 しばらくして真弓も仕事から帰宅し、四人で食卓を囲むものの、相変わらず弓奈が一人でおしゃべりをして、それに真弓と武士が相槌を打つ……そして、時々話を振られた剛士が「そうだね。」とか、「そうかな……。」などと返事をする……といった、ほぼいつも通りの光景だった。

 夕飯が終わると、子供たちはそれぞれテレビを見たり、風呂に入ったりし、真弓は食事の後片付けなど、家の用事をし始めた。武士は、子供たちに聞かれていないか警戒しながら、

 「なあ、今日剛士の様子、何かおかしないか?」

 そう話しかけると、真弓は少し考えてから、

 「確かに弓奈と違って、剛士はもともと口数が少ないけど……いつもより更に大人しい感じではあったわね。でも、それだけお兄さんになったってことじゃない?」

 「まぁ、もう四年生やし、親に話したくない事の一つや二つ、あるんやろうけど……。」

 武士がそう答えると、真弓は笑いながら、

 「何か引っかかるのね?」

 真弓の、(過保護なんだから!)的な、ちょっとからかう様な口調に、少しムッとしながら、

 「……まぁそんな感じかな……。」

 自分でも思っていた以上に、低い声音の返事しか出来ず、困惑する。武士の態度に、真弓も驚いた様に目を見開いたが、すぐに気を取り直した様に、

 「後で私から、それとなく聞いてみるわね。だから、心配しないで。」

 そう言って、微笑む。武士も頷きながら、微笑み返した。

 用事を済ませた真弓が、子供たちの部屋に行くと、剛士は一人、手持無沙汰な様子で机の前に座っており、彼にしては珍しく、ノートや教科書が広げられた状態のまま、物思いに耽っている様子だった。本来であれば、剛士はどちらかといえば几帳面な性格らしく、机も常に綺麗に整えられており、春から弓奈の机を隣に並べると、さらに一目瞭然な感じであったが、今は色々なものがぶちまけられたまま……といった有様だった。それを見た真弓は、

 (これは……確かに何かあったのかも。)

 そう思いつつ、なるべく平静を装って、

 「明日の用意はもう済んだの?」

 そう声を掛けると、剛士は俯いたまま「ううん、まだ……。」とだけ、返事をした。

 「そう言えば……運動会の時にケガをした六年生の子は、もう学校に来ているのかな?」

 真弓の問い掛けに、剛士は一瞬弾かれた様にこちらを向いたが、やはりまた俯く。

 (ビンゴ……かな。)内心そう思い、真弓は彼には聞こえない位の小さな溜息を吐いた。

 武士の行動が、一人の命を救ったのに間違いは無いが、だからと言って良いことをした人間が、常に賞賛の的になるわけでは無い。それが却って、やっかみを生むことになる……そういうこともあるのだと、真弓は彼より人生経験があるが故に知っていた。

 「……お父さんのことで、何か言われたの?」

 そう尋ねても、剛士は黙って俯いたままだった。

 「でも、お父さんがすぐにあの子を助けに行ったから、あの子は助かったんだよ?」

 「うん……。」俯いたまま、返事をしてきた。

 (あと一押しかな?)真弓はそう思う。

 「だからお父さんのしたことは、とても良いことなんだって、剛士にはわかるわよね?」

 「でも……っ!」

 剛士は、今にも泣き出しそうな……切羽詰まった表情で、

 「お父さんは、人を殺したことがあるんでしょう!?」

 その言葉に、真弓は凍りついた。

 剛士たちには、武士が昔『ヤクザ』だったということは話している。背中の刺青について、他に説明出来ないし、かといって、武士自身も自分の過ちを忘れない為……それに、弥栄子に彫られたものだという事もあり、『消す』という選択をしなかった為だ。だが、人を殺したという事実については、いずれ打ち明けるとしても、今はまだ早すぎると判断して、話していなかった。

 青ざめながら、動きを止めた真弓に、

 「ねえ!本当なの!?お父さんが人殺しだったって!?」

 剛士は必死の形相で、そう問い詰める。真弓は明らかに動揺していた。口の中がカラカラに乾燥し、舌が思う様に動かない。必死で言葉を探そうとするが、

 「……そんなこと、誰から聞いたの……?」

 そうとしか言えなかった。

 「クラスの連中皆がそう言っていたよ!『お前の父親は昔人殺しだったんだろ?格好つけて六年生を助けたのは、きっとそのツグナイなんだ。』って、そう……言われて……。」

 とうとう堪えきれなくなった様子の剛士が泣き出した。思わず真弓は自分の胸に抱き寄せる。剛士は母親にしがみついて、しゃくりあげた。

 その様子を、部屋の扉の向こうで聞いていた武士は、恐れていた事が現実になったこと……そして、十数年前に自分が曽根に言った事を思い出して、渋面になった。

 (『いつまで自分の家族を欺き続けるつもりなんや!?』って、俺はそんなこと、自分を差し置いて、ヤツによう言えたな……。)

 そうぼんやり考えながら、

 (今の俺なら……あの時の曽根の気持ちがよう分かる。自分の秘密を知られたことで、愛する子供から嫌われる……見捨てられるかも知れへん……そない恐れた、ヤツの気持ちが。)

 殺人も犯したことのある武士にとって、真弓との出会いはまさに奇跡の連続で、結婚して、その上二人の子供に恵まれるとは、誰にも想像出来なかったであろう。そうして今では、まるで人並みの人間であるかの様に暮らすことが出来ているが、決して自分自身の犯した過ちが消え去るわけではなく、それを知った子供たちから嫌われるのも、悲しいが致し方ないことだ……そう思う。

