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龍造寺恋鐘の時間停止ミステリ  作者: 伊神一稀
第3章 時の止まった屋上
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推理②:血に濡れた包丁

 落下すれば命はない。よしんば即死ではなかったとしても、時間停止が解除されるまで重傷のまま放置だ。落ちたら100パーセント死ぬ。

 早鐘を打つ心臓を、冷静な呼吸で抑えながら、羽田先輩の隣に降りる。屋上の縁は足のつま先が少しはみ出ているくらい、狭い範囲だった。あまりにも心もとなくて、自然に足が震えてくる。


「小林くん!」

「大丈夫。すぐに取って戻ります」


 恋鐘先輩に声だけかけて、俺は羽田先輩の右手が握り締めた包丁の柄の部分を二本指で挟んだ。五指で掴めるほど掴めるスペースは長くない。

 だが幸いなことに、時間停止した瞬間はそれほど強く握っていなかったようで、隙間は割とある。


「くっ……」


 ゆっくりと、少しずつだが、固まった右手から包丁が抜けていく。


「もういいよ戻っておいで!」

「なに言ってんすか。もうちょい」


 情けない声を出す恋鐘先輩を意外に思いつつ、俺は何とか指の力だけで包丁を抜き取った。手で握ったそれをすかさず屋上に放り投げる。背後で乾いた音が鳴った後、一息ついてすぐにフェンスをよじ登った。

 ホッとした様子の恋鐘先輩と共に床に降りる。緊張が解け、俺は膝をついた。


「こら」


 膝に手を手をおいてうつむいていると、頭にチョップが振り下ろされた。


「なにしてんの君は」

「なにって……代わりに包丁取ったんですけど」

「危ないでしょ」

「先輩の方が危ない」

「ボクはいいの!」


 どんな理屈だ。

 「まったく」ぶつくさ言いながら恋鐘先輩が包丁を拾いに行った。俺はチョップを受けた頭頂部を撫でる。別に痛くはないが、てっきり喜ばれると思っていたから、何となく腑に落ちない。

 恋鐘先輩は打って変わって、真剣な目つきで包丁を眺めていた。


「なにか分かりましたか」

「見て」


 彼女は包丁を見せてきた。刃にべっとりと血が付着しているが、刃こぼれはない。血は時間停止が解除された後でも垂れたり消えることはなかった。色も古びた錆に近くて、完全に乾燥している。結構前に付着して凝固したことが読み取れた。


「おかしいよね」


 同意を求められても、俺はポカンとするしかなかった。

 俺が気にしていたのは羽田先輩が包丁を握り締めていたことであって、包丁自身は特に意識していなかった。


「なにが、ですか」


 素直に聞くと、恋鐘先輩は刃を指さす。

 正確には、付着している血の方だ。


「血がそのままだ」

「はい……はい?」

「変だよ」

「刺したんだから付いてるのは普通でしょう」

「山田先生は怪我をして学校を休んでいたはず。どれくらい前からか覚えてる? 山田先生は二年生の授業は担当していないから、ボクは把握していないんだ」


 本筋から離れた質問が飛んでくる。出鼻を挫かれた感はあったが、いつものことだと割り切って答えることにした。


「ええと、今日は7月9日の木曜日ですよね。今週は月曜から水曜日までテスト期間で、その間に山田先生は見かけませんでした。今日の英語の時間も急遽自習になっているので、今週はずっと休んでたと思いますよ。まぁこうして学校に来てたわけですけど」

「先週は姿を見た?」

「見ました。先週金曜日の7月3日に教室で自習してたときに。右腕は怪我してませんでした」

「じゃあ、早くて7月3日の夜、少なくとも4日か5日には刺されたと推測できる。5日と仮定しても、今日までかなりの時間が経過してる。その間、なぜ刃物の血を拭き取らなかったのかな」


 指摘を受け、俺は思わず刃の血を確認した。拭おうとした形跡がない。このまま放置していたのだ。


「怖くて触れられなかったか、隠しておいたんじゃないでしょうか」

「でも包丁って普段も使うものでしょ? 彼女は高校生で、入手経路は自宅のものを持ち出すか、購入するしかない。自宅の包丁が一週間も無くなれば親族が気にする。なのに血も拭き取らずに持ち続けてる。自分で購入したにしても、財布のレシートに購入の履歴はなかった。ちなみに一人暮らしの線は否定できる。うちの高校は親族の家から通わないといけない規則がある。君はよく知ってると思うけど」


