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自分のための術式

 リリーは,朝の学舎が少し苦手だった.

理由は簡単で,人が多いからだ.


 誰かの魔力が流れ,

誰かの感情が揺れ,

それらが無秩序に重なり合う.


 だから自然と,補助をかけてしまう.

空気を整え,流れを均し,衝突を避ける.

それはもう,呼吸と同じだった.


 ――けれど,今日は違った.


「……何も,しない」


 自分に言い聞かせるように,小さく呟く.

術式ノートは鞄に入っているが,開かない.

魔力も,意識的に流さない.


 昨日の夜のことが,頭から離れなかった.


『最強で居続けなければならないと感じてしまう』


 ガレオンの声.

弱音に近い,それでも誠実な言葉.


(私が……)


 考えが,そこで止まる.

答えを出すには,まだ早い.

だが一つだけ,確かな違和感があった.


 ――私は,誰のために魔法を使ってきたのだろう.


 授業中,アメリアがちらりとこちらを見る.

リリーが何もしていないことに,すぐ気づいた.


「……今日は,大人しいわね」


「はい」


「珍しい」


「自粛です」


「何の?」


「補助の」


 アメリアは,ペンを止めてため息をついた.


「極端なのよ,あなた」


「そうでしょうか」


「そうよ」


 だが,それ以上は言わなかった.

リリーの中で何かが動いていることを,感じ取っていたからだ.


 放課後,訓練場の前で,足が止まる.

いつもなら,迷いなく中に入る時間だ.


(今日は……)


 中から聞こえる剣の音.

ガレオンの気配.


 胸が,少しだけ痛む.

半径三歩に近づくことを,ためらっている自分に気づく.


(……逃げている?)


 違う.

逃げたいのではない.

確かめたいのだ.


 そのとき,訓練場の奥で,騎士の声が上がった.


「隊長! 左!」


 続く衝撃音.

剣が弾かれる音ではない.

身体が,地面に叩きつけられる鈍い音.


 リリーの思考が,止まる.


 魔力が,反射的に動きそうになる.

いつものように,循環を整え,負荷を分散し,

最適な一手を――


(……だめ)


 昨夜の言葉が,胸に刺さる.


『俺のすべてを,支えようとするな』


 拳を,ぎゅっと握る.

魔法を使うな.

使うな.


 だが,視界の端で,ガレオンが膝をつく.

一瞬.

本当に,一瞬だけ.


 その瞬間,リリーの中で,何かがはっきりした.


(私は)


 彼を最強で居続けさせるために,ここにいるのではない.

世界を,安定させるためでもない.

正解を,選び続けるためでもない.


(……私は)


 自分が,怖いのだ.


 彼が倒れるのが.

彼が遠くなるのが.

半径三歩が,永遠に失われるのが.


 だから――


「……術式」


 声が,震える.

だが,止めなかった.


「術式,未登録」


 これは,誰のための補助でもない.

戦術でも,支援でもない.


「自己認識補助」


 初めて口にする言葉だった.


「対象……私」


 魔力が,内側に落ちる.

外へは広がらない.

誰も,恩恵を受けない.


 ただ,リリー自身の中で,何かが整う.


 呼吸が,戻る.

視界が,澄む.

胸の奥で絡まっていた感情が,静かにほどけていく.


(私は,ここにいる)


(逃げていない)


(選んでいる)


 次の瞬間,ガレオンが立ち上がった.

部下の援護を受け,自分の足で.

剣を握り直し,戦列に戻る.


 それを見て,リリーは初めて――

魔法を使わずに,安堵した.


 戦闘が終わったあと,ガレオンは,こちらに気づいた.

視線が合う.

いつものように,叱るでもなく,呼ぶでもなく.


 ただ,少しだけ,表情が和らいだ.


 リリーは,半径三歩の手前で止まる.

自分から,距離を選ぶ.


「……今日は,補助を控えました」


「……分かっている」


 理由を,聞かれない.

説明も,求められない.


 それが,嬉しかった.


 帰り道,アメリアが待っていた.


「使った?」


「はい」


「補助?」


「いいえ」


「……誰に?」


 リリーは,少し考えてから,答えた.


「私に」


 アメリアは,目を見開き,

そして,ふっと笑った.


「やっと,スタートラインね」


 夜.

リリーは,術式ノートを開く.

新しいページに,初めてこう書いた.


『対象:私』


 それは,世界を救う術式ではない.

誰かを最強にする魔法でもない.


 けれど確かに,

リリー自身の人生を,ほんの少しだけ,前に進める魔法だった.


 半径三歩は,まだある.

だがその中心に,

初めて「リリー自身」が立ったのだった.

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