龍造寺恋鐘の真実
間延びした声で言って、恋鐘先輩が俺を見上げながら微笑を浮かべる。
それから俺に向けて拍手した。
「なかなかの名探偵ぶりだったよ。ご明察。君の推理通り、伝えていなかったルールがある」
彼女は右手と左手を掲げた。
「ボクが右手で触ったものは時間停止を解除する。左手は解除したものの時間停止を再開させる。ボクはこの能力を、サンアンドムーンと名付けている」
厨二病なセンスだな。今は指摘しないでおくが。
「そして時間停止現象中、ボクが一度でも解除した物体に限り、一定距離を置くと再び時間停止状態になるのも正解。近づけば再び動き出す、君のようにね。もう少し補足すると、触れていようがいまいが、この変化は強制的なんだ。どういうことかと言うと、左手で触って固定していたものでも、一度距離を離して戻ってくると動き出してしまう」
なるほど、そこは盲点だった。俺が救われた時点では恋鐘先輩に左手で触られていたはず。普通に考えれば、恋鐘先輩と7年後に再会したときも固定された状態にあって、時間停止現象は解除されないはずだ。しかし距離のルールに当てはまったおかげで、彼女が右手で触れなくても動き出してしまったわけだ。なかなか複雑になっている。
「範囲はどれくらいなんですか」
「ボクを中心に半径10キロメートルってところかな。昔検証したから」
結構な距離だが、隣県に住んでいればそれくらいの距離はクリアしている。
本当に幸運だったのはここだ。もしも俺が恋鐘先輩から10キロメートル圏内に住んでいて、かつ恋鐘先輩と再会できなかった場合、俺は人知れず急な餓死者となっていたのかもしれない。ゾッとしない話だ。
「ただし、君がボクの能力が効く存在になってしまったのは、完全に予想外だった。無生命体から生命体に戻ったときにも引き続き能力の効果が続いてるっていうのは、君が現れて初めて知ったことなんだよ。最近、自宅の植物でも再現実験してみて成功した。もう知らないことはないと思ってたんだけどねぇ……」
恋鐘先輩が背を向ける。ふわりと黒髪が舞った。「答え合わせしようか」
「確かに君を助けたのはこのボクさ。あの台風が過ぎ去った蒸し暑い晴れの日、時間停止現象が起こった。ボクは外に出て、どす黒い濁流の中から伸びた小さな人間の手を発見した。さすがに血の気が引いたよ。時間停止した川の上を走ってそこに辿り着くと、子どもが川の中に埋まっているのが見えた。溺れていると、一目で分かった」
淡々とした説明だが、当事者である俺には荒れ狂う川も切迫した状況も、容易に想像できる。彼女の動揺が相当なものだったことも。
「すぐに助けようとした。溺れている人間がいきなり岸に移動したら不自然だとか考える暇もなかった。ボクは君の推理通り、周りの水の時間停止を解除して君を引っ張り出せるようにした。そうして岸まで連れて行こうとしたとき――君の体が動かせてしまった」
腰の後ろで手を組んだ恋鐘先輩が、プールサイドをゆっくり歩いて行く。
「原因はすぐに理解出来たよ。あのときは焦ったなぁ。こっちは中1だからね。頼れる大人もいないし、猶予があるかも分からない。でも放っておけなかったから、岸まで引っ張って付け焼き刃の人工呼吸と心臓マッサージで何とか蘇生を試みた。後で考えたら、あれが初キスだったなぁ」
「ノーカンにしましょう」
あはは、と恋鐘先輩は笑う。だが背を向けたまま歩いて、俺から遠ざかっていく。
「あなたは最初から、俺が時間停止に巻き込まれた原因に気づいてましたね?」
遠ざかっていく背中に聞こえるように、少しだけ声を張る。
「あなたがルールを隠していたのは、俺が原因に気づかないようにしたとしか考えられない。俺の時間停止を再開させた2回は、解除した物体の時間停止を再開させるための工作時間を捻出するためだった。なにせ一度解除したものは、次の現象中も動かせてしまう。たとえば俺が自室にいるときに現象が起きて、あなたがいないのに急に物を動かせたら、あなたが嘘をついていることに気づくでしょう。それを避けようとした、つまり嘘を付き続けるためにやったことなんです……でも、どうしてですか。どうしてそんな面倒なことをしてまで、隠したんですか?」
恋鐘先輩がプールサイドの端に到着し、立ち止まる。
「答えてください」
俺は、自分の声が強張っていることを自覚した。
不安とも恐れとも苛立ちとも形容できるような、不快の塊が胸の中で膨れあがっていく。理解できない気味の悪さを振り払いたくて、答えを待つ時間が惜しい。
どうして嘘をついたのか。どうして本当のことを教えてくれなかったのか。
教えてくれたら、俺は迷わずに済んだ。部活のことも、バイトのことも、将来のことも、何も不安に感じる必要はなかった。
なにせ左手で触れられれば、現象が終わるまで他の皆と同じように固定された状態で居られる。どうサバイバルするかなんて考えなくて良い。冷凍睡眠で一瞬にして未来に行く、みたいな感じで現象が終わるまで無事に過ごせる。卒業後も、恋鐘先輩から離れれば自然に時間停止現象に巻き込まれることがなくなる。元の生活に戻れる。
けれど彼女は、その方法を俺に教えてくれなかった。
俺が悩み、暗鬱とした気分を抱えている姿を横で見ていたにも関わらず。君は今も将来も無事でいられると言えたのに、あえて黙っていた。
