↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
16/17

古いドレスの理由

三月一日まで、あと三日。


 朔日の帳合いに備えて、控えの束を先に検めておく。

 今月は、それだけの日だった。


 控えの写しを三行進めたところで、声がした。


 「オルグレンさん」

 「はい」

 「お客様です」


 筆を置いた。


 「どちら様でしょう」

 「オルグレン家の方だと」


 指が、止まった。

 お父様が、また来られたのか。


 「お一人ですか」

 「お一人です。若い方でした」


 若い方。


 十一月八日から、数えれば三月と十八日になる。

 誰か訪ねてくるとしたら、そろそろだった。


 窓の外に、馬車は見えなかった。

 紋を確かめたわけではないが、貸し馬車だろうと思った。




 奥の小部屋へ通された。


 卓一つ、椅子二脚。棚は空のままだった。

 二月十八日、番頭がお父様に勧めて、断られた部屋だ。


 戸を開けると、ミレーユが立っていた。


 旅装のまま。襟の毛皮に、道の埃がついている。

 頬が赤くなっていた。寒さのせいか、それ以外か。


 「お姉様」


 声が、揺れていた。


 「よくいらっしゃいました」


 「よく、じゃないわ。四日もかかったのよ」

 「馬車で四日です」

 「知ってるわよ、それくらい」

 「お一人で」

 「ハンナが継立まで。あとは乗合よ」

 「乗合に」

 「はじめて乗ったわ。隣に、鶏が乗っていたの」


 妹が椅子に座った。手袋は外さなかった。


 白い手袋。指の関節に、皺がない。


 この部屋の椅子に、誰かが長く座ったことは、たぶん無い。


 番頭が一礼して、下がった。




 「ここ、何のお部屋なの」


 「面談用です」


 「殺風景ね」


 棚が空だからだろう。

 そう見えるのは、たぶん正しい。


 「お父様が帰っていらしてから」


 頷いた。


 「ずっと、お加減が悪いの」


 「知りませんでした」


 「何も、仰らないのよ。訊いても」


 妹の指が、手袋の上で重なった。


 「だから、お姉様に訊きに来たの」


 「訊きに」


 「お姉様がここにいると、お父様が仰ったから」


 「そうですか」


 「薪屋も大工も、もう来ないの。仕立て屋も」


 「存じております」


 「ハンナが、ちゃんと締めていれば」


 「締めは、ハンナの役目ではありません」


 「じゃあ、誰の」


 答えなかった。


 ミレーユが、椅子を少し引いた。


 「使用人も、何人か辞めたみたい。お父様は数えてもいらっしゃらないの」

 「聞きました」

 「厨は」

 「二人になったわ。前は五人いたでしょう」

 「五人でした」

 「よく覚えていらっしゃるのね」

 「給金を書いておりましたので」


 ミレーユが手袋の指を組み直した。


 「薪は」

 「まだあるって、お父様は仰るの」

 「量を、ご覧になりましたか」

 「……見ていないわ」

 「では、まだあるのでしょう」




 「……お姉様」

 「はい」

 「毎月、決まった額が出ていたでしょう」

 「出ておりました」

 「あれ、どこに行ってたの」

 「十八リーヴルです」

 「……十八」

 「毎月、朔日に」


 窓の外で、荷馬車の音がした。

 それだけ、間があった。


 「返済です」

 「返済って」

 「実家の借財の」

 「借財……」


 急に細い声になった。


 「そんなの、聞いてないわ」

 「申し上げませんでしたので」

 「どうして」

 「訊かれませんでしたので」


 妹は、それに答えなかった。


 訊かれなかったから言わなかった。

 言わない理由としては、弱い。


 弱いと分かっていて、十一年それで通してきた。




 「いくら、あったの」


 「元は千八百リーヴルです」


 「せん、はっぴゃく」


 繰り返した声は、数えるようには響かなかった。


 「月に十八。十一年、続けました」


 「十一年」


 「はい」


 「お姉様がずっと」


 そうです、と答えた。


 「家にいたあいだで百三十二回です。出てからも続けて、今日で百三十五」


 「今も」


 「今も」


 「いつまで、続くの」


 「分かりません」


 「分からないの」


 「照会しておりますが、まだ返っておりません。次の朔日で百三十六になります」


 椅子の上で、背が丸くなった。


 「持参金は」


 「六百十八のまま、動いておりません」


 「え」


 「今は、給金から出しております」


 「持参金を使っているのだと、みんな思っていたわ」


 「訂正しませんでした」


 「どうして」


 答えなかった。




 「痩せた」


 妹が、