補助できないもの
夜の訓練場は,昼とは別の顔を持っている.
剣戟の音も,号令も消え,
石畳に染み込んだ魔力だけが,静かに息をしているようだった.
ガレオン・アルスティアは,一人で剣を振っていた.
月明かりを背に,何度も,同じ型を繰り返す.
踏み込みは正確で,剣筋も鋭い.
誰が見ても,最強騎士の動きだった.
――それでも.
(……雑だな)
自分では分かる.
剣が鈍ったわけではない.
体調も,判断力も,衰えてはいない.
それなのに,どこか噛み合わない.
理由は,剣の外にあった.
リリー.
半径三歩の距離.
「信仰です」と,迷いなく言い切る声.
彼女の視線には,揺らぎがない.
疑いも,条件もない.
ただ,自分がそこに立っていることを,当然として見ている.
その当然さが,最近,胸の奥に引っかかるようになった.
(……俺は)
剣を下ろし,息を整える.
最強であることは,長い間,自分の役割だった.
それが評価であり,存在理由であり,
自分がここに立つための,唯一の条件だった.
だが今は,少し意味が変わりつつある.
足音がした.
軽く,迷いのない歩幅.
振り返らなくても分かる.
「……今日は,来るなと言ったはずだ」
「はい」
リリーは即座に答える.
「ですが,来ました」
「相変わらずだな」
ガレオンは小さく息を吐き,剣を地面に立てた.
リリーは,いつもの位置で止まる.
半径三歩.
だが,今日は,その距離が少し遠く感じられた.
「……今日は,補助をするな」
リリーは,ほんの一瞬だけ目を瞬いた.
それは驚きではなく,確認に近い間だった.
「理由を,お聞きしてもよろしいですか」
「……俺の問題だ」
いつもなら,ここで彼女は言う.
「でしたら,補助の対象です」と.
だが,リリーは言葉を止めた.
代わりに,一歩だけ下がる.
自分から,半径三歩の外へ出る.
「ここで,見ています」
その距離に,ガレオンの胸が微かに軋んだ.
拒まれたわけではない.
追い払われたわけでもない.
それでも――
任せてもらえなかった感覚が,確かに残る.
沈黙が落ちる.
夜風が,訓練場の砂をわずかに動かす.
「……俺は,強い」
ガレオンが,ぽつりと口を開いた.
独り言のような声だった.
「はい」
リリーは,いつものように評価しなかった.
強度も,安定性も,魔力効率も測らない.
最強騎士としても,補助対象としても扱わず,
ただ,一人の人間の言葉として,それを受け止めている.
「強いから,大丈夫だと思われる」
「最強だから,折れないと」
月を見上げる.
それは,誇りだった.
長い間,疑ったことのない前提だった.
「俺自身も,そう思ってきた」
「強くあれば,守れる」
「剣を振れれば,迷わずに済む」
リリーは,黙って聞いている.
術式も,魔力も,ここにはない.
ただ,人の言葉だけがある.
「だが,最近」
ガレオンは,言葉を選びながら続けた.
「……それが,前提になりすぎている気がする」
剣を振る.
勝つ.
それでいいはずだった.
「お前が,俺を信じているのを見ると」
「俺は……最強で居続けなければならないと感じてしまう」
それは,誰かに言われた考えではない.
自分の中で,静かに育った感覚だった.
「折れることを,考えられなくなる」
「弱くなる未来を,想像できなくなる」
リリーの胸が,きゅっと鳴る.
補助魔法では,触れられない場所だった.
「……それは」
リリーは,慎重に言葉を選ぶ.
「苦しいこと,でしょうか」
「……分からない」
ガレオンは正直に答える.
「誇らしい」
「救われている」
「だが,同時に」
視線を,彼女に戻す.
「俺が崩れたら」
「お前の世界まで,揺らぐ気がしている」
初めて聞く,弱音に近い言葉だった.
リリーは,息を飲む.
「……私」
声が,少し小さくなる.
「私は,ガレオン様を支えていると,思っていました」
「支えている」
「ですが」
「もし,それが」
「ガレオン様に,強くあれと,言い続けているなら」
信仰という言葉を,使わずに話す.
それは,彼女にとって初めてのことだった.
「私は,どうすればよいのでしょう」
ガレオンは,すぐに答えられなかった.
だが,一つだけはっきりしている.
「……離れるな」
「はい」
「だが,俺のすべてを,支えようとするな」
「……努力します」
「努力で済む話でもないな」
二人は,困ったように,小さく笑った.
答えは出ていない.
だが,これまでになかった会話だった.
そのとき,ため息が聞こえた.
「……やっぱり,ここだった」
アメリアが,腕を組んで立っていた.
気配を消す気は,最初からない.
「夜の訓練場で,
こんな空気出してるの,この二人だけよ」
「……聞いていたのか」
「聞こえるように話してる方が悪いの」
アメリアは,リリーの隣に立つ.
友達として,ごく自然に.
「ねえ,リリー」
「はい」
「今の,補助できなかったでしょう」
リリーは,正直に頷く.
「はい」
「それ,失敗じゃない」
「人の心は,補助対象外だから」
ガレオンを見る.
アメリアは,彼に説明しない.
ただ,一言だけ添える.
「この人,自分で考えて,ここまで来たのよ」
ガレオンは,何も言わなかった.
否定もしなかった.
雲が月を隠し,訓練場が少し暗くなる.
三人の影が,重なり,そして離れる.
リリーは,術式ノートを胸に抱いた.
今日は,一行も書き足せなかった.
だが,確かに知ったことがある.
――補助できないものがある.
――それは,相手を大切に思う気持ちから生まれる.
――だからこそ,消してはいけない.
それが信仰かどうかは,まだ分からない.
けれど,
「最強で居続けなければならない」と思わせてしまうほど,
誰かを見ているのだとしたら.
それはきっと,
ただの信仰では,もう済まないのだろう.
半径三歩は,まだ保たれている.
だが,そこに立つ理由は,
確実に,変わり始めていた.