 だが、その子供たちには何の罪もない。当たり前だが、武士が人を殺した事を知っていて、自分の元に生まれてきたわけではないし、もし生まれる前からそのことを知っていれば、別の親の方が良い……と、そう思ったであろう。

 武士自身が周りの人間から蔑まれ、自分の子供からも嫌われる……そのことに傷付いたとしても、それは納得出来ることだが、親の非が原因で、その子供が責められなければならない事態には、どうしても我慢出来なかった。だが、とにかく子供たちに本当の事を知らせなければならない……武士は覚悟を決めた。

 子供たちの部屋の扉を開けると、剛士はまだ真弓にしがみついて泣いていた。真弓が涙に濡れた目を武士に向けると、武士に気付いた剛士も、真っ赤に泣きはらした目でこちらを見た。だが、明らかに怯えの混じった視線だった。武士は直視に耐えきれず、思わず目を逸らしてしまう。

 弓奈はリビングでテレビを見ていたが、家族全員が自分たちの部屋から戻って来ないことを不審に思ったらしく、「どうしたの〜?」と言いながら、部屋の方に向かう足音が聞こえて来た。弓奈の声を聞き、剛士は真弓からあわてて離れた。

 そして、弓奈の姿が見えたところで……武士は口を開く。

 「剛士、弓奈、堪忍な。お父さん、黙ってたことがあるんや……。」

 武士の言葉に、弓奈は目を丸くしていたが、剛士はまるで聞きたくないという様に、苦々しい顔つきになる。だが……話さなければならない。

 「お父さんは二十年位前まで、『ヤクザ』やったって話は二人にしたな?だから、背中に落書きしてあるって。」

 『落書き』という言い回しは、剛士が三歳位の頃に、

 「どうして、おとーたんのせなかには、らくがきがしてあるの?」

 と、尋ねたことがあったからだ。当時、武士は、

 「おとーたんが悪い事をしたから、魔女にお仕置きされたんや〜。だから剛士は、悪い事をしたらアカンねんで!」

 そう説明をしていたのだった。内心、(姐さんに知れたら、シバかれるんやろなー。)と思いつつ、他に子供達に解る様な言い方が思いつかなかったのだ。

 武士の葛藤を知ってか知らずか、弓奈はきょとんとしたまま、「うん、知ってるよ?」と戸惑った様子ではあったが、そう返事をし、剛士は黙ったまま、ぎこちなく頷いた。

 「『ヤクザ』っていうのは、悪いことをするのが仕事やねん。だから、お父さんもぎょうさん悪いこと、したんや……。」

 それを聞いた弓奈の顔も、悲しげに少し歪む。剛士に至っては、もう武士の方を見ていなかった。真弓は剛士の隣で二人の子供の様子を、黙ったまま悲しげに見つめている。武士もそんな様子の家族を見回して、一度深呼吸をした。……勇気が必要だった。

 「お父さんのした一番悪いことは……人を殺したことや。」

 「えっ!?」弓奈が、そう鋭く声を上げる。剛士は明らかに青ざめていた。隣で真弓が何か言おうと口を開きかけたが、弓奈が一瞬早く、

 「どうして!?どうしてパパは、人を……殺したの!?」

 「……それが、お父さんの『仕事』やったからや。」

 弓奈の目に、みるみる涙が溜まっていく。そして、蚊の鳴く様な声で、

 「じゃあ、弓奈たちのことも……殺すの?」

 「そんなこと、するわけないでしょう!?」

 ひと際大きな真弓の声が、部屋中に響き渡った。

 今にも声を上げて泣き出しそうだった弓奈は、驚いて立ち竦み、剛士も弾かれた様に真弓の方を見る。武士も、滅多に声を張り上げたりしない真弓の態度に驚き、彼女の顔を見た。

 「パパはね、ママのお父さん……もう亡くなっているけど、あなた達のおじいちゃん……が、悪い人に殺されそうになっていたのを、助けてくれたのよ!?本当はパパ、悪い人からお祖父ちゃんを殺す様に命令されていたの。だからそんなことをしたら、逆にパパが殺されるかも知れなかったのに……パパは命令に逆らって、ママたちを悪い奴らから守ってくれたの!!ママが、独りぼっちになってしまう……ただそれだけの理由で、自分の命を投げ打って、助けてくれたのよ!?なのに……なのに、そんなこと、するわけ無いでしょう!?」

 弓奈は、真弓の剣幕に押され、ポカンとしていた。剛士も、初めて見る母の様子に完全に呆気にとられ、固まっている。真弓はそんな子供たちの様子にはお構いなく、なおも捲し立てた。

 「パパがヤクザになったのも、刺青を入れたのも、全部自分がそうしたくてしたわけじゃなかったのよ!人を殺したのだって、そう!殺したくて殺したんじゃない、その時はそうするしかなかったの!そうしなければ……パパがその人を殺さなければ、他の人が何人も殺されていた。だから、皆を守ろうとして仕方なく殺したのよ!パパはこの世の誰よりも、勇気があって、強くて優しい心を持っている人なの!!どうして……どうして、それが分からないの!?」

 息を荒げながら、そこまで言ったかと思うと、真弓は手で顔を覆い、声を上げて泣き出した。武士は改めて真弓の思いを知り、込み上げるものがあった。

 弓奈は、泣きじゃくる母を目の前にして、ポカンとしたままだったが、剛士が我に返った様に、武士の方を向き、

 「ママのお父さん……僕らのお祖父さんって、悪い奴らに殺されたの……?」

 掠れた声で、そう尋ねる。剛士たちには、彼らが生まれる十年位前に亡くなったと、そう言っていただけだった。

 「そうや。お祖父ちゃんはママを守るために、悪い奴らに殺された……。お父さん、お祖父ちゃんを守りきることが出来へんかったんや……だから剛士や弓奈に、お祖父ちゃんを会わせてやられへんかった……堪忍な。」

