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隣の席の先輩が、なぜか俺の伝説を作り続けている  作者: 螺旋


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第5話「全部バレた日、先輩は何も言わなかった」

四月の第一週、カスタマーサポート部に新人が一人配属された。


 名前は川村さくら、22歳。前髪が目にかかるくらい長くて、でも目だけはやたらとよく見えていて、「よろしくおねがいします」とはっきり言えるタイプだった。


 歩の後輩指導担当初日は、月曜の午前十時から始まった。


 田所係長が「神崎が指導担当、室田さんがサポートで入ってくれます」と紹介して、川村さくらは「よろしくおねがいします」と言った。歩は「こちらこそ」と返した。遥は隣で「よろしく」と言いながら、静かに覚悟を決めていた。


 今日、終わるかもしれない。すべてが。


 問題は「いつ」だけだ、と遥は思っていた。


---


 最初の一時間は、なんとかなった。


 歩がマニュアルの説明をして、川村が質問して、歩が答えられないところを遥が補足する。ごく普通の指導だった。「なんだ、これなら大丈夫かもしれない」と遥が思いかけたのが十一時ごろ。


 十一時十五分に、電話が鳴った。


「じゃあ実際に見てみよう」と歩が川村に言った。「俺が対応するから、隣で聞いてて」


 遥は「あ」と思った。


 今日の席配置は、新人研修用の小会議室だ。丸テーブルに川村と歩と遥が座っている。歩の隣は川村で、遥は歩の正面だ。


 正面。


 メモを渡せない距離ではないが、川村の目の前でメモのやりとりをすれば、川村は見る。川村が見れば全部わかる。


 歩は電話に出た。


「はい、カスタマーサポートの神崎です。……はい。……はい。えーと、それは……少々お待ちください」


 保留にして、歩が遥を見た。


 いつものメモを渡そうとする顔だ。でも今日はメモ用紙を持っていない。会議室なので机の上には資料だけだ。


 歩が資料の端を破いて、ペンで何か書き始めた。


 川村がそれを横から覗き込んだ。


「……神崎先輩、それ何してるんですか」

「ちょっと待って」と歩は言って、紙を遥に向かって差し出した。


 遥は受け取った。読んだ。ペンで回答を書いた。歩に返した。


 川村がその一連の動作を、まじまじと見ていた。


 歩が保留を解除した。遥が書いた言葉を読み上げた。電話が「わかりました」と言って切れた。


 沈黙。


「……あの」と川村が言った。「今の、どういう流れですか」

「え」と歩が言った。「いや、こういうのは——」

「室田先輩が回答を書いて、神崎先輩がそれを読んだってことですか」

「……まあ、そう、だけど」

「え、じゃあさっきから神崎先輩が電話で言ってたこと全部、室田先輩が書いたやつですか」


 歩は答えなかった。


 川村は遥を見た。遥は答えなかった。


 廊下から田所係長の声がした。「あ、部長、見にいきましょうか、研修初日なんで」


 ドアが開いた。


 田所係長と、部長の梶原さんが、入ってきた。


---


 部長がテーブルの上の、歩の字と遥の字が混在した紙切れを見た。


「これは……」

「研修中です」と遥は即座に言った。「川村さんに対応の流れを見せていたところで——」

「室田先輩が書いたやつを神崎先輩が読んでたって話をしてました」と川村がはっきり言った。


 悪意はなかった。ただ事実を確認していただけだ。でも事実は事実として、部屋の全員に届いた。


 田所係長が「え」という顔をした。


 部長が「え」という顔をした。


 遥は一回だけ深呼吸した。


 終わった。


 三ヶ月分の「全部話す」が、今日、本人の意思と関係なく終わった。


「……そうです」と遥は言った。「山田電機の件も、鈴木商事の件も、全部私が回答を書いて、神崎くんが読み上げていました」


 沈黙が部屋を覆った。


「だから神崎くんが神対応をしていたわけではなく、私が回答を書いていただけです。育成というより、私がやっていたのに本人名義になっていた、というのが正確なところで——」


