遭遇②:飛び降り寸前の生徒
「どういうことですか、これ」
俺がすぐ背後まで寄ると、彼女は溜息を吐いた。
「なーんだ、気づいちゃったのか」
恋鐘先輩が振り返る。どこか不満げな目だった。
俺はそこで、彼女のすぐ近くに通学鞄が置かれていることに気づいた。恋鐘先輩のものではない。
「待ってればよかったのに。部室は空いてたでしょ?」
「空いてましたよ。でも恋鐘先輩が居ないと俺は何もできないんです。捜すでしょそりゃ」
心配だったから、なんて言うと付け上がるので誤魔化しておいた。
「んもー甘えん坊さん。あとでご飯あーんしたげるから」
「時と場合を考えてふざけろ」
俺はフェンスの向こうに居る女子を指さす。
「どういうことですか、これ」
「ボクにもわかんないよ」
こちらが真面目に問うている雰囲気を察してか、恋鐘先輩は肩を竦めて普通に返してきた。
「実は時間停止する前――お昼休みに入るくらいだね――職員室に入っていく山田先生を見たんだけど、右腕に包帯を巻いててさ。気になってたから、時間停止したときにちょっと職員室に寄ったんだよね。でも居なくて。それで校内を探してるうちに、この屋上に辿り着いた」
ということは、恋鐘先輩は俺が部室に行く前に第二校舎の一階まで下りて渡り廊下を伝い、第一校舎の一階にある職員室に向かったことになる。遭遇しなかったわけだ。
同時にそれは、重大な瑕疵を示している。
「俺が来るまで待ってるって約束は?」
「めんご♪」
てへぺろしてきたので、俺はアイアンクローで彼女の頭部を絞め上げた。
「あでででで!?」
「女の子は殴らないんじゃなかったの!?」
「いまは絞めてます」
「そういう違い!?」
とはいえやりすぎるとよくない。数秒程度でパッと離す。
「次からは気になることがあってもちゃんと待つように」
「ふぁい……」
こめかみを擦って唇を尖らせる恋鐘先輩に嘆息したところで、俺はようやく本題に入ることができた。
「で、この人は誰ですか」
「二年E組の生徒。名前は羽田絵美さん。君は覚えてるかな? 自転車に乗せて貰った登校中、口げんかしてた女子二人組いたでしょ。そのときの一人。念の為に名前を調べてたんだ」
「えっ――」
校門でしゃがんでいた佐々木先輩が思い浮かぶ。
あのときの二人組の片割れが屋上で危険な行動をしていて、もう一人がそれを見ながら校門でへたり込んでいる、という構図で時間停止していた。
偶然ではない気がする。
俺は恋鐘先輩から離れてフェンスに近寄り、羽田先輩を右方向から覗き込む。
彼女は眼下を見ていた。風に煽られて前髪が浮かび上がった、その状態で固まっている。下唇を噛みしめ、地上を睨みつけるような目つきだ。その表情からは悲壮感はあれど、恐怖心は感じられなかった。むしろ覚悟して臨んでいるようにすら思える。
フェンスに穴はない。彼女のそばにも誰もいない。と言うことは、自力でフェンスをよじ登って縁に立ったわけだ。
――自殺。
その二文字が過ぎる。
上北垣学校の屋上で自殺を図ろうとしている女子高生がいる。
にわかには信じがたいが、己の意思でそこに立ったとしか考えられない以上、他の選択肢は出てこない。
だとしたら、踊り場に山田教諭が居たことがますます不可解だ。
彼はどこかに電話をかけていた。もしや自殺しようとする羽田先輩に気づき、警察や救急車を呼んでいるのか?
そんなことを考えながらもう一度羽田先輩を確認したとき、俺はギクリとした。
彼女の右手には、刃渡り30センチはある長い包丁が握られている。
刃には、赤黒い血痕がべったりと付着していた。
慌てて羽田先輩に更に接近する。失礼を承知で、フェンス越しに様々な箇所を観察した。
怪我はない。どこも傷ついていないし、血も流していない。
じゃあ、なぜ刃物を持っている?