 武士がそう答えると、弓奈も我に返ったらしく、

 「どうしてお祖父ちゃんは、悪い奴らに殺されなくちゃならなかったの……?」

 戸惑いながらも、好奇心が勝ったかの様に尋ねてくる。

 「お祖父ちゃんは、悪い奴らが知られると困る秘密を知ってしまっていて……それで、ママまで命を狙われそうになっていることを知ったから、自分の命と引き換えに、ママを守ることを選んだ。それで、お祖父ちゃんは殺されてしもうたんや……。」

 「そんな……。」「お祖父ちゃん、かわいそう。」

 剛士と弓奈の声が重なる。武士は、二人の子供の目を見つめながら、

 「神村さん……亡くなったお祖父ちゃんは、お父さんみたいなヤクザにでも、自分の娘と同じ様に分け隔てなく心配してくれる様な、懐の深い、立派な人やった。きっと天国から、剛士と弓奈の事を見守ってくれてると思う……。」

 そう言うと、二人は嬉しそうに頷いた。

 ようやく真弓は泣き止み、真っ赤に泣き腫らした目で武士の方を見ると、胸元に飛び込んで来た。真弓が子供たちの見ている前で、武士に抱き着くのは珍しい。武士もそれに応えるかの様に、真弓の背中に手を回し、しっかりと抱き寄せた。気が付くと、彼の眼からも涙が零れ落ち、嗚咽を漏らし始める。真弓は武士を労わる様に背中を擦り、一緒にまた涙を流した。

 「パパ、ママ、ゴメンね……お願い、もう泣かないで……。」

 そう言いながら、弓奈が二人にしがみついてくる。そのまま、彼女も声を上げて泣き出した。

 「弓奈……剛士……お父さんこそ、今まで黙ってて堪忍やで……。お前たちに嫌われると思うて、お父さん、よう話せんかった。でも、お前たちがお父さんのことを嫌いになっても……お父さんは、お前たちの事が大好きや……それは変えられへん。だから、お父さんの事をなんぼでも怖がったらええし、嫌ってくれてええ。その代わり、お父さんがお前たちの事を愛し続けること……それだけは頼む、許してくれへんか……?」

 武士は泣きながら、二人の子供を抱き寄せた。そのまま四人一緒に、しばらく泣いた。しばらくして、弓奈は泣き疲れたのか、そのまま父親の腕の中で眠ってしまった。

 弓奈をベッドに寝かせてから、武士は真弓と、そして剛士に、

 「お父さん、なるべく早いうちに小学校へ行って、釈明するわな。だから……剛士、お前は何も心配せんでええ。」

 「釈明って……?」

 今日は色々なことが有り過ぎて、疲れた様子の剛士だったが、まっすぐな眼でそう尋ねる。さっきまでの怯えた様な視線では無くなっていた。

 「確かに、お父さんは昔、人を殺した事がある。でもそれは、お前や弓奈には何の関係も無いことや。だから、剛士のクラスの子らに、そない説明してみるわ。」

 「それなら、私も一緒に行くわよ?」

 すかさず、真弓がそう言うものの、

 「いや……俺一人で行く。剛士、構へんか?」

 剛士は一瞬、複雑な表情をしたものの……小さく頷いた。

 武士は次の日、早速小学校に電話を入れ、剛士の担任の太田先生に、例のウワサについて説明したいので、一度子供たちの前で話をさせて貰えないか?と尋ねると、校長か教頭に相談します、と言って、一度電話を切られたが、再度連絡があり、その日の昼休み中に時間を取って貰えることになった。

 学校の職員室を訪れるのは、何年振りだろう?それこそ武士の父、功士が亡くなったと聞かされた時か……それとも、東京でほんの少しの間だけ通った高校に、編入する際以来だから、どちらにしろ三十年近く前の事になる。父の死を聞かされた時と同じ様に、職員室の一角の来客用スペースの椅子に腰かけながら、感慨に耽っていると、三十代くらいの女性が現れ、剛士の担任の太田だと名乗った。武士も挨拶を返すと、すぐに校長室へと案内された。

 「失礼します。」と言って、校長室へと入る女性担任の後に、武士も続く。この歳になっても、校長室へ入るのは、何となく緊張する……そう考えてから、向こうは人を殺した事のある人間を、部屋に入れようとして、もっと緊張しているに違いない……そう思い、苦笑した。

 だが、武士の予想に反して、校長はにこやかに挨拶をすると、

 「先日は我が校の生徒を救って下さって、本当にありがとうございました。佐藤君のご両親も、是非神村さんにお礼を述べたいと、そう言っておられましてねぇ。本来ならば、こちらからお伺いすべきところを、わざわざお越し頂いて、本当に申し訳ございませんでした。」

 そう言って、頭を下げる。武士は面喰って、あたふたしながら、

 「それは救急救命士として、当たり前のことをしたまでで……お願いですから、面を上げて下さい。」

 そう言うと、校長は顔を上げ、わずかに悲しみを湛えた目で武士の方を見ると、

 「それだけでは無いのです。例の噂がお耳に入ったとのことで、大変不愉快な思いをなさっていらっしゃいますでしょう。」

 「ですが……それは本当のことですから。」

 武士の告白に、校長は一瞬息を飲んだが……目は揺らがなかった。

 「例えそうだとしても……もう社会的には罪を償われていますよね?だから、私たちがそのことをとやかく言う権利は無いはずです。剛士君のクラスでそのことを話されると……今はただの『噂』に過ぎませんが、それを真実として認めてしまうことになる……それでも、よろしいのですか?」

