開幕①:龍造寺恋鐘を乗せて運ぶ
季節は移ろい、夏になった。
蝉の声がうるさいくらいに響き、快晴の空からは強めの陽光が降り注いでくる。
俺は通学用の自転車を漕ぎながら、生温い風を浴びていた。腕時計を見れば八時過ぎだ。まだ日が登りきっていないうちは暑さも我慢できる。
堤防の土手道を自転車で上がっていくと、アーチを描く橋が見えてきた。祖父母宅から学校に向かう道中では大きな河川を超える。車道の外側に狭い歩道があり、俺はいつもそこを通っている。
橋の上から川面が見えた。他県まで繋がっている大きな川は、今は流れがなだらかだ。水量も多くない。河川敷には野球ができるよう整備されたグラウンドやゲートボール場があるが、気温が上がってきているためか今は誰もいない。
整備されているのは一部だけで、更に川辺に近付けば背の高い雑草が好き放題に伸びている。川岸には、水に浸かるくらい近い場所に木々も生えていた。雑草はセイタカアワダチソウやススキ、木々はヤナギやエノキという種類だと、祖父から聞いたことがある。
川に近づこうとしてもそれらが進行を阻むが、橋下の辺りは砂利が敷き詰められるだけの空間しかないため、川に近づきやすくなっている。昔は子どもたちがそこで水切りや釣りをして遊んでいた。今もきっと変わっていないだろう。
(……あれから随分経ったんだな)
中学時代はまったく帰省しなかったので、実に4年ぶりに川の様子を眺めている。母は、トラウマを思い出すから近づくべきじゃないと神経質に俺に言い聞かせていたが、別に遠くから眺めるだけなら何も感じはしない。そもそも、あのときの記憶は朧気なままだ。
俺は、うまく動かせない左手で自転車のハンドルを握り締める。やっぱり力が入り切らない。だけどこの結果は俺が招いたことだ。後悔はあるが、自暴自棄になったりしない。逃げても無視してもその事実に変わりはない。
いまこうして生活できているだけでも、俺は運が良い。母の方が随分と囚われているようにすら感じる。
橋のアーチの頂点を超えれば自然に下り坂になる。川を眺めるのはやめて、強くなった風を浴びながら学校に向かっていく。橋を下りて県道を進んでいくと同じ制服を来た高校生の姿が増えてきた。目指す方向は一緒だ。そうして同じ制服同士が隊列を組むように進んでいくと、ふと見知った後ろ姿が見えた。
小柄な女子高生がふらふらと歩いている。かなり長い黒髪を首の後ろでまとめてアップにしているが、すぐに恋鐘先輩だと気づいた。彼女は徒歩通学なので、家から学校に向かっている。
しかし、あまりにふらふらしているな。すれ違う人や後方から追い抜く自転車が危なげに避けている。
さすがに放っておけなかったので、恋鐘先輩を追い越してから彼女の前で止まった。
「恋鐘先輩」
「んあぁ?」
ゾンビみたいな生気のない返答があった。
恋鐘先輩の額には前髪がべっとりとついている。目の下の隈が酷い。
「やぁ、小林くぅん。おはよぉ……」
「なんで死にそうなんですか」
「昨日、夜更かししちゃって」
「何時に寝たんすか」
「ご、五時くらい?」
「徹夜じゃねぇか」
「そんなことない……一時間は寝たぉ……」
消え入りそうな声だった。
俺は自転車から下り、ふらふら歩く彼女の横を、自転車を引きながら歩く。
「ほんと、こんな日に限って、暑いねぇ……暑くて溶けそう……」
ふひひ、と湿り気のある笑い方をした恋鐘先輩の目は、どんより濁っていた。そうは言ってもまだ8時台で暑さのピークはこれからだ。昼間になったら溶けてるんじゃないかこの人。
小柄で華奢だから体力がないことは想像できたが、こんな調子では辿り着く前に倒れてしまいそうだ。
「ほんと大丈夫ですか先輩」
「だいじょぶ、だいじょぶ」
よろよろと右手でサムズアップしてくる。いつもの軽口が出てこないくらい疲弊している。
仕方がない。俺は立ち止まって、自転車のスタンドを上げた。
「恋鐘先輩、乗ってください」
「ふぇ?」
「学校の近くまで送ります」
俺は自転車の後輪の上を指さす。荷台は取り付けていないので、後輪の片側スタンドと反対側の太いボルトの上に足を引っ掛けて、立ち乗りをする要領だ。
恋鐘先輩は驚き顔を作ったが、すぐに首を振った。
「いいよぉ。法律に違反してるし」
