解決①:女性の違和感
そこで彼女は、地面に腰を下ろす。しっかりと話をする態勢になった。
「君の家に行く途中で見かけた、通話中の女性がいたでしょ? 彼女は誰かを捜していると思ったんだ」
「どうしてですか」
「彼女はバックを持っていなかった」
言われて、俺はもう一度女性の身なりを思い出す。
確かに、持っているものはスマホだけだった。
「バックを持ってないことが、おかしいんですか?」
「君は男子だからピンと来ないのかもね。女性は荷物が多いんだよ。財布はもちろん、化粧品や生理用品やハンカチや手帳、ちょっとしたオヤツなんか持ち歩こうものならバックが必須になる。彼女の服装もビジネススーツでポケットが少ないタイプだった。つまりバックかそれに相当するものをどこかに置いた状態で歩道まで出てきたことが読み取れる」
「でも、近くのオフィスから何かの用事で外に出たって可能性もありますよ。いまどきスマホだけで買い物できますし、財布をオフィスに置きっぱなしにしても不自然じゃない」
「あの人、ジャケットを脱いでたでしょ」
首肯する。上半身はブラウスで、袖まで捲っていた。ジャケットは脇に抱えていなかったはず。
「彼女の捲った袖に水で濡れたような染みがあったの。ビジネススーツはセットアップだから、どこかでジャケットを脱ぎ、袖を捲る必要があるくらい水に触る機会があった。オフィスの給湯室でお弁当なんかを洗ったとしても、肘付近まで水が飛ぶことはない。それにパンプスの踵に乾いた砂が付いていた。ヒールの根本まで付いてたから、結構深くまで砂に浸かったんだと思う。道路を歩くだけじゃそこまでは付着しないし、雨で濡れた泥の残りでもなかった。袖の染みはともかく、砂はオフィスと道路の往復だけじゃつかないよ」
地べたに這いずるようにして足元を見ていたのは、それを確認していたのか。
しかしまだ質問があった。
「水を触る機会があって砂がある場所だったら、工事現場とかも入りませんか? 近くにあるかわかりませんけど、どうして公園だと思ったんですか」
恋鐘先輩は迷う素振りもせず一直線に公園に向かっていた。彼女は最初から可能性を一つに絞っていたはずだ。
「オフィス以外で荷物を置いて離れたのなら、その距離はすぐに戻れる程度だよ。さすがに盗難の危険性を度外視して置いていったりしない。それにあの人はヒール付きのパンプスを履いて、爪も綺麗にネイルしてたでしょ? 工事現場とか足場が悪く汚れそうな場所に行くにしてはTPOを弁えてない。それより、ビジネススーツで身綺麗にしていたけれど、子どもの遊びに付き合って汚れてしまった、と言う方がまだ理解できるよ。子どもと一緒に帰る途中なら汚れても仕方ないと割り切れる。だからボクは、この周辺の地理を思い出して、当てはまる条件として公園を一番に考えた」
俺には反論が浮かばなかった。
荷物を置いて離れられる距離、パンプスに砂がつきそうな場所、子どもに誘われたから仕方がなかった、という条件から公園を導き出したわけだ。
「公園では、砂場の近くのベンチにバックとジャケットが置いてあったね。女性はそこに私物を置いて子どもと遊んでいたけれど、手帳がひらっき放しになってたことからして、途中で仕事の連絡があったのかもしれない。電話なりメールなりで子どもから一瞬目を離した。その隙に子どもはあの垣根で遊んでいる子たちに興味を持って、自分も入ってしまった。気づいたら子どもが居なくなって女性は慌てたでしょうね。小さな子だったら、なおさら交通事故もあり得る。
そこからは君に説明した通り。好奇心で垣根に入ってしまった子どもは、幼さから状況判断ができなくて行ける方向に進むしか無くて、あっという間に他人の敷地に出てしまった。この子は戻れないし、あの女性の目にも止まらない。そして女性の方は公園を探しても見つけられず、道路に出たんじゃないかと県道まで捜しに出た。そこでちょうど時間停止が起こり、分かたれた二人という状況で固定されてしまったわけ。ボクは彼女の様子がちょっと普通じゃないなと考えて、公園まで確かめに行ったんだよ」
俺は、淡々と話す恋鐘先輩の話を黙って聞いていた。相槌を打つ余裕もなかった。
多分に想像が入っているとはいえ、置かれた状況や違和感を頼りにここまで推理してみせた。しかも、相手は喋らないし反応もしない。普通の調査ができない。