 その通りだ。俺は一人暮らしをしてもよかったが、学校側が明確に禁止していた。あと母親が絶対に許さなかったという事情もある。祖父母宅に居候も死ぬほど嫌がっていたが。


「さっきレシート見てたのは購入履歴を見るためだったってことですか。でも、今ならネットでも購入できますよ。自宅のものを持ち出したのだって、しらばっくれれば気にされないで済むかもしれない」

「それがね、両方とも無いと言えるんだ」

「なぜ?」

「これ左手用の包丁」


 彼女が刃を指さした。

 俺は「左手用……?」と無意識に呟いていた。


「ハサミと一緒で、左手用の包丁がある。これは片刃の包丁で、刃が左側についてる。握り手も左手で持ったほうがしっくり来るように設計されてる」


 恋鐘先輩が左手で握ってみせた。


「あえて左手用を使うって事は当人のこだわりだよね。家から無くなったら騒ぎになるでしょ。料理できないんだから。知らぬ存ぜぬを押し通すことはできるけど、怪しまれることは決して得策じゃない」

「た、確かに」

「購入もそう。わざわざ入手しにくくて割高な左手用を購入する必然性は薄い。たとえネット販売だとしてもね。そして包丁の持ち方やペンを確認する限り、あの子は右利きだ。彼女の持ち物でもない」


 思い出すまでもなく、羽田先輩は右手で包丁を握りしめていた。


「左利きの人間が犯人だと思わせたかった、とか」


 俺は思いつきを述べてみたが、恋鐘先輩はすぐに却下した。


「それは凶器が現場に残されていて、まだ自分が犯人だと見破られていなかったら、の話でしょ。刺したことは遺書で自白しちゃってる。山田先生にも見せつけてるし。刺した後に持ち帰ってしまったとしても、この場所まで持ち続ける必要もない」

「それもそうか……で、最初の疑問に戻ってくるわけですね。捨てもせず血も拭かずに持っているのはなぜなのか、と」

「うん。でも、まだしっくりこないんだよねー。自暴自棄で処分とかどうでもよくなったのか……何か別の意味があるように思うんだよなぁ」


 思考を漏らすように呟きながら、恋鐘先輩は眉根を寄せた。


「問題は《《どこで入手した》》のか、だ」


 俺とは目を合わせず、恋鐘先輩は自分の顎に指を当てて考え込む。

 ややあって「もうちょい情報が必要だね」と恋鐘先輩は呟いた。そして包丁を床に置く。どうするのかと思えば、彼女は屋上の出入り口へと向かっていた。ドアを開けて廊下に出ていく。

 俺も追い掛けると、恋鐘先輩がちょうど固まった山田教諭に手を伸ばしているところだった。彼女が触れたのは、山田教諭が手にしているスマートフォンだ。左手のそれを右手の指先で触れる。それからスマートフォンの上部を掴むと、ぐっと引き抜き始めた。


「取れるんですか?」

「先生の利き腕じゃないからね。いけそう」


 恋鐘先輩は徐々にスマートフォンを手の中で動かし、抜き取った。

 俺は彼女の隣からスマホを覗き込む。画面には通話停止の文字が出ていて、すぐに黒いスリープ画面に戻る。


「あれ、消えた」

「電波塔も基地局も時間停止してるから電波が通じなくて通話が終わったんだよ。ちなみにフェイスIDとか指紋認証もダメ。時間停止してるから」


 などと言いつつも恋鐘先輩は山田教諭のスマホを勝手に操作し始めている。生体認証はまるで機能しないのでホーム画面にはたどり着けない。パスコードが当たれば開けるが、恋鐘先輩は入力を試すことすらしなかった。ただじっとホーム画面を食い入るように見つめている。興味を惹かれて、俺もスマホのホーム画面を覗き込んだ。

 そこには山田教諭と、もう一人女性が映っていた。どこかのレストランで食事している写真をホーム画面にしているようだ。二人はワインの入ったグラスを乾杯するように近づけている。写真の位置は、山田先生が右側で左手にグラスを持っていた。女性は左側で、右手にグラスを持っている。女性の前には料理とフォークが置いてあった。山田教諭にも料理は来ているのだろうが、写真の範囲に入っていない。どうやら写真を撮っているのは女性で、自分でスマホを向けているからそう見えるようだった。

 奥さん、という言葉が過ぎる。仲睦まじい姿からは不倫の影はまるで感じられない。こんなホーム画面にしておきながら、堂々と自分の生徒に手を出せる厚顔無恥さには、さすがの俺も嫌悪感を抱いた。

 恋鐘先輩は特に感情を変化させた様子もなく、スマホを山田教諭の左手に戻した。それから固まった山田教諭をジロジロと観察しはじめる。左手の指輪を触ったり、ワイシャツの襟首や手首の袖まで調べている。


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