アイビーヒルの切り株亭・1
いくつかの街を転々とし、ようやくたどり着いたこの街。
犬だったときは街の名前も分かっていなかった。小さな犬の身にとっては、この街が世界のすべてだったから。
リルは宿屋の入り口に捨てられていた犬だ。“ご主人”が見つけて、飼い主が見つかるまでと外で飼ってくれた。
ご主人は、困った人がいたら放っておけないようなお人良しで、宿には彼を慕う人間がよく集まっていた。
リルも大好きだった。忙しくてあんまり構ってはもらえなかったけれど、温かい手でいつも頭を撫でてくれたから。
忙しいご主人は散歩に連れていく暇も無かったけれど、従業員やその家族などが交代で連れて行ってくれた。
無駄吠えしないリルを、宿屋を訪れる人は気に入り、やがてマスコット犬のように扱われることになった。
そのころには、ご主人もリルを家族の一員だと思ってくれていたようだ。
すべてを思い出せるわけではないのだが、リルの記憶はどれも温かい。
記憶が混在するロザリーにとって、幸せなリルの記憶は心のよりどころとなっていた。
通りをまっすぐに向かうとある、大きくはない古い宿が見えてきた。
「たぶん、ここです」
木造で白壁の宿屋だ。レンガ作りの花壇が入口の脇を彩っている。看板を見れば【切り株亭】と書いてある。
うん。訪れる人がそんな名前を言っていたような記憶はある。
リルの記憶と照らし合わせると、宿屋の外観は多少の変化がある。
以前あったはずの犬小屋は無くなっているし、木にかけられた小鳥のための巣箱も古ぼけて見える。
リルが生きていたのが何年前のことなのかわからないが、ロザリーが今十六歳であることを鑑みれば、それ以前ということになるのだから、変化があって当たり前なのだろう。
(ご主人様はあのときでいくつだったのでしょうね。当時、お兄さん……いや、おじさん? くらいだったはず。名前も思い出せない。顔ははっきり思い出せるのに)
リルは文字や言葉に関する記憶が弱い。当時は文字が読めなかったし、人間の言語は理解はできたが、分からない単語も多かった。
さて、ようやく目的地まで来たが、問題は今のロザリーが十六歳の令嬢だということだ。リルの記憶があるなんて言ったら絶対変人扱いされるに決まっている。
宿屋の前でロザリーは腕を組みながら悩む。
とにかくここに長く滞在したい。けれど、お金は限られているのだからできる限り節約したい。方策として思いつくのは、住み込みで働くことくらいか。
それにしても先ほどからいい匂いが漂ってくる。おそらく宿で提供する食事の匂いなのだろうが、そっちに集中してしまい、ゆっくり考えをまとめることができない。
(考えていても始まらないです。ダメもとで頼んでみましょう!)
どうせ、もう失うものは何もないのだ。
だったら何事に対しても向かっていくしかない。ロザリーはすでに悟りの境地にまで達していた。
(頑張るしかないのです! 行きます!)
ロザリーは思い切って宿屋の扉を開けた。
入口からすぐが受付のカウンターになっていて、その左側には二階へと上がる階段がある。しかし、今、受付には誰もいなかった。
入って右手は食堂のようで、いくつものテーブルが綺麗に整列し、数人のお客が入っていた。カウンター席もあり、そこには金髪と黒髪の見目麗しい男性の二人組がいた。
カウンターの内側は厨房になっているようだ。白のエプロンを付けた男性が、お玉をもって弁舌をふるっている。
ロザリーに気が付くと、「……いらっしゃい」と少し面倒くさそうに言った。
「えっと、あの。この宿のご主人様はいらっしゃいますか?」
ロザリーがおずおずと問いかけると、カウンター席に座っていた金髪の男性が朗らかにほほ笑み、立ち上がった。
「やあ、可愛いお嬢さん。この宿の主はこいつだよ」
調理師を指さし、さっとロザリーの前に来て、荷物を運ぼうとしてくれる。
着ている服も高級そうで、物腰が上品であることから、貴族のご子息なのだろうと予想できた。
それにしてもいい香りである。
宿屋に入る前からいい香りが漂っていたが、中に入るとよだれがこぼれそうになるのを必死で我慢しなければならないほどだ。
やがて調理師の男性が厨房の中から出てくる。
三十歳前後の青年だ。リルの記憶にあるご主人様と同じくらいの年齢に見える。けれど顔は違うから、リルのご主人様とは違うのだろう。
ということは代替わりしてしまったのか。この青年にも見覚えがあるような気はするが、記憶が定かではない。
ロザリーは急に不安になってきた。
(どうしよう。ご主人様はいないのね。……でも、この宿で絶対間違いはない。だとすれば、ここに居れば、いつか何かが思い出せるかもしれないし)
「お客さん?」
いぶかしそうに再度問いかける店主に、ロザリーは思い切っていった。
「私、ロザリーと申します。一生のお願いです。どうか私をここで使ってください!」
一瞬の間が開いた。
返答が怖くて頭を上げられないロザリーの耳に届くのは、戸惑い交じりの店主の声だ。
「え……っと、でも、君、いくつ? 保護者は? ひとりで来たの?」
完全に子供に対する態度を見せられ、ロザリーはハッとする。
貴族の女性としては、十六歳は決して子供ではない。社交界にデビューすることで大人の仲間入りをし、夫となる人を見極めていく、いわば転換期にあたる年齢だ。
庶民とて、働き手として特段幼い年齢ではない。……が、貴族の令嬢として育てられたロザリーはともすればもっと幼く見えるのだろう。
ましてロザリーは身長百五十五センチと小柄なほうだ。丸顔のせいか年齢より子供に見られるのはいつものことだった。
「私、十六です。もう大人ですもの。ひとりで旅をしているんです。その、仕事を探しているんです。こちらの宿屋で使ってもらうことはできますか?」
「働くって……」
店主の視線が、ロザリーの手にうつる。ロザリーはまじまじと見られないように手を重ねて隠した。
荒れていない手は、ロザリーが常から仕事に従事していないことを如実に表している。




