百三十三回目
裁定日の朝。わたしの机の上に仕事がなかった。
目録は三日前に揃えた。帳場の月末の写しも終えてある。十一年と五ヶ月のあいだ、朝の机には必ず紙があった。照合の控え、前月の写し、書役への戻し。手が止まる暇のないまま十一年が過ぎた。今朝は手帖だけが角に載っている。開いたまま。百五十三行目の日付だけが見えていた。
四月二十八日。窓の外で中庭の石畳が白く乾いている。雪解け水はとうに引いた。乾いた土のにおいが窓から入ってくる。五ヶ月前はここに川風が通っていた。季節がひとつ、回っている。
昼前に裁定院の封書が届いた。封蝋に裁定院の紋。
「裁定です」
番頭が帳場まで持ってきた。
「四枚です。お確かめください」
一枚目で数字を確かめた。
負債の確定額、二百七十二リーヴル四ソル。ハルヴァ商会が一括引受け。当主の家政管理権は停止。再建の後見はミレーユ・オルグレン。裁定院書記が監査役として一名つく。再審理は二年後。
家名は残った。
ミレーユの名前を二度読んだ。二月に商会を訪ねてきた妹。「今度は、ちゃんと自分で……」と言いかけて言えなかった妹。あの言いさしの先が、裁定書の一行になっていた。
三十五枚の目録が四枚の裁定書になって帰ってきた。端数の四ソルまでずれていない。
帳面の仕事は——終わった。
「……終わりましたか」
番頭が帳場の隅から声をかけた。
「はい。終わりました」
自分の声が穏やかだった。十一年ぶんの帳面を閉じた声が、こんなに静かでいいのだろうか。
封書を番頭の机に返して帳場を出た。
段の上から足音が降りてきた。ジェレド様だった。
「裁定が出たと聞きました」
「はい。先ほど」
「数字は」
「合っていました」
それだけだった。帳面のことはそれ以上訊かなかった。
三日前——裁定が済んだら、少し、話しませんか、と、この人は言った。帳面のことなら「お話があります」と言う人だった。「話しませんか」は——帳面の外の言い方だった。
「……外に出ませんか」
石の門を出た。
商会街の通りは四月の午後だった。亜麻の荷を積んだ馬車が石畳を渡っていく。播種の季節。荷を括った縄が揺れるたびに、荷台の亜麻が乾いた音を立てた。
門の脇の石段にジェレド様が腰を下ろした。わたしも隣に——少し離れて座った。石が陽に温められていた。
「暖かくなりましたね」
「……はい」
腕ひとつぶんの距離を空けて座っていた。石段の温もりが太腿の裏まで来ている。隣のこの人の体温は、来ない。
「……風が変わりました」
帳面にない言葉が口を衝いた。
「風」
「十一月は川のにおいがしていました。今日は——乾いた土です」
「リディアは、においで季節を覚えるのですか」
「数と同じです。一度数えたにおいは消えません」
「……少し、羨ましい」
小さな声だった。利率でも起算日でも残高でもない。空気の話だった。この人と天気の話をしたことがなかった。帳面の外の話し方を、わたしたちはどちらも持っていなかった。だからまず空気の話から始めるしかなかった。においの話ならできた。
「五ヶ月前にもここを通りました」
「十一月ですか」
「はい。はじめて石の門を見上げた日です」
「……覚えています」
間があった。短い言葉を先に出して、次の言葉を探す間を自分で作るのがこの人の話し方だった。五ヶ月のあいだにそれを覚えた。
「リディア」
「はい」
「これから——どうされますか」
返済は終わった。目録は出した。裁定は済んだ。帳面の仕事が終わったあとに何をするか——十一年、考えたことがなかった。月の初めが来れば十八リーヴルを持って並ぶ。それだけが暦だった。暦がなくなった朝に何をするかは、帳面のどこにも書いていなかった。
「……わかりません」
右手の中指が膝の上で小さく動いた。帳面のない指は、次の行を探していた。
「わからないというのは——初めてかもしれません」
「初めて」
「月が来れば十八リーヴルを持って並ぶ。十一年、それだけが暦でしたから」