 流石、人の上に立ってる人やな……武士はそう思った。上手く躱そうとしている。それはまぁそうだろう。ここでクラスメイトの親に、元人殺しがいる……と保護者達に知られれば、学校側としても何の対応も無しに……とはいかないはずだ。ものすごいバッシングを受けることになるかも知れない。だが、自分も引くわけにはいかなかった。萎えそうになる心を奮い立たせる。

 「社会的には、お……私はもう罪を償い終えて、一般の方と同じ様に生活することを許されているかも知れませんけど……人を殺したという過去……事実は、一生付いて回ります。私にとって、それは自ら犯した過ちで、本当の事ですから仕方無いのですが、私の子供達は何も知らずに生まれてきたので、彼らにとっては一方的に迷惑な話です。今回のことで、彼らが被害を被ったのはすべて私の責任ですが、『噂』のままにしておくと、そのまま彼らが悪い……ということになりかねない。だから、私の口から真実を話したい……私の子供達の名誉の為に。きっと、剛士と同じクラスの子達なら、分かってくれると思うんです。」

 「おっしゃりたいことは分かります。でも、子供達にはもれなく親が付いていますよ?保護者の方たちが果たして納得するかどうか……。」

 武士の話を黙って聞き終えた後、校長は顔を顰めながら、またそう言った。武士は校長の目を見つめながら、

 「親御さんが納得出来なければ、私が一軒一軒回ってでも、お願いします。でも私は……きっとそんなことにはならないと、子供達を信じています。」

 そう言うと、校長は何かの呪縛から解き放たれたかの様に、相好を崩し、

 「分かりました。そこまでおっしゃるのであれば、どうぞ、子供達に話してあげて下さい。……保護者への対応は、私たち学校側が何とかします。ですから、お気になさらずに。」

 そう言って、一瞬悪戯っ子の様な顔つきをしたが、

 「子供たちにとって、若干衝撃的な話ではあるかと思いますが……きっと、人生という長い道のりの上で、彼らにとっても有益なことだと、私はそう思っております。」

 そう続けて、微笑んだ。武士は校長の気遣いに心から感謝し、

 「ありがとうございます……。」

 何とか礼だけ述べたが、それ以上言葉を発すると、泣いてしまっていたかもしれない。だが、本番はこれからだ。自分自身に喝を入れる。

 校長室を後にすると、昼休みを終えた子供達が自分の教室へと戻っていく真最中だった。担任の太田先生の案内で、そのまま教室へ入る。

 「はい、みんな席に着いて!もうお昼休みは終わっているわよ?」

 担任の掛け声で、子供たちは慌ただしそうに、騒がしい音を立てながら席に着く。しかし、担任の隣に立つ、誰かの父親らしき男に興味津々の様子で、「先生、その人だれ?」とか、「何?何の用?」等と一人一人が口々に話していて、一向に静まりそうにない。武士は内心、(先生っていうのも、毎日大変やなぁ……。)そう思い、苦笑した。

 「静かに!はい、この方は神村君のお父さんです。今日はみんなにお話があると言って、来られました。今から話してもらいますから、静かにして下さい!」

 太田先生からそう言われても、子供たちはしばらくの間、「え、剛士の?」「神村君のお父さんって……あのウワサの?」と、話していたが、先生に教壇を譲られた武士が前に立つと、ピタリと静まった。教室内を見回すと、剛士は一瞬父親を見たが、すぐに俯く。武士は心の中で、きっと恥ずかしい思いをしているであろう剛士に謝りながら、口を開いた。

 「四年一組の皆さん、こんにちは。おじさんの名前は神村武士と言います。太田先生から紹介してもらった通り、剛士の父です。」

 そういうと、皆一斉に剛士の方を向く。彼はますます俯くばかりだった。

 「剛士から、ちょっと気になる噂話を聞きました。きっと誰かが、ネットか何かで調べたんやと思うけど……」そう言って生徒を見回すと、何人かの子供と目が合ったが、ある一人が目を泳がせる。武士は(ははぁ……あの子、やな。)と思ったが、それも今となってはどうでも良かった。

 「その噂……おじさんが昔、『人を殺したことがある』というのは……本当の事や。」

 そう言った瞬間、ざわめきが起こった。口々に「ええっ、ウソ!?」「それって、本当だったの?」という子も居れば、ポカンとしたままの子や、明らかに怯えた様な表情になった子も居た。心なしか、先程校長室でのやり取りを聞いていた筈の担任の顔も、引き攣っている様に見える。