なぜ――。
「俺を巻き込んだことに、負い目があったからですか?」
恋鐘先輩の思考が、目的が、感情がまるで読めない。
これまで接してきた彼女の態度が全て幻だったかのようで、そんなはずはないと否定したくなる。
だから俺は、無理矢理に納得のいく理由をひねり出すしかなかった。
「こんな風になったことは自分に責任がある。そういう後ろめたさとか心苦しさがあって、言い出せなかったんですか?」
恋鐘先輩が、くるりと踵を返した。進んできた道を、またゆっくりとした足取りで戻ってくる。
月光があるとはいえ、薄暗い中では彼女の表情がよく見えない。
「もしそうだとしたら……俺は怒ったりしないですから。命を救って貰ったことに変わりはないし、これまで俺を助けてくれた。恨みなんてない、だから――」
それは、俺の願望だった。
そうであって欲しいという、都合の良い解釈だった。
「違うよ?」
それを彼女は、真っ向から否定した。
「ボクは君の身に起こったことを把握していた。把握した上で黙っていた。だって、ズルいじゃない」
恋鐘先輩が近寄ってくる。
その目元も口元も、三日月のように弧を描いていた。
「君はボクが左手で触れれば、時間停止世界を過ごさなくて済む。狂いそうになる地獄みたいな環境で生活する必要はない。いつ終わるとも知れない孤独に苛まれることもない。君は助かる手段が最初からあった。でもボクには救済措置がないんだよ。ボクはずっとずっとこれからも独りだ。なのに君は、簡単に救われる。現象が始まっても一瞬にして離脱できる。それってさ、ズルくない?」
彼女は愉悦を込めて笑っている。俺を翻弄するように、嘲るように。
「――ズル?」
「そう、ズルい。だからボクは君に黙っていたし、涙ぐましい隠蔽工作もした。だって全容を喋ったら、左手で触れって言ってくるでしょ? 耐えられないから意識を失わせてくれって頼むでしょ?」
「それは……」
「しない、なんて約束できない。十分に身に沁みたはずだからね。ここで生きることがどれだけ辛くて苦しいか。そしてボクは逃げられない。君だけが逃げられる。なのでボクは逃げられないように嘘をついた。君も苦しむべきだ」
ズルい。卑怯。不平等。不公平。嫉妬。羨望。これらを包括する感情が俺に向けられている。
「俺は、そんなことは……」
「こちとら君の命を救ってあげた相手だしさ。偶然巻き込んじゃったけど、それだってボクが君を助けなかったらこうして会うこともなかった。なら、ボクがどうするか決めてもいいと思わない?」
俺は自分の耳を疑っていた。信じられない言葉だった。
逆恨みにも程がある。子どもの癇癪と同じだ。
そんな理由で、俺は将来を憂いて余計なストレスを抱えていたのか。完全な杞憂だったのに、たくさんのことを諦めてきたのか。
彼女に迷惑をかけることに悩み、気遣ってきたことが、全て無意味だったと。
恋鐘先輩が俺の前までやってきて、立ち止まる。
「ごめんね?」
彼女は悪びれもせず、そう言ってのけた。
「これはボクの八つ当たりで、腹いせでした」
腰の後ろで組んでいた両手を、だらりと下げる。
「呆れたよね。ムカつくよね。でもこうするしかなかったんだ、ボクという人間は。悪行だと分かっていてもぶつけずにいられなかった。そういうクズなんだよ、《《私は》》」
左手をゆっくりと上げていく。
「もう少し楽しみたかったけど、バレちゃったらしょうがない。まぁ君には十分笑わせてもらったし、せめてものお礼に、次の現象からはすぐに左手で触れてあげるね。あぁ、部活はどっちでもいいよ。好きにしな」
俺に左手が迫る。
「……っ」俺は無意識に後ろに下がって、触れられることを回避していた。
恋鐘先輩は宙ぶらりになった左手を自分の目の前に持ってきて、掌を凝視した。
「そっか、ここで触れたら次に目覚めたときはこの場所になっちゃうもんね。家に戻ってからにしよう」
もう、いつもの恋鐘先輩みたいだった。
けれど俺の中で、音を立てて崩れていくものがあった。
これまでの恋鐘先輩の姿と、目の前の少女の姿が、まるで重ならない。
――人はね、狂うのさ。
いつかの台詞が蘇る。
この人はもう、狂っていたんだ。倫理観も道徳心も完全に、どす黒い汚れた感情に塗りつぶされていた。
ぐにゃりと、視界が揺れる。
「……ふざけんなよ、あんた」
「うんうん、気持ちはよーくわかるよ。悪い夢だったと許して頂戴。ボクを少しでも可哀想だと思うならね?」
奥歯を噛みしめる。俺の悪態にすら、感情を荒立てる素振りがない。
本当に、恋鐘先輩の機嫌を良くするための玩具でしかなかったんだ。
踵を返す。プールサイドを進むと後ろから追随する気配があった。思わず「ついてくるな」と叫んでしまう。
独りでプールの出口まで向かう。一刻も早くこの場を去りたかった。彼女から離れたかった。得体の知れない現象も、理解出来ない人間の感情も、全て忘れ去りたかった。
俺はもう関係ない。人を人とも思わない人間がどうなろうと、知ったことじゃない。まっぴら御免だ。
龍造寺恋鐘との出会いは、間違いだった。
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