「先輩」


 歩が言った。


 遥は止まった。


「知ってましたよ」と歩は言った。「ずっと」


 今度は遥が「え」という顔をした。


「え」

「知ってたって言いましたよね」と川村が言った。

「はい」と歩は頷いた。「最初の頃から、先輩がメモに回答書いてくれてるのは分かってました」


 遥は固まった。


「わかってた、なら——なんで、確認しなかったの」

「確認したら先輩が困ると思ったので」


 困る。


「困るって」

「あの、なんか先輩、訂正できない感じがしたんですよね。最初に俺が『俺は何もしてないです』って言ったとき、否定しなかったじゃないですか。あのときの先輩の顔が、なんか——言えない理由がありそうな顔だったので」


 遥は三ヶ月前の自分の顔を思い出そうとしたが、うまくできなかった。


「だから俺、そのままにしておきました。先輩が言いたいときに言えばいいと思って」


 部屋の全員が歩を見ていた。


 田所係長が「お前、知ってたのか」と言った。


「はい」と歩は答えた。「でも先輩の書いてくれた回答、めちゃくちゃ的確だったんで、それを読み上げるのが一番良いのはわかってましたし——俺もちゃんと勉強しようとは思ってたんですけど、先輩がいてくれると安心してしまって」


 部長が「室田さん……」と言い始めた。


 遥は「申し訳ありません」と言おうとした。言いかけて、歩がまた口を開いた。


「あと、だから隣の席、離れたくなかったんです」


 部屋がまた静かになった。


 全員の視線が歩に集まって、次に遥に移った。


「……離れたく、なかった」と遥は繰り返した。


「はい。先輩が隣にいると、なんか、ちゃんとやれる気がして。それだけじゃないですけど」


「それだけじゃない」


「それだけじゃないです」と歩はもう一回言った。今度はちゃんと遥の目を見て言った。


 遥は何も言えなかった。


 田所係長が「えっと」と言った。


 部長が「ちょっと二人で話し合ったほうがいいんじゃないかな」と言った。


 川村さくらが「すみません私まだ状況よくわかってないですけど続き聞いていいですか」と言った。


---


 その日の夕方、全員に状況が正式に共有された。


 神崎歩の神対応は室田遥の回答によるものだった。室田遥の育成計画は実質的にフォローと誤魔化しの連鎖だった。田所係長の「謙遜するな」は三ヶ月間ずっと事実を封じていた。部長の「期待してる」は全部ズレた方向を向いていた。


 梶原部長は「まあ……結果的にクレームはちゃんと収まってたわけだしね」と言った。


 田所係長は「俺が謙遜するなって言い続けたのが原因では……」と初めて自分を省みた。


 川村さくらは「じゃあ神崎先輩の指導って……」と聞きかけて、「一から教えます」と遥に言われて「よろしくおねがいします」と言った。


 歩は「俺、怒られないんですか」と田所係長に聞いた。


「お前は知らなかっただろ」と係長は言った。


「知ってたんですけど」と歩は言った。


「……じゃあ怒る」と係長は言った。でも顔は怒っていなかった。


---


 翌朝、歩が出社して自分の席についたとき、机の上にメモ用紙が一枚あった。


 遥の字で、一行だけ書いてあった。


「後処理完了」


 歩はそれを見て、少し笑った。


 隣の席を見た。遥はすでに出社していて、モニターをまっすぐ見つめていて、こちらを一切見なかった。キーボードを叩く指が、わずかに速くなっているように見えた。


「先輩」と歩は言った。


「なに」


「今日も隣にいてもらえますか」


 キーボードを叩く音が、一瞬止まった。


「……いるよ、どこにも行かないから」


 遥はそれだけ言って、また正面を向いた。


 歩はメモを丁寧に折りたたんで、引き出しの一番上にしまった。


 後処理完了、と書いてあるが、どう考えても何も完了していない。


 でも、たぶんそれでいい。


 隣の席の先輩は今日も、歩の何もかもに気づいていながら、何も言わないでいる。


 歩はパソコンを立ち上げて、今日の業務を始めた。


 電話が鳴ったら、今日こそ自分で答えてみようと思った。


 それでも詰まったら、たぶん先輩がまたメモに書いてくれる。


 そのことが、なんかちょっと、嬉しかった。

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