 「ゴメンな、もう少しだけおじさんの話を聞いてくれるか?」

 武士がそう言うと、皆押し黙った。そして一様に俯いてしまう。だが、話を続けた。

 「おじさんは二十年位前まで、『ヤクザ』でした。『ヤクザ』って、みんな、大体どんな人らってことはわかるか?」

 そう問いかけると、お調子者っぽい男の子が、好奇心に負けたかの様に、

 「俺、知ってる!怖いおじさん達のことでしょ?……でも、おじさんは、あんまり怖そうに見えないけど……?」

 そう自分で言って、戸惑った様子を見せる。彼の周りで少しだけ笑いが起きた。

 武士は、(この子が、弓奈の言うてた『ハセ』って子やな。)と、彼の名札に書かれている『長谷川』という字を見て思いつつ、微笑んでおどけた風に、

 「今はもう『ヤクザ』とちゃうから、かな?」

 そう言うと、ハセという子はバツの悪そうな笑みを浮かべた。それから武士は一度、彼から目を離し、また話を続ける。

 「そう、『ヤクザ』は怖い。その中でもおじさんは、人を殺すことが仕事やった……。」

 その武士の言葉に、また教室中が静まり返る。だが、大人びた印象の女の子が、

 「……何人位、殺したんですか?」

 緊張の為か、少し震えた様な声で、だがはっきりと、そう尋ねてきた。

 「自分で分かっているのは二人やけど、もしかしたら……もっと殺したかも知れへん。」

 武士の答えに、

 「自分で殺したのに、どうして分からないのですか?」

 その子はさらにそう尋ねた。武士は目を伏せながら、

 「おじさんが……銃で撃った時に、すぐに死んだと分かったのは二人で、後何人かは、その時はまだ生きていたけど……もしかしたら、後から死んだかも知れへん。だから……」

 「おじさんも銃で撃たれたの!?」

 武士が女の子への答えを少し言い淀んでいると、突然別の男の子が、そう尋ねてきて、驚く。子供というのは面白い。好奇心が時として、恐怖に勝るのだから。

 「そうやな……正確に言うと、おじさんの上司が撃たれそうになっていたのを、仲間の一人が庇って亡くなった。だから、おじさんがその……仲間を殺した人を、撃ち殺した。もう一人は、やっぱりおじさんの上司を狙って、銃を構えていたのを、先に気付いたおじさんが撃って……殺した。」

 「ボディガードみたいな感じ!?」

 彼は推理モノや探偵モノが好きなのだろうか?目をキラキラさせて、またそう訊いてくる。

 「結果的にはそうなったかも知れへんけど、本来のおじさんの仕事はヒットマンやった。」

 「ヒットマン……?」

 「要するに……『殺し屋』ってことや。」

 「……凄い……。」

 その子は既に崇拝の目つきに変わっていた。これは、良くない兆候だ……武士はそう思い、さらに続ける。

 「確かに、おじさんは仲間たちを守ろうとして、相手をやっつけた。でも、やっつけられた方にも、もちろん仲間がいたし、家族や恋人だっていたかも知れへん……。君らだって、もしお父さんやお母さんが殺されたりしたら、悲しいやろ?」

 子供たちは一様に頷く。

 「理由はどうあれ、おじさんは人としてやってはいけない過ちを犯してしまった。だから、おじさんの事は『悪い人』やと、そない思うといてくれたらええ。その代わり、一つだけお願いがあるんや。」

 そこで一度、深呼吸をした。そして、子供たちを見回しながら、

 「おじさんが『ヤクザ』やったことも、人を殺したことも、そこにいる剛士は、何も知らずに……おじさんの子供として生まれて来た。」

 そう言うと、また皆が一斉に剛士の方を見る。彼は一瞬悲しそうな眼を父親に向けたが、またすぐに俯いた。

 「だから、剛士は何も悪ない。そのことは、みんなかて分かってると思う。だから、二度と剛士を責めんといたってくれ。この通りや。」

 武士はそう言うと、教壇の上に手をつき、頭を下げた。

 「……じゃあ、刺青を見せてよ!」

 また一人の男の子がそう声を上げる。例の、ネットで調べたのだろうと武士が話した時に、目を泳がせた子だった。武士がその子の方を見ると、彼は挑発的な態度で、

 「『ヤクザ』だったんだから、刺青を入れているんでしょ?見せてくれたら、今まで通り、神村と仲良くしてやっても良いよ?」

 武士に向かってそう言ってから、いやらしい笑みを剛士に向けた。剛士は顔を顰めている。それを見ただけで、もともとお世辞にも仲が良さそうだとは思えなかったが、武士は気付かないふりをし、なるべくあっけらかんとした口調で、

 「それは構へんけど、おじさんはここでハダカになるわけにはいかへん。そんなことをしたら、『チカンやーっ!』言うて、お巡りさんが来てしまうさかい。」

 そう言うと、子供たちの間に笑いが起こった。少しは場を和ますことが出来たらしい。

 「だから、刺青を見たいっていう子は、放課後でも休みの日でも、家に来てくれたらええ。一人で来るのが怖い、思うんやったら、友達と一緒でもええし、何やったら家の人を連れておいで。」

 そう言って微笑みながら、

 「まぁ家の人は、なるべくお父さんとかおじいちゃんとか、男の人にしてくれた方が、おじさんは恥ずかしい思いをせんで済むから、ありがたいんやけどなぁ……。」

 武士の言葉に、また笑いが起こった。例の刺青を見せろと言った男の子は、面白くなさそうな顔つきをして、黙り込む。武士はそのまま話を続けた。

 「もしか、君らの親御さんが、そんな『人殺し』の父親がいる様な家に行くのはやめなさい、とか、そこの家の子と、仲良くするのはよしなさいって言うたら、それはそれで仕方の無い事や。だから、無理に剛士と仲良くする必要は無いんやで?でも出来れば、親から言われたから……という理由じゃなくて、自分自身でどないしたいんか、考えて欲しい。……おじさんの話は以上です。」

 そう言ってもう一度、子供たちに頭を下げた。そして、担任の方を向いて、再び頭を下げながら礼を述べると、教室を後にした。

 「ただいま。」

 「お帰りなさい……お疲れ様。」

 武士が家に帰り着くと、同じくオフだった真弓がそう言って出迎えてくれた。心配そうな顔つきの真弓に、早速事の顛末を話すと、

 「じゃあ、子供たちのおやつを用意しとかなきゃ!」

 そう言って、買い物に出掛けた。

 真弓が出かけている間に、弓奈が先に帰ってきた。真弓が休みの日だと知っていて、学童保育には行かずに帰ってきたらしい。弓奈は、昨日の事などすっかり忘れてしまった様子で、いつも通りにおやつを食べながら、一通りお喋りをした。