「……暦が、なくなったのですね」
「はい」
なくなった、と言われて初めて気づいた。暦がなくなったのだ。怖いとは少し違った。足元に道がないのに転んでいない。その奇妙な浮遊感だった。
「うちの帳場は明日も開いています」
また「うち」だった。私事を商会に擦り替える。けれど隠すための言い方ではなかった。差し出しながら主語だけ商会に預けるような声だった。
「ジェレド様。それは商会のご方針でしょうか」
三日前にも似たことを訊いた。あのとき返ってきたのは「私の——願いです」だった。
今日は——唇がわずかに動いた。笑うことを忘れていた人が思い出しかけたような、ほんのわずかな動き。
「方針です」
一拍。
「……と、いうことにしておいてください」
通りの向こうを荷馬車がもう一台渡っていった。車輪が石畳を踏む音が遠ざかった。
「——栗は、お好きですか」
指が止まった。膝の上で無意識に何かを数えていた右手の中指が。
栗。手帖の百三十三行目。二ソル。十一年ではじめて自分のために書いた行。この人はあの行を見ている。五ヶ月前の夕方、机の隅の手帖に目を留めて「それは……」と言いさして止めた日に。
「……二ソルでした」
値段で答えた。何を訊かれても数字を返す。十一年、そうしてきた。
「値段は訊いていません」
静かだった。帳面の外の声だった。
好みを訊かれている。十一年と五ヶ月のあいだ、わたしの好みを訊いた人はいなかった。何を食べたいか。何が好きか。帳面のどこにも欄のない問いだった。
「……好きです」
言った。値段ではないものを口にした。入りでも出でもない。勘定に入らない言葉を。自分の声がそういう言葉を出せることを、今はじめて知った。
「……ひとつ、訊いてもよいですか」
「はい」
「あの栗は——甘かったですか」
二ソルの値段は覚えていた。日付も覚えていた。けれど味は——
「……覚えていません。温かかったことだけ」
「そうですか」
「秋になったら、また買います。今度は——味も覚えます」
「そうしてください」
帳面に載らない約束だった。半年先の栗に受領証は出ない。出なくても構わなかった。
ジェレド様の左手が門の石柱に触れかけた。五ヶ月のあいだ——壁に、柱に、扉に、卓に、膝に。いつも何かに触れていたこの左手が。指先が石に届く前に止まった。どこにも触れずに膝に戻った。拳ではなかった。三日前に宙へ伸ばした手でもなかった。ただの、開いた掌だった。
「……戻りましょうか」
「はい」
石段から立ち上がった。門の中へ並んで戻った。腕ひとつぶんの距離は、行きと同じだった。
帳場に戻った。
手帖を一頁目から繰った。
十一歳の字。千百三年十二月。一。十八リーヴル。
百三十二まで番号が並んでいた。返済の行。月に一度、十一年。人のために数え続けた行。五ヶ月前からの四回が加わって、返済の番号は百三十六で終わっていた。
番号のついた行のあいだに、番号のない行が散らばっていた。返済の列からこぼれたように、ぽつりぽつりと。
百三十三行目で手を止めた。
栗の二ソル。
王都に着いた日に市で焼いた栗を買った。十一年ではじめて十八リーヴル以外を書いた行。返済でも勘定でもない。自分のために使った、最初の行。
ここに番号がない。十一年、この行は番号なしのまま百三十二の番号のあいだに挟まっていた。
ペンを取った。インクをつけた。百三十三行目の余白にペンを下ろした。
一。
小さく書いた。返済の番号より少し小さく。インクが乾くのを待った。十一年、百三十二の番号はどれも乾くまで待ってから次の行へ進んだ。同じように待った。黒い線がゆっくり紙に沈んでいく。定まった。
返済の「一」ではなかった。百三十二回のあとに続く百三十三回目でもなかった。手帖の百三十三行目に置いた、わたしのための、最初の番号。
ペンを進めた。
穴を見つけた日——二。十二月の栗——三。封蝋——四。インク——五。
