第一章 静かな歪み
朝の食卓は、いつもと変わらなかった。
大きな食堂には、余計な音がない。
ナイフが皿に触れるかすかな音だけが、広い空間に落ちていく。
エリアス・レーヴェンハルトは、視線を上げないまま食事をしていた。
きちんと整えられた黒髪は、年齢に似合わぬほど落ち着いた印象を与えていた。
淡い灰色の瞳は光を映さず、感情の揺れを奥に沈めている。
正面には父クラウスが座り、
その隣には母エレノアが静かにいた。
誰も、必要以上に言葉を交わさない。
それが、この家の“普通”だった。
「本日の予定だが」
クラウスが、食事の合間に淡々と口を開いた。
「午後から親戚筋との会食がある。失礼のないように」
「承知しています」
エリアスは短く答える。
エリアスの反応は薄く、会話は淡々と形式的に進んでいく。
昼過ぎ、邸宅の一室には親戚たちが集まっていた。
貴族特有の香水の匂いと、作り物のような笑顔。
その中に、同年代の少女がいた。
淡い金髪の少女は、エリアスを見ると微笑んだ。
「はじめまして、エリアス様」
「……ああ」
必要最低限の返答。
会話は形式的に進んでいく。
家柄、教育、将来の話。どれも表面をなぞるだけのやり取りだった。
「エリアス様は、どのようなお勉強をされているのですか?」
少女は何気なく尋ねる。
「剣術と基礎学問だ」
「まあ、しっかりとしたご教育を受けていらっしゃるのですね」
少し間を置いて、少女は続ける。
「では、ご両親とお過ごしになる時間も多いのでしょうか?」
エリアスは一瞬だけ言葉を止める。
その沈黙に、少女はわずかに視線を揺らした。
「……必要なときだけだ」
「そうなのですね」
少女は特に踏み込まず、軽く頷く。
さらに軽い調子で、話を続ける。
「エリアス様は、ご両親とどちらへお出かけになることが多いのですか?」
エリアスは少しだけ視線を動かした。
「出かけることはあまりない」
「まあ、そうなのですね」
少女は一瞬だけ言葉を選ぶようにしてから、表情を整えた。
少女の反応はわずかに硬さを帯びていたが、それはすぐに社交的な微笑みに隠された。
「では、ご両親とは普段どのようなお話をされるのですか?」
エリアスは少し考えたあと、短く言った。
「特に、何も」
その答えに、少女は一瞬だけ視線を落とす。
そして、穏やかに微笑んだ。
「まあ……素晴らしいご家庭でいらっしゃいますのね」
周囲の会話は、何事もなかったかのように続いていく。
誰も、その違和感に深く踏み込まない。
その様子を、クラウスはただ見ていた。
評価するような目だった。
失敗でも成功でもなく、“記録”を見るような視線。
何も言わない。
一方でエレノアは、わずかに眉を動かしていた。
「少しお疲れのようですね」
そう言って、場をやわらかく流す。
それ以上は踏み込まない。
会食が終わったあと、エリアスは邸宅へ戻った。
廊下は長く、静かだった。
その途中で、クラウスの視線が背中に落ちる。
言葉はない。
ただそれだけで終わる。
夕方、応接室に呼ばれたエリアスは、新しい家庭教師と対面した。
扉が開く気配とともに、男が室内へ入る。
その動きに無駄はないのに、存在だけがわずかに遅れて届くような奇妙な感覚があった。
「ルーカス・グレイヴスです。本日よりご指導を担当いたします」
ルークと呼ばれることになる男だった。
ルーカス・グレイヴスは、年齢の判断がつかない男だった。
黒に近い茶の髪は、整っているようでいて、どこか意図の読めない静かな乱れ方をしている。
落ち着いた色の瞳は静かだが、感情の輪郭だけが薄く見えなかった。
姿勢は崩れない。だが、剣士のような緊張もない。
ただ静かに、“観察する側の人間”の空気を持っていた。
「教育方針については、クラウス様より伺っております」
ルークはそう言って、軽く頭を下げた。
クラウスは短く頷いた。
それだけだった。
そのやり取りを見ながら、また管理が増えるという事実に、エリアスは内心うんざりした。
ルークの視線が、一瞬だけこちらを向いた。
ほんのわずかに間があった。
すぐに逸れる。
何事もなかったように。
夕暮れが邸宅を染めていく。
すべては静かで、何も起きていないように見えた。
それでも。
この家のどこかが、最初から噛み合っていない気がした。




