空白を埋めるもの
ガレオン・アルスティア団長の不在は,
騎士団にとって,想定内ではあったが,歓迎されるものではなかった.
南方境界での貴族間紛争.
形式上は調停だが,
実質は武力衝突寸前の状況.
団長自らが出向くのは,
最悪の事態を避けるための判断だった.
その結果,王都周辺の防衛と警戒は,
副団長以下に委ねられることになった.
「……静かすぎるな」
副団長が呟く.
訓練場ではなく,
王都北区の古い魔導施設跡.
結界の補修と再起動が,今日の任務だった.
「静かなときほど,嫌な予感がする」
それは,経験則だった.
リリーは,現場の少し後方に立っていた.
指示は受けていない.
だが,ここにいる理由は明確だ.
この施設の結界は,
単純な防御ではない.
魔力の流れそのものが複雑に絡み合い,
一部が崩れれば,連鎖的に不安定化する.
(……団長がいれば)
その考えが浮かび,すぐに打ち消す.
いない.
だから,考えても意味がない.
代わりに,周囲を見る.
騎士たちの配置.
魔導士の緊張の度合い.
空気の揺れ.
誰も気づいていない.
だが,魔力の層が,微かに歪んでいる.
「……このまま起動すると,
中央結節が耐えません」
リリーは,小さく声を上げた.
副団長が,すぐに振り向く.
「根拠は?」
「数値では説明できません」
「ですが,
流れが“詰まっています”」
曖昧な言い方だ.
理論屋なら,眉をひそめる.
だが副団長は,黙って考えた.
「……止める」
「全員,起動準備を中断しろ」
現場がざわつく.
時間は押している.
上からの圧もある.
「責任は俺が取る」
それで,誰も反論しなかった.
リリーは,ゆっくり前に出る.
結界の核に近づき,
目を閉じる.
術式は,展開しない.
魔力も,大きくは動かさない.
ただ,
流れを,ほどく.
絡まった糸を,
無理に引きちぎらず,
一本ずつ緩めるように.
周囲の魔導士が,息を呑む.
数値が,安定していく.
暴走寸前だった揺らぎが,
嘘のように消えていく.
「……起動,可能です」
リリーの声は,静かだった.
再起動は,成功した.
魔力の逆流も,崩落も,起きなかった.
報告書には,こう記されるだろう.
――問題なく完了.
だが,問題がなかった理由は,
どこにも書かれない.
その日の夕方,
リリーは学舎の中庭にいた.
任務後の疲労はあるが,
達成感は薄い.
それでいいと思っている.
補助とは,そういうものだ.
「……お疲れさまでした」
声がかかる.
振り向くと,セシリオが立っていた.
今日は,王城の服装ではない.
学舎に溶け込む,柔らかい装いだ.
「現場,見ていました」
「……そうでしたか」
「ええ」
「団長不在で,
あの判断ができるとは思いませんでした」
褒めている.
だが,声の調子は淡々としている.
「怖くは,ありませんでしたか」
「……怖くなかったと言えば,
嘘になります」
「でしょうね」
セシリオは,隣に立つ.
距離は,詰めすぎない.
だが,偶然ではない位置だ.
「団長がいないとき,
あなたは,より自由だ」
断定だった.
「支える対象がいない分,
判断が,あなた自身のものになる」
リリーは,すぐには答えなかった.
先ほどの現場を思い出す.
確かに,
誰の背中も見ていなかった.
誰の力も前提にしていなかった.
「……そうかもしれません」
正直な答えだった.
「それが」
セシリオは言う.
「あなた本来の位置です」
また,一歩踏み込んできた.
だが,命令ではない.
否定でもない.
「団長は,象徴として必要だ」
「ですが,
今日のような場面で世界を救うのは,
あなたの判断だ」
リリーの胸に,
微かな違和感が生まれる.
だが,反論できるほどではない.
「王城は」
セシリオは続ける.
「今日の報告を,
“問題なし”として処理します」
「……はい」
「ですが私は」
「あなたが,
何をしたかを見ていました」
その言葉は,
囲い込むためのものではない.
だが,確実に距離を縮める言葉だった.
「団長が戻るまで」
「何かあれば,
私に相談してください」
それは,
“団長を通さない窓口”の提示だった.
「あなたが判断する場面は,
これから増えます」
リリーは,
ゆっくりと息を吸う.
「……分かりました」
即答しなかったことが,
彼女なりの線引きだった.
セシリオは,
それ以上踏み込まなかった.
今日は,ここまででいいと判断したのだろう.
彼が去ったあと,
リリーは空を見上げた.
団長は,いない.
だが,世界は動いている.
(私の魔法は)
誰かがいなくても,
機能する.
誰かの影でなくても,
役に立つ.
その事実は,
静かだが,確かな重みを持っていた.
そして同時に,
自分が,
誰の言葉に近づきつつあるのかも,
はっきりと意識していた.
補助魔法は,空白を埋める.
だが,
空白に入り込む言葉は,
慎重に選ばなければならない.
それを,
リリーは,今日学んだのだった.




