降り立ったのは温泉地・4
祖父への説得は、ロザリーが思う以上に難航した。
「だからね、おじい様。私は結婚したくないんです。それよりも旅に出たいの。おじい様もお気づきでしょう? 事故にあってからずっと、感情が動かないんです。何を見てもどこか他人事のようで、心に響いてこない。でもそれは、ずっと屋敷に閉じこもっていたら取り戻せないと思うんです。私は旅に出て、いろいろなものに触れて、感情を取り戻したいのです」
犬の記憶があることは黙っておく。下手なことを言えば連れていかれるのは精神病棟だ。
「しかし、女の身一つで旅に出るなど……」
「でも誰かに守られてする旅なら、ここにいるときと変わらないでしょう? おじい様。後見人になってくださったのは嬉しいけれど、私は今のままではだめな気がしているの。おじい様もわかっているんでしょう? 私がお父様とお母さまの死を、いつまでたっても悲しめずにいること」
エイブラムはわずかに身じろぎをした。ロザリーはその迷いを見逃さずに畳みかける。
「おじい様。私は父母と一緒に死んだものと思ってください。例え途中で野垂れ死にしたとしても、自ら望んだことです。おじい様を恨んだりはしません。縁談も、孫娘は失踪したと言ってお断りくださいませ」
「……ロザリンド」
十六歳の娘が、怯えもせずにそんな覚悟めいたことを言うことにも、エイブラムはぎょっとした。やはり何かがおかしい。少なくともエイブラムの知る無邪気な孫娘ではないのだ。エイブラムは迷ったがやはり決断は同じだ。
「いや……ダメだ。男爵家の令嬢が家出したなんて知れてみろ。お前の経歴に傷がつき、嫁の貰い手など無くなってしまうぞ」
祖父はそう言うと、話は終わりだとばかりに部屋を出て行ってしまう。
しかしロザリーは諦めきれない。
その後、何度か屋敷を抜け出そうと画策し、そのたびに執事のオルトンに連れ戻された。
そしてある日の夜、執事が部屋にやって来て言ったのだ。
「明日、エイブラム様は朝から屋敷を留守にするそうです」
「そうですか」
「男爵家のご令嬢ロザリンド様は原因不明の病に倒れ、数日前から起き上がれない状態となっております。その治癒祈願のため教会で祈りをささげるのです。病気を理由に縁談もお断りするそうです。明日、ロザリンド様の侍女ロザリーが薬を買いに遠くの街まで出かけそこで失踪してしまう予定となっております」
「侍女……? 予定?」
「薬を探す旅に出る侍女へ、エイブラム様からプレゼントですよ」
それは、大きな旅行鞄と薄緑色のワンピースだ。町娘が着るようなシンプルなデザインだが、触れば柔らかく素材がいいことがわかる。旅行鞄も車輪がついていて、力のない女性でも押しながら移動できる。
「オルトン……。いいの……?」
驚きのまなざしで見つめるロザリーに、執事は苦笑を返す。
「旦那様もさすがに根負けされたそうです。しばらく旅をするのに困らない路銀と町娘に見えるような服を用意するよう仰せつかりまして、今日ようやく揃いました。羽振りが良すぎても悪漢に狙われる原因となりますので、鞄とドレスには隠しポケットが作ってあります。貴重品はできるだけそこに隠すようにと」
「……ありがとう!」
「ルイス男爵家の体面を考えれば、手放しにお嬢様の好きにしろとは言えないのです。どうかご理解くださいませ」
「もちろんよ。おじい様は?」
「もうじきお休みになられます。……お休みのご挨拶になら行っても構わないかと」
「ありがとう! オルトン」
ロザリンドはすぐさま自分の部屋から飛び出し、祖父の寝室へと向かった。
ノックをして返事を待つのももどかしく扉を開ける。
「ロザリンド」
「おじい様、おやすみの挨拶に参りましたわ」
ベッドに横たわる祖父の表情は、苦悩に満ちていた。
「……やっぱり」
ためらいを口にしかけた声を、ロザリーは頬へのキスで黙らせる。
「心配してくれてありがとう、おじい様。でも私、大丈夫です」
「……ロザリー」
エイブラムが自分を心配してくれているのだと思った途端に、ロザリーのお尻のあたりがムズムズする。
(あ、私、今……嬉しいんだぁ)
尻尾を振っているような気分になり、祖父に対してその感情が沸き上がったことにほっとする。
「私、感情を取り戻したいんです。旅をすることで取り戻せる気がするんです」
うっすらとだが、ロザリーの目に涙が浮かんだ。
エイブラムはそれを真顔で見つめ、きゅ、と彼女を抱きしめた。
(うっ……加齢臭が)
鼻のいいロザリーにはきつい体臭。だけど、嬉しさが先にたち、ロザリーも彼を抱きしめ返した。
「すまん」と小さく呻かれて、ロザリーの胸に、嬉しいような申し訳ないような複雑な感情が生まれる。
明らかにおかしいのは自分のほうなのに、祖父は自分を手放すことに悔恨を抱いているのだと思えて。
いまだ加齢臭が強く顔をしかめそうになりながらも、自然に口もとには笑みが浮かんだ。
「おじい様、ありがとう。私、ちゃんと自分自身を見つけてきます。おやすみなさい」
祖父の頬にもう一度キスをして、ロザリーは部屋へと戻った。
そして翌朝、執事のオルトンただひとりに見送られ、ロザリーは旅だった。
頼るところも何もない、ただ記憶にある街を探すのみの旅。
不安はもちろんあるけれど、感情が鈍くなっている今は足踏みしてしまうほどではない。
幸い、祖父が持たせてくれた資金は潤沢で、しばらくの期間ならなんとかなる。
とりあえずは、乗合馬車が通る近くの街まで。
そこからは勘の赴くまま、リルが住んでいたであろう街を探す。
こうして、ロザリーの旅は始まった。
目的地であるアイビーヒルにたどり着いたのはそれから一週間後のことだ。