 武士は弓奈のお喋りに相槌を打ちながらも、彼女の無邪気さに救われる思いがして、少し鼻をすすった。そんな武士の様子に、弓奈は「パパ、風邪引いたの?大丈夫?」と心配そうに尋ねて来た為、武士は弓奈に微笑みながら、頭を撫でた。

 そうして、しばらく後に真弓が帰ってきたが、剛士はいつもの帰宅時間になっても、まだ帰ってこなかった。武士は、自分が口出ししたことで……また、人を殺したことを事実だと認めてしまった為に、却って同級生達に疎まれたのだろうか……?そう考えていると、インターホンが鳴り、応対した真弓が、

 「パパにお客様。入って頂くわね。」

 そう言って来たので、頷く。そして、真弓が玄関先で応対し、リビングに通って貰った。

 「こんにちは、佐藤です。翔琉のことを助けて頂いたのに、お礼を申し上げるのが、すっかり遅くなってしまって……。」

 「お気になさらないで下さい。どうぞ。」

 例の六年生の男の子の父親だった。そう答えて、ソファに座る様に勧めながら、一緒に付いて来た、息子だと思われる男の子に目を遣ると、剛士と同じクラスにいた一人だったので、驚く。

 「今日、上の子が退院しました。すぐに元気になったのに、検査だ何だで今日になってしまって、こちらにお礼に伺うのも、すっかり遅れてしまったという次第です。」

 「大変な時に、わざわざ来て頂いて……申し訳無い。」

 武士がそう言って頭を下げると、佐藤は、

 「いえいえ、とんでもない!お詫びを申し上げるのはこちらの方です。この子は慧琉サトルと言いまして……剛士君と同じクラスなのですが、家でもほとんど話さない、大人しい子なものですから、お恥ずかしい話、今日、初めてそういうことがあったということを聞かされました。」

 佐藤の言葉に、武士は黙ったまま頷く。佐藤は続けた。

 「剛士君のお父さん、あなたが過去に人を殺した事がある……そういう噂で剛士君が責められていて、今日そのことを話しに学校へ赴かれたと……そう聞いて、私も妻も驚きました。」

 「そうでしょうね。」

 武士がそう答えると、佐藤は「いいえ、そのことではありません。」と言って頭を振り、

 「あなたの……勇気に、です。うちの子を助けて下さった迅速さと判断力もさることながら、我が子の為に自分の知られたくない過去を晒してまで、身を挺された。そのことに、いたく感動しました。確かに、過去に大変な罪を犯されたのも事実ですが……私たち夫婦にとって、あなたは息子の命の恩人であることも事実だ。どうか、慧琉と仲良くしてやって下さい。慧琉はずっと剛士君と仲良くしたい、そう思っていた様です。もっとも、剛士君が良ければ……ですが。」

 そう言って、佐藤がはにかみながら笑う。武士は、目頭が熱くなる様な感覚に、思わず何度も瞬きをしてやり過ごし、

 「……剛士が帰ってきたら、きっと喜びます。あの子も大人しいので、佐藤さんの下のお子さんが同じクラスだったなんて、全く知りませんでしたから。」

 そう言って、お互い笑い合った。

 佐藤親子と入れ違いに、ようやく剛士が帰って来た。一緒に『ハセ』と、サスペンスマニア?の男の子の二人を連れて来た。彼は、吉岡と名乗った。

 剛士が渋面になりながら、例の「刺青を見せろ」と言った男の子……彼はどうやら原というらしい……が、親と一緒に来ると言って、剛士達を足止めしていたということだった。剛士はやはり、彼のことが苦手らしく、何とか撒いて帰って来たらしい。だが、安心したのも束の間、インターホンが鳴る。

 「佐藤さんが帰る途中で、原さんにうちがどこか聞かれて、案内して来てくれたのですって。」

 真弓がそう話すのを、その場にいた全員が、死刑宣告の様に聞いていた。

 「今晩は、佐藤です。また……お邪魔します。」

 そう言いながら、佐藤親子が顔を見せ、その後から原親子が現れた。武士と同年代だと思われる男は、自分から原の父親だとも名乗ることなく、

 「あんたか、元『ヤクザ』やったっていう親父は。」

 いきなりそう言われて、武士は面食らったが、

 「はじめまして、神村です。」

 とりあえず、挨拶をした。

 「前に、人を殺したことがあるんだろ?」

 更にそう蔑む様な口調で言われ、流石にムッとしたが、仕方なく、「……そうです。」と答えると、「ひえ〜、恐ろしい!」と、大袈裟な言い方で、驚く様なジェスチャーをした。

 隣で佐藤父が、「原さん、そんな言い方、失礼ですよ!?」と執り成すものの、それを無視するかの様に、

 「刺青を見せてやるから、代わりにあんたの息子と仲良くしろと、子供達にそう言ったらしいですな?」

 武士は何だかバカらしくなってきた。どんな世界にでも、絶対に分かり合えない人同士というのは居るものだ……それを再認識した感じだった。

 「そんな、取引じみたことを言うた覚えは無いんですが……。」

 「ごちゃごちゃぬかしてないで、早く見せろ!」

 さらに威圧的な態度を取る原父を、睨みつけながらも、服に手を掛けた……その時、佐藤父が武士を制し、

 「神村さん、そんなことをする必要は無いです。原さん、いい加減にしなさい、大の大人がみっともないですよ!?」

 「みっともないのはそっちだろう!人を殺しておいて、おめおめと人前に出る神経が、俺には分からないね!」

 「あなたが何か迷惑を被ったわけでは無いでしょう!?」

 「あんた、それでも警察官か!?」

 佐藤父と原父の応酬が続いているが、佐藤父が警察官だったとは……武士は、内心驚いていた。

 「そう、だから、神村さんが犯したのは殺人でなく、過剰防衛だったということも知っています。」

 「どちらにしろ、人殺しには変わりないだろう!」

 佐藤父は溜息を吐きながら、頭を振った。何を言っても無駄だと思ったのかも知れない。だが武士は、彼の言った言葉に引っ掛かった。警察官とはいえ、自分の罪状まで知っているのは、いくらなんでもおかしい……そう思ったからだ。