手袋の欄が空いたまま——六。空いていることを数えた。空白にも番号を振った。八ソルの字は今も書かれていない。けれどこの行は在った。空白のまま在り続けた。
返事を書かなかった日——七。
妹が来た日——八。ミレーユの声がかすかに指先に触れた。「今度は、ちゃんと自分で」と言いかけて止まった声。セドリック様が来た日——九。原本の閲覧を願い出た日——十。原本を見た日——十一。あのインクの匂いが鼻の奥に戻った。ペンが加速した。番号を書くたびに、その日の空気が指先へ戻った。
四月の行に差しかかった。日付と短い言葉だけが添えてある行。四月八日——十二。四月十三日——十三。「買」——十四。「妹」——十五。「父」——十六。
百五十二行目の「父」の隣に、十六、と書いた。
百五十三行目。四月二十五日。
三日前、何を書くか決まらないまま日付だけを置いた白い行。
——十七。
番号を添えた。三日前には十六の番号のない行だと思っていた。この白い行を加えれば十七だった。
日付の横にペンの先を寄せた。
「声」、と書いた。
金額でも品の名でも人の名前でもない。帳面のどの欄にも入らないもの。けれどわたしはあの日、声を受け取った。返さなくていいと言った声を。帳面の外から来て、ペンだこの下をほどいた声を。
百五十三行目。四月二十五日。声。十七。
一から十七。栗の二ソルから、声まで。
番号のなかった行に全て番号を振った。
——数えたものは、なかったことにしません。
一度目は帳場で独り言だった。十一歳から積み上げた百三十二行の手帖を前にして、誰にも向けずに。二度目は裁定院だった。帳面を開いて百三十二回の記録を差し出して、帳面の外にいる人たちに。
三度目は——自分に。声に出さなかった。けれどペンを持つ指がわずかに震えた。十七の番号を全て書き終えたあとの、静かな震え。
十七の行は返済ではなかった。栗も、手袋の空白も、妹の名前も、父の字も、声も——誰のための勘定でもなかった。帳面のどこに置いていいか分からなくて、番号をつけずに挟んできた行だった。
けれど数えた。わたしが書いて、わたしが数えた。帳面に載らなくても、指は覚えていた。
わたしのものだった。
数えたものは、なかったことにしない。
手帖を閉じた。
百五十三行ぶんの厚みが掌に収まった。返済の百三十六行と、自分のための十七行。どちらも同じ紙で同じインクで書かれていた。閉じてしまえば区別がつかない。十一年の行も五ヶ月の行も今日の行も、同じ厚みで重なっている。帳面の中と外が、ひとつの厚みになっていた。
窓から入ってくる風が、朝よりほんの少し冷たくなっていた。夕方が近い。
秋になれば市に栗が並ぶ。そのとき二ソルを出して、手帖に書くかもしれない。十八番目の行として。
手帖を机に置いた。革表紙の角が少し丸くなっている。十一年、懐に入れて持ち歩いた指の跡だった。
その革表紙に、春の午後の陽が当たっていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
百三十二回で始まった物語が、百三十三行目で終わります。
リディアが十一年返し続けた借金は、最初から存在しませんでした。けれど手帖に並んだ行は消えません。返済の百三十六行も、番号のなかった十七行も。数えた人の指に、紙の厚みとして残ります。
この物語で書きたかったのは、数えることの意味でした。「数えたものは、なかったことにしない」。その言葉が最後に向かう先は他人ではなく、自分自身でした。栗の二ソルから声まで、十七の行に番号を振ること。それが彼女の、十一年ぶりの最初の一歩です。
ジェレドが最後に訊いたのは「栗は、お好きですか」でした。利率でも残高でもない問い。帳面の外の問い。そしてリディアが「好きです」と答えたこと。値段ではなく、好きだと言えたこと。それがこの二人の、帳面の外の始まりです。
三十二話のあいだ、この物語にお付き合いいただきありがとうございました。評価、ブックマーク、感想のひとつひとつが、最後の行を書く力になりました。




