第3話「先輩が、俺の後輩指導を阻止しようとしている」
辞令というのは、いつも唐突にやってくる。
月曜の朝、歩がコーヒーを片手に席に着いた瞬間、田所係長が「神崎、ちょっといいか」と言った。
「はい」
「来月から後輩指導担当、やってもらうことになった」
歩はコーヒーを飲む手を止めた。
「……俺が?」
「そう。四月に新人が三人入るだろ。そのうちの一人、神崎が担当してやってくれ」
「いや、でも俺、まだ三ヶ月しか——」
「謙遜するな」
係長の「謙遜するな」は最近、歩の発言を封じる呪文と化している。何を言っても「謙遜」で片付けられる。
「三ヶ月でこれだけできるなら、むしろ新人の気持ちがわかるうちに指導に入ったほうがいい。室田さんもそれがいいって言ってたし」
「え、先輩が?」
歩は隣の席を見た。
遥先輩が、すごい顔をしていた。
「すごい顔」というのは語弊があるかもしれない。正確には、笑顔なのに笑顔じゃない顔だった。口元は穏やかに微笑んでいるのに、眼鏡の奥の目が笑っていない、というか、なにかを必死に堪えているような、そういう顔だ。
「……室田さん?」
「そうだよ。『神崎くんならできます』って言ってたぞ」
遥の口元の微笑みが、わずかに引きつった。
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昼休み、遥は一人で給湯室に行った。
ドアを閉めて、壁に向かって小声で言った。
「なんで私が『できます』って言ったことになってるの」
言ってない。絶対に言ってない。昨日の金曜、田所係長に「神崎の後輩指導、どう思う?」と聞かれて、遥は「時期尚早だと思います」と答えた。はっきりそう言った。
なのになぜ「できます」になっているのか。
田所係長の脳内変換能力を遥は侮っていた。「時期尚早」を「まだ早いかもしれないけど、能力的にはできる」と解釈して、「できます」に要約したのだろう。たぶん。
問題は、このまま歩が後輩指導担当になると何が起きるかだ。
歩が後輩に指導をする。歩のやり方は「困ったら隣の席の先輩にメモを渡す」だ。でも後輩の隣の席が遥とは限らない。だから歩は詰まる。詰まった歩が後輩の前で詰まる。後輩が「指導担当の先輩が詰まってる」と思う。歩の伝説が崩れる。
歩の伝説が崩れると、遥が「育てた」とされている伝説も崩れる。
つまり阻止するしかない。
遥は給湯室を出た。
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午後、さっそく遥は動いた。
田所係長のデスクに近づいて、「後輩指導の件なんですが」と切り出した。
「やっぱり神崎くんに任せるのは時期尚早かもしれません。もう少し私がフォローしてから——」
「あー、そういう心配はしなくていいよ」と係長は言った。「室田さんがついてれば大丈夫だって。むしろ室田さんが後ろで支えながら、神崎が前に立つ形にしたらどうかと思って」
「……は」
「二人体制。いいと思わない? 室田さんのサポートがあれば、神崎も安心だろうし」
遥は一瞬、宇宙を感じた。
阻止しに行ったはずが、「二人体制でやれ」という新しい辞令に変換されて戻ってきた。
「それ、私も後輩指導に入るってことですか」
「まあそういうことだね。室田さんが横についてくれるなら、部長も安心するだろうし」
部長。
その一言で、遥の反論は全部消えた。
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終業後、歩が帰り支度をしながら遥に言った。
「先輩、今日係長に何か言いに行きましたよね」
遥は手を止めた。
「……見てたの」
「はい。なんか、俺のことで何か言ってくれてたのかなって」
「別に」
「でも、俺のためにわざわざ動いてくれたんじゃないですか」
遥は否定しようとした。でも「時期尚早だと止めに行った」は、結果として「俺のためを思って」という解釈と一致してしまう。
「……まあ、ね」と遥は曖昧に答えた。
「ありがとうございます」と歩は言った。
いつもと違う声色だった、と遥は思った。いつもの「ありがとうございます」は軽くて反射的だが、今のは少し低くて、ちゃんと遥の顔を見てから言った。
「先輩って、結構ちゃんと俺のこと見てくれてるんですね」
遥は何も言えなかった。
見てるというか、見てないといけない理由が全部こちらの都合なんですが、という説明は、今この場ではできなかった。
「……後輩指導、二人体制になったから」と遥は言った。「一緒にやることになった」
「え、先輩も入ってくれるんですか」
歩の顔がぱっと明るくなった。
遥はその顔を見て、なぜかまた、先週と同じ「腹が立つような」感覚を覚えた。
腹が立つというより——何だろう、これ。
「……なんでそんな嬉しそうなの」
「だって先輩と一緒にできるなら、俺もちゃんとできそうな気がするから」
遥は返事をしなかった。
代わりにカバンを持って立ち上がって、「先に行くね」と言った。
エレベーターのボタンを押しながら、遥は自分の心臓が少しうるさいことに気づいた。
残業でもないのに、なぜ。
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翌朝、田所係長が嬉しそうに言った。
「昨日、部長に二人体制の話したら大喜びだったよ。室田さんと神崎のコンビ、期待してるって」
コンビ。
遥と歩は同時に係長を見て、同時に視線を戻した。
発令書が、翌週には出るらしかった。