 「仮に……神村さんがどうしても刺青を見せなければならないと言うのなら、あなたにでは無く、息子さんに、ですよね?」

 佐藤父がそう言うと、ようやく原父は黙った。

 「さあ、後は子供たちに任せて、私達はお暇しましょう。」

 そう言うと、まだ何か言いたそうな原父の背中を押す様にして、玄関に向かった。武士は佐藤の背中に向かって、

 「佐藤さん、あの……どうして……?」

 すると、佐藤は振り返って武士の方を見、そして、

 「義父(ちち)が、あなたの話をよくしていたので……名前は教えられておりませんでしたが、息子から話を聞いた時に、『きっと彼だ』と思いました。まさか、こんな近くにいらっしゃるとは思ってもみませんでしたが……。」

 そう言って、すこしはにかんだ笑いを見せる。だが、まだ武士が訝しんでいると、

 「私の妻の旧姓は『小林』と言います。もっとも……私は義父の様な刑事では無く、交通課勤務ですけれどね。」

 佐藤の言葉に、武士は「そうでしたか……!」と驚きの声を上げ、そして、お互い頭を下げた。

 二人の父親を見送った後、子供たちの所へ戻ると、険悪なムードのまま、睨み合いが続いていた。真弓が「おやつ、置いておくから食べてね。」と声を掛けていたが、どうやら場を和ますことは出来なかったらしい。武士も何と声を掛ければ良いか、考えあぐねていると、

 「みんな、何してるの〜?」と、とうとう弓奈が真弓の制止を振り切って、顔を覗かせた。

 「わあ、お兄ちゃんのお友達がこんなに来るなんて、初めてだね!」

 そう無邪気に喜ぶ妹を見て、剛士は苦笑いするしか無かった。その様子を見ていたサスペンスマニアの吉岡君は、

 「いいなぁ、妹で。うちは姉貴しかいないからさぁ。」

 そう呟くと、

 「うちだってそうだよ。」

 ハセ君も、隣で同意する様に頷いた。

 「……うちなんか兄貴しかいないから、もっとつまらないよ?」

 佐藤君もさりげなく酷いことを言っている。やはり、『可愛い妹』が居て欲しい、と思うのは、男達の永遠の願望なのだろうか?弓奈は親の欲目かもしれないが、人懐っこく愛嬌があり、確かに可愛らしいと思う。子供達の話を聞いていた武士が、そんなことを考えていると、

 「……うちには妹も弟もいるけど、ちっとも可愛くなんてない。」

 原君が吐き捨てる様に言った。それを聞いた弓奈が、驚いた様子で、

 「でも、ちいちゃんはお兄ちゃんの事、大好きだよ?弓奈、そう言っているの、聞いたから。」

 その言葉に、原君は弾かれた様に弓奈の方を見た。そして、

 「そんなこと、あるもんか!でたらめ言うな!!」

 そう怒鳴ると、流石の弓奈もムッとした様に、

 「でたらめじゃないもん!いつもは意地悪だけど、お父さんが怒って、ちいちゃん達を叩こうとすると、お兄ちゃんがゼッタイに守ってくれるって、そう言っていたもん!」

 「……。」

 原君は今にも泣き出しそうに顔を歪め、黙り込んだ。その様子に、弓奈は驚き、

 「ちいちゃんのお兄ちゃん、泣いてるの?」

 顔を覗き込み、そう尋ねた。武士はそっと二人の側によって、

 「君はホンマは弟、妹思いの、やさしいお兄ちゃんなんやな。」

 そう言って、彼の頭を撫でてやる。すると、彼の中で何かが堰を切ったかの様に、目に涙が滲んだかと思うと、すぐにしゃくり上げ始めた。武士は彼の頭を抱き寄せてやった。

 どちらかと言えば、小柄な剛士よりは大きな身体だが、まだ小学四年生だ。こんな小さな子でも、それぞれ抱えきれない様な寂しさや悲しみを背負っているのだろう……それが時として、他人を傷つける様な行為に及ぶのかもしれない……そう思いながら、華奢な肩をポンポンと叩いた。弓奈も原君の手を取りながら、「元気出して!」と慰めていた。その様子を、剛士は複雑な顔つきで見ているしかなかった。

 しばらくして落ち着いたらしい、原君はバツが悪そうに、弓奈と武士に小声で礼を述べた。彼の目はまだ濡れていたが、教室で見た時の、意地の悪そうな目つきでは無く、どこか吹っ切れた様な、澄んだ瞳だった。