「下手したら熱中症で倒れますよ」
「でもさぁ」
「気遣い無用です」
「素敵な夕日を見ながら乗せてもらうシチュがいい」
まだ軽口をたたける余裕があるのかこいつ。
「元気そうですね。じゃあこれで」
「待っで! 乗ぜで!」
シャツの袖を引っ張られる。暑さで頬が上気している恋鐘先輩が、涙目で頭を下げた。「クソお世話になります!」
実は心配する必要なかったんじゃないかこれ。
「まったく……じゃあ乗ってください」
俺は自転車にまたがり、先輩が乗るのを待つ。彼女はまごつきながらも後輪のボルトと片側スタンドに、おっかなびっくり乗ってきた。バランスが悪いので、すぐに俺の背中にしがみついてくる。
「よーししゅっぱーつ!」
「耳元で叫ぶな」
俺は若干の気疲れを感じながら、自転車のペダルを踏み込む。ゆっくりとスピードが乗り、恋鐘先輩を乗せながら自転車を漕いでいく。普段は国道沿いから田んぼ道に入るが、今日はもう少し先にある、県道から入れる住宅街の細道から向かうことにした。警察や教師の見張りに見つからないためだ。日陰があったほうが先輩の体温も下がるし。
ちらと振り返る。黒髪をなびかせた恋鐘先輩が、んっふっふ、と上機嫌に笑っていた。
「いつもやってもらおうかなぁ」
「今回だけですよ。ちゃんと寝ろ」
「寝かせてくんねーのよあの男がさぁ」
「意思が弱いだけですよ」
「違うもん! ていうか今の台詞が気にならないのかね君ぃ?」
「気にしたら負けが座右の銘です」
「ボクも、年下のガタイの良い男は泣かせるに限る、が座右の銘だよ」
「全然違うだろ奇遇だねみたいなテンションで言うな」
よくよく話を聞けば、攻略中の乙女ゲームの推しを落とすのに夜通しかかった、ということだった。どうせそんなことだろうと思ったよ。
「ところで、バイトは慣れた?」
風の音に紛れた質問だったが、何のことかはすぐに察した。
「ええ、だいぶ。割と楽しくやってます」
それは夏に入る前のことだった。俺はひょんなキッカケで、黒岩先輩の親戚が経営している料理店の厨房アルバイトとして働かせてもらうことになった。実は矢野も先にスタッフとして働いていて、2人して世話になっている。
そこのオーナー、つまり黒岩先輩の叔父は元々ジャズバンドをやっていて、定期的なディナーショーが行われているという小洒落た店だ。驚くことに黒岩先輩はそこで何度か歌を披露していた。矢野と黒岩先輩が急接近したのも、2人が音楽経験者だったから、という背景のおかげのようだ。
「まだ皿洗いとか下処理がメインですけど、レシピも教えてもらってます」
「いいねぇ。じゃあ今度あれ作ってよ、ペレストロイカ」
「改革してどうする。ペスカトーレかペペロンチーノの覚え間違いでしょうけど、どっちですか」
「パスタのやつ」
「どっちもだよ」
何で普段はこう調子外れというか、会話が成り立たない方向に転がってしまうのだろう。時間停止現象中に見せる卓越した観察力、推理力を発揮してほしい。
「どっちか作れそうなほうでオナシャス」
「はぁ……わかりましたよ。そういう約束ですしね」
「わーい。次の現象が楽しみだ」
「あんまり楽しみじゃないんですけど」
自転車を漕ぎながら俺は苦笑いする。できればずっと来ないでほしいが、しかし恋鐘先輩にとっての楽しみが一つできたのは良いことだ。バイトを始めるのは散々迷ったが、踏み切って正解だった。
最初、時間停止現象というハンデがある中でバイトを始めるのは無謀だと思っていた。たとえば寝泊まりできる場所に移動していた場合、俺が急にいなくなったことになる。恋鐘先輩にもバイト先に来てもらう必要があって、迷惑をかける。
だけど俺は、この生活にうまく順応していくしかない。どの道、大人になれば働くことになる。今のうちに練習するべきだと考え直し、これから何をしていけばいいのか探していたとき、ちょうど黒岩先輩からの話が舞い込んだ。
恋鐘先輩はすぐ背中を押してくれた。俺の動向を気にする日々になることなど、まったく歯牙にもかけなかった。
そういう人だと分かってはいたが、それでは俺の気がすまなかったので、時間停止現象中は必ずうまいものを作って御馳走すると約束していた。
面白かったらブクマ・レビューよろしくお願いします