どれだけ凄まじいことをしているのかは、火を見るより明らかだった。
少なくとも、俺にはできない、彼女の半分、いや、十分の一すら考えが及ばなかった。
「もしかして、恋鐘先輩って天才ですか?」
俺はそんなことを口走っていた。
「そんなわけないじゃん~」
一拍を置いて、恋鐘先輩がケラケラと笑った。
「ボクは普通だよ」そう言った彼女は、くすぐったそうに双眸を細める。
「でも、そうだね……皆と違うところがあるとすれば、狂いそうになった経験があるかどうか、かな」
急に物騒な言葉が出てきて、ドキリとする。
「逆に聞くけど、君がボクの立場だったらどうやってこの世界で過ごす?」
いきなりの質問だったが、彼女はすぐに答え合わせしてくれそうな気配があった。
俺は少し考えて、答える。
「漫画とか、音楽とか。あと筋トレ」
「そうだね。大体、自分一人で楽しめることだけに限られる。時間は膨大だから、図書館にでもいけばいくらでも暇を潰せる。でもさ、人って飽きるんだよ」
恋鐘先輩は菓子パンを空中に放り投げた。
落ちてきたものを掴んで、また放り投げる。そんな手遊びをしながら話を続ける。
「10歳から巻き込まれてるからね。ボクは暇つぶしをやり尽くしちゃったの。そりゃー膨大な書籍を全部読破したわけじゃないけどさ。文字を読む、映像を見る、音楽を聴く、体を動かす――突き詰めると1人の行動パターンなんてたかが知れてる。たとえ名著でも、無音の中で文字を読む行為に精神的な苦痛が伴うようになる。人間は社会的な生き物だと言われてるけど、ほんとそう思うね。誰ともコミュニケーションが取れず、一定の制限がかかった行動を強いられていくと、人間はどうなると思う?」
俺が答えられずにいると、恋鐘先輩はまた菓子パンを投げた。
「狂うのさ、小林輝路くん」
パン、と破裂するような音が鳴った。
彼女が両手で菓子パンを受け取ったときに、包装が破れて空気が抜けていた。
「正確に言えば、ボクは狂う一歩手前まで行った。刺激のない単調な生活は、看守の居ない牢獄と同じ。時間が経てばこの世界は元通りになると分かっていても、いつ終わるか分からない状況は想像以上に心を蝕む。それが何回も何回も何回も何回も続く。これから先もこんな孤独を過ごしていくのかって考えたとき、ボクは自分の兆候に気づいた。あっ、発狂しそうって」
恋鐘先輩の目が空を見ている。その瞳には、虚ろな光だけがある。
「そのときボクは咄嗟に外に出て、止まっている人を観察したんだ。動かない人を見つめ続けて、自分の中の狂気をやり過ごした」
「……どうして、そんなことを?」
「人間て本能的な危険に晒されたとき、思いがけない行動を取るって言うじゃん? たぶんそういうのだったんだと思う。理屈じゃないっていうか」
恋鐘先輩が、止まっている子どもにそっと触れる。
当然、その子が動き出すことはない。子どもは生きているのだから。
「固まっている人たちに触れたり眺めたりして、止まる直前までこの人はどんなことをしていたのか、どんなことを考えていたのか想像したんだ。そうでもしてないと、ボクは耐えられなかった。
時間停止中は誰かのことを観察して、考え続けた。表情、姿勢、格好、所持品、状況、それらの情報から目の前の人の時間停止前と時間停止後のことを読み解く――会話はできないし触れ合えない一方通行のコミュニケーションだけど、虚しくはなかったよ? 後で答え合わせできるからね。時間が動き出したとき、ボクの想像が合っていたのかどうか。この行動はパズルやクイズなんかの知的遊戯と一緒で、ボクの脳みそを最大限に使った暇潰しになったわけ」
「それで、探偵みたいに推理ができるようになった……ということですか」
言葉にすれば簡単だが、あまりにも常軌を逸している。
一体どれだけの時間と集中力を費やせば、そんな技能を獲得できるのか見当もつかない。
そして、なぜ急に説明もなく勝手な行動を取り始めたのか、合点がいった。
これは発作みたいなものなんだ。狂わないために推理に夢中になるしかなかった。
防衛本能による副産物、いや、副作用だった。
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