 「じゃあ、約束は約束やからな。」

 武士はそう言って上服を脱ぎ、子供達に刺青を見せた。

 吉岡君が、「凄い……!」と呟き、佐藤君が「痛くないんですか?」と尋ねてくる。武士は笑って、

 「もちろん、彫られている時はめっちゃ痛かったけど、今は何ともないよ。」

 そう答えた。さらに、ハセ君が「おじさん、さわってもいい?」と尋ねたので、「どうぞ。」と言うと、一斉に子供たちの手で撫でられる。あまりのくすぐったさに、思わず身を捩りそうになるが、何とか堪えた。その様子を見ていた弓奈が、武士の目の前でクスクス笑う。武士は彼女を軽く睨みながら、捕まえようとすると、「きゃ〜!」と歓声を上げながら逃げて行った。

 武士が声を上げて笑っていると、原君が不思議そうに、「ところで、これは何?」と、尋ねるので、「麒麟や。」と答えた。「麒麟……?」吉岡君と、佐藤君も同じ様に疑問を口にする。

 「そう、『麒麟』。ただ残念ながら、皆がよう知ってる動物園の人気者やのうて、『霊獣』……架空の生き物の方やけどな。」

 「ふうん……。」

 「さあ、遅うなったさかい、送って行こうか。」

 武士は服を着終えると、子供達にそう言った。皆は少し残念そうにしていたが、頷いた。

 全員を家に送り届けた帰り道、隣を歩く剛士がポツリと、

 「お父さん……今日は、ありがとう。」

 俯いたまま、そう言った。武士は剛士の頭をくしゃくしゃっと撫でながら、「どういたしまして。」と言い、笑った。

 その後、剛士は学校で、武士のことで責められる様なことは無くなったと、後日聞き出した真弓にそう言っていたらしい。それに、もともと仲の良かったハセ君は言うまでも無く、佐藤君や吉岡君、それに原君とも一緒に遊ぶ仲になったのよ、と、嬉しそうに話していた。

 おそらく学校側には、何らかの問い合わせなり抗議があったに違いないが、あの時校長が言った通り、武士に対して何ら問い詰められる様な事は無く、心の中で彼らの尽力に感謝した。

 そして、再び佐藤父から連絡があり、小林を交えて一度飲みに行きましょう、という話になった。年に数回は小林と連絡を取り合い、会っていた武士だったが、思わぬ誘いに二つ返事をしたのは、言うまでもない。武士にとってもこの歳になって、ようやく同年代の友人が出来た瞬間でもあった。

 

 二十二 再生

 「母さん!ごめん、俺の机の上に置いてある封筒、取って来て!」

 玄関からそう言う剛士の声が聞こえた為、真弓は言われた通り封筒を持っていき、慌てた様子の彼に手渡す。

 「はい!ほら、急いで急いで!!」

 「ありがとう!行って来ますっ!」

 それだけ言って、外へと駆け出す。その様子を見た真弓は、ふうっと溜息を吐いた。

 剛士はこの春に大学院を修了し、社会人となった。今日は大事な取引先に向かうと言っていたのに、朝からあんな調子で大丈夫なのだろうか?子供の頃はもっとキッチリしていたのに……などと考えながら、リビングに戻ると、

 「お兄ちゃん、随分急いでたみたいだけど、大丈夫だった?」

 弓奈が、のんびりとした様子でトーストをかじり、コーヒーをすすりながら、そう尋ねて来た。

 「弓奈、あなたは時間まだ大丈夫なの?」

 「うん。今日の一コマ目、休講になったから。」

 手でVサインを作ってそう言う。それを見た真弓は半眼になりながら、

 「そうだったの。でも、あんまりのんびりしていると、二コマ目にも間に合わなくなっちゃうわよ?」

 「はいはい、わかってますって!」

 そう言って手をヒラヒラさせる娘を見て、大学生なんて気楽なものよね……と呆れる。

 「あれ?弓奈はまだ行かんでええんか?」

 身支度を済ませた武士が、リビングに姿を見せる。弓奈は真弓に話したのと同じことを、父親にも説明していた。

 武士は、自分は大学どころか高校さえ、普通に通うことが出来なかったから、せめて子供達には人並みに、行きたい大学があれば行かせてやりたい……そう言っていた通り、二人の子供はそれぞれ希望する大学に進学することが出来た。キャンパスライフを満喫する子供たちを見て目を細め、「ええな、青春やなぁ……。」と呟くのを、真弓はいつも複雑な気持ちで聞いているしかなかった。それは彼女が、武士の青春時代が悲惨なものであったことをよく知っているからに他ならない。

 だが、子供達にとっても、ここまで来るのが決して平坦だったとは言えなかったであろう。小学校時代に、過去に父親の犯した罪をやり玉に挙げられたことがあったが、進学する度にそれと同じ様な事が幾度となく起こった。

 剛士は入社後に、そのことで人事担当者に問い質されたことがあったらしいが、平然とした顔で、

 「俺、『確かにそれは事実ですが、私が父を尊敬していることに何ら変わりはありません。』と、言っておいたよ。」

 そう言う彼の顔は誇らしげで、自身に満ちていた。その様子を見た真弓は、剛士が立派に育ってくれた事に、自分も胸を張りたくなったが、きっと武士も同じ様に、頼もしく感じた事だろう。

 「さ、あたしもそろそろ行くね!」

 そう言って、椅子から立ち上がる弓奈に、「お父さんも、もう出るわ。」と武士が続く。

 「そう、二人とも、気を付けてね。」

 真弓はそう言って、二人を玄関先まで送り出す。

 「行って来ます!」娘と父、二人は手を振りながら、家を後にした。

 「さぁて……と。」

 真弓は今日はオフだ。溜まっている家の用事を先に済ませてしまおう……そう思いながらも、武士と出会ったあの頃に、思いを馳せた。そして、自分達……特に武士は不透明な世界を沢山見て来たが、二人の子供達は、透明な世の中をずっと歩んで行ける様に……そう願うのだった。

 

 END

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