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隣の席の先輩が、なぜか俺の伝説を作り続けている  作者: 螺旋


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3/5

第3話「先輩が、俺の後輩指導を阻止しようとしている」

辞令というのは、いつも唐突にやってくる。


 月曜の朝、歩がコーヒーを片手に席に着いた瞬間、田所係長が「神崎、ちょっといいか」と言った。


「はい」

「来月から後輩指導担当、やってもらうことになった」


 歩はコーヒーを飲む手を止めた。


「……俺が?」

「そう。四月に新人が三人入るだろ。そのうちの一人、神崎が担当してやってくれ」

「いや、でも俺、まだ三ヶ月しか——」

「謙遜するな」


 係長の「謙遜するな」は最近、歩の発言を封じる呪文と化している。何を言っても「謙遜」で片付けられる。


「三ヶ月でこれだけできるなら、むしろ新人の気持ちがわかるうちに指導に入ったほうがいい。室田さんもそれがいいって言ってたし」

「え、先輩が?」


 歩は隣の席を見た。


 遥先輩が、すごい顔をしていた。


 「すごい顔」というのは語弊があるかもしれない。正確には、笑顔なのに笑顔じゃない顔だった。口元は穏やかに微笑んでいるのに、眼鏡の奥の目が笑っていない、というか、なにかを必死に堪えているような、そういう顔だ。


「……室田さん?」

「そうだよ。『神崎くんならできます』って言ってたぞ」


 遥の口元の微笑みが、わずかに引きつった。


---


 昼休み、遥は一人で給湯室に行った。


 ドアを閉めて、壁に向かって小声で言った。


「なんで私が『できます』って言ったことになってるの」


 言ってない。絶対に言ってない。昨日の金曜、田所係長に「神崎の後輩指導、どう思う?」と聞かれて、遥は「時期尚早だと思います」と答えた。はっきりそう言った。


 なのになぜ「できます」になっているのか。


 田所係長の脳内変換能力を遥は侮っていた。「時期尚早」を「まだ早いかもしれないけど、能力的にはできる」と解釈して、「できます」に要約したのだろう。たぶん。


 問題は、このまま歩が後輩指導担当になると何が起きるかだ。


 歩が後輩に指導をする。歩のやり方は「困ったら隣の席の先輩にメモを渡す」だ。でも後輩の隣の席が遥とは限らない。だから歩は詰まる。詰まった歩が後輩の前で詰まる。後輩が「指導担当の先輩が詰まってる」と思う。歩の伝説が崩れる。


 歩の伝説が崩れると、遥が「育てた」とされている伝説も崩れる。


 つまり阻止するしかない。


 遥は給湯室を出た。


---


 午後、さっそく遥は動いた。


 田所係長のデスクに近づいて、「後輩指導の件なんですが」と切り出した。


「やっぱり神崎くんに任せるのは時期尚早かもしれません。もう少し私がフォローしてから——」

「あー、そういう心配はしなくていいよ」と係長は言った。「室田さんがついてれば大丈夫だって。むしろ室田さんが後ろで支えながら、神崎が前に立つ形にしたらどうかと思って」

「……は」

「二人体制。いいと思わない? 室田さんのサポートがあれば、神崎も安心だろうし」


 遥は一瞬、宇宙を感じた。


 阻止しに行ったはずが、「二人体制でやれ」という新しい辞令に変換されて戻ってきた。


「それ、私も後輩指導に入るってことですか」

「まあそういうことだね。室田さんが横についてくれるなら、部長も安心するだろうし」


 部長。


 その一言で、遥の反論は全部消えた。


---


 終業後、歩が帰り支度をしながら遥に言った。


「先輩、今日係長に何か言いに行きましたよね」


 遥は手を止めた。


「……見てたの」

「はい。なんか、俺のことで何か言ってくれてたのかなって」

「別に」

「でも、俺のためにわざわざ動いてくれたんじゃないですか」


 遥は否定しようとした。でも「時期尚早だと止めに行った」は、結果として「俺のためを思って」という解釈と一致してしまう。


「……まあ、ね」と遥は曖昧に答えた。


「ありがとうございます」と歩は言った。


 いつもと違う声色だった、と遥は思った。いつもの「ありがとうございます」は軽くて反射的だが、今のは少し低くて、ちゃんと遥の顔を見てから言った。


「先輩って、結構ちゃんと俺のこと見てくれてるんですね」


 遥は何も言えなかった。


 見てるというか、見てないといけない理由が全部こちらの都合なんですが、という説明は、今この場ではできなかった。


「……後輩指導、二人体制になったから」と遥は言った。「一緒にやることになった」

「え、先輩も入ってくれるんですか」


 歩の顔がぱっと明るくなった。


 遥はその顔を見て、なぜかまた、先週と同じ「腹が立つような」感覚を覚えた。


 腹が立つというより——何だろう、これ。


「……なんでそんな嬉しそうなの」

「だって先輩と一緒にできるなら、俺もちゃんとできそうな気がするから」


 遥は返事をしなかった。


 代わりにカバンを持って立ち上がって、「先に行くね」と言った。


 エレベーターのボタンを押しながら、遥は自分の心臓が少しうるさいことに気づいた。


 残業でもないのに、なぜ。


---


 翌朝、田所係長が嬉しそうに言った。


「昨日、部長に二人体制の話したら大喜びだったよ。室田さんと神崎のコンビ、期待してるって」


 コンビ。


 遥と歩は同時に係長を見て、同時に視線を戻した。


 発令書が、翌週には出るらしかった。

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