第4話「先輩が『全部話す』をやめた理由」
後輩指導の発令書が出た翌日、遥は決意した。
今日こそ全部話す。
根拠はある。このまま後輩指導に入れば、歩の「神対応」は後輩の前で確実に崩れる。崩れたときに「ああ、実は室田先輩がずっとフォローしてたんです」という話になるより、今のうちに自分から話したほうがダメージが少ない。論理的にそうだ。
遥は出社してすぐ、歩に「ちょっといい?」と言った。
「はい、何ですか」
「あのね、少し話したいことがあって——」
「神崎くん!」
田所係長の声が飛んできた。
「今日さ、取引先の田口商事から電話来るかもしれないから、頼むな。先週の見積もり件、まだ先方が納得してないやつ」
歩は「わかりました」と答えて、係長を見て、遥を見た。
「先輩、話ってあとでいいですか? 電話来たら対応しなきゃで」
「……うん、あとで」
「あとで」は、その日来なかった。
午前中に田口商事から電話が来て、案の定歩が保留にして遥にメモを渡してきた。遥はいつも通り赤ペンで回答を書いた。電話が終わって、歩が「助かりました」と言って、昼休みになった。
昼休みが終わって、午後の業務が始まって、夕方に部長が来て「二人体制、楽しみにしてるよ」と言っていった。
終業のチャイムが鳴った。
遥は「今日も言えなかった」と思った。
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翌日も、その翌日も、似たような構造だった。
話そうとすると何かが割り込む。割り込んでくるのはだいたい係長か電話か部長で、そのたびに歩は「あとで」と言って、「あとで」は夕方には消えている。
五日目、遥はようやく昼休みに歩と二人になれた。社員食堂の端のテーブル、周囲に誰もいない。
「あのね」と遥は言った。「話したいこと、ずっとあって」
「はい」と歩は味噌汁を飲みながら答えた。
「山田電機の件から、ずっと——」
「先輩って、俺のことをずっと見てたんですよね」
歩が言った。
遥は止まった。
「え」
「最初の頃から、俺が電話で詰まるたびに、先輩がフォローしてくれてたじゃないですか」
「…………」
「俺、気づいてなかったわけじゃなくて——」
遥の心臓が一回、変な鳴り方をした。
「気づいてたの?」
思わず聞き返してしまった。歩はそこで少し照れたように頭を掻いた。
「なんか、電話が終わるたびに先輩がこっちを見てる気がして。あと俺がメモ渡すと、すごく迷わずに書いてくれるから——先輩って、俺の電話、ずっと聞いてくれてるんだろうなって」
遥は固まった。
「電話を聞いていないと回答が書けない」——それは事実だ。遥は歩の電話をずっと聞いている。聞いて、状況を把握して、回答を書いている。だから歩の言っていることは正確だ。
でも歩の解釈は「先輩が俺のことを気にかけてくれている」だ。
正しい事実、間違った解釈——なのだが、この文脈では「間違い」とも言い切れない構造になっている。
「先輩のおかげだと思ってます」と歩は言った。「俺がここまでやれてるの」
遥は「違う、そうじゃない、あなたは何もしてない」と言おうとした。
言おうとして、歩の顔を見た。
真剣な顔だった。ふざけてない、いつもの軽さがない顔で、まっすぐ遥を見ていた。
言えなかった。
理由は自分でもよくわからなかった。「こんな顔で言われたら」という感情が先に立って、言葉が出てこなかった。
「……そう」と遥は言った。それだけだった。
「先輩が一緒にいてくれるなら、後輩指導もなんとかなる気がします」
「…………」
「なんか、変なこと言いましたか?」
「言ってない」と遥は言った。「ちゃんと食べなよ、冷める」
歩は「はい」と言って味噌汁を飲んだ。
遥はトレーの上のサラダをフォークで刺しながら、スマホのメモアプリのことを考えた。
「全部話す」と打って消したあのメモ。
今日も、書いて消すことになる。
それが何でかは、まだうまく考えたくなかった。
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食堂から出るとき、松本が入り口で二人を見かけて「あ、また二人でいる」と言った。
「また?」と歩が聞いた。
「いや最近よく一緒にいるじゃないですか、二人」
「後輩指導の打ち合わせだよ」と遥はすぐに言った。
「でも今日って打ち合わせじゃなかったですよね」と歩が言った。
「……食堂が混んでたから」
「端のテーブル、二人だけでしたよね」
遥は返答しなかった。
松本が「仲いいですね」と笑って、営業フロアのほうに去っていった。
歩は「仲いいですかね、俺たち」と独り言のように言った。
「さあ」と遥は言った。
「先輩が決めることじゃないですか、そういうの」
遥は歩を見た。歩はまたいつもの軽い顔に戻っていて、「次の打ち合わせって来週でしたっけ」と言っていた。
先輩が決めること。
遥はエレベーターのボタンを押しながら、その言葉の重さを一人で持て余した。
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その夜、遥はスマホのメモアプリを開いた。
「全部話す」と打った。
しばらく見た。
今回は消さなかった。
でも、なぜ消さなかったのかも、理由がうまく説明できなかった。