この血液は一体誰のものだ?
あまりにも謎が多すぎて、頭が混乱してきた。
「意味がわかりません」
降参した俺は恋鐘先輩の元に戻り、そう言った。
「どこらへんが?」
「ほぼ全て。まず、羽田先輩はなぜこんなことをしてるのか」
「自殺だってさ」
あっけらかんと告げられる。
俺が唖然としている間に、恋鐘先輩は近くにあった通学鞄を右手でたぐり寄せた。すでに時間停止は解除されていて、チャックが開いたままの鞄の中に手を入れる。
取り出したのは一通の便箋だった。
「読んでみて」
渡されたものを受けとる。縦書きの用紙には、女性らしい丸みのある書き文字で、こう綴られていた。
『私は山田先生と不倫しました。奥さんと別れて欲しくて口論になり、山田先生を包丁で刺しました。命を奪っていたかもしれません。私は、頭がおかしくなってしまったのだと思います。たくさんの人を傷つけてしまった罪を、死んで償います。全ては私のせいです。ごめんなさい』
俺は恋鐘先輩を見る。恋鐘先輩も俺を見返して肩を竦めた。
次いで俺は、屋上のドアに目を向けた。姿は見えないが、ドアの奥には山田教諭が立っている。
「……山田先生と不倫してた?」
「そーみたい」
なんの感慨もなく恋鐘先輩が肯定する。
俺が言葉を失っていると、恋鐘先輩が鞄の中を物色し始めた。中から財布、ノート、スマホなどを取り出して確認している。
便箋が遺書だとすれば、この鞄は羽田先輩の所有物ということか。
「マジですか」
「マジなんだろうねぇ」
「あるんだ、不倫て……しかも教師と……」
出てきたのは、そんな他人事みたいな感想だった。
不倫自体は世間によくある問題の一つに過ぎない。それが身近な人たちで繰り広げられていることに動揺してしまった。例えるなら、テレビで見たことのある珍獣を実際に確かめてみた、という感覚に近い。
だが、自殺寸前までこじれてしまったのなら、もはやよくある問題では収まりがつかない。事の深刻さを俺は改めて噛み締めた。
「ていうか、さっきから何してるんです」
「推理だよ。このバックは彼女の私物だから、できるだけ情報を取りたい」
恋鐘先輩は長財布を開く。お札とレシートをごっそりと取り出した。
「またそうやって人の物を……!」
「君も慣れなさいよ。それに飛び降りの原因を突き止めなきゃいけないんだから、ちょっとでも情報が欲しい」
疑問符が上がる。何を言っているんだこの人は。
「原因て、不倫を苦に自殺するってハッキリ書いてあるじゃないですか」
「君はさ、世の中に絶望して死を決意したとき、どこで死のうとする?」
答えではなく、質問が来た。彼女は推理中、もしくは解決した後はよくこういう問答を投げかけてくる。
俺は少し鼻白みつつも、考えてみた。
「どう、でしょうね。なるべく苦しくない方法で死にたいと思うかもしれませんが」
「場所は?」
「場所? ……うーん、薬の過剰摂取や練炭自殺なら自分の部屋とか、山奥でしょうか。邪魔されないほうがいいでしょうし。もしくは真冬の川に落ちるとか、運転出来ないけど自動車事故を装うとか? 色々ありますよ。好みは関係ないし」
「そう。だからおかしいのさ、彼女の行動は」
明らかな否定の言葉なのに、俺にはその帰結が共有できない。
「いまは真っ昼間だよ?」恋鐘先輩が続ける。
「しかも学校という、たくさんの人が過ごしている空間だ。ボクらのように気づく人間が出てきて、自殺に失敗する可能性もある。大人だって多い。校舎は高さも中途半端だ。完璧に死にたいなら、もっと高いビルの方がいい。商業ビルは簡単に侵入できないという理由があるにしても、学校からの飛び降り自殺に拘る必要はない。君があげたように自殺方法はたくさんある。とすれば羽田絵美さんは、《《自分の意思で昼間の学校からの飛び降りに拘ったんだ》》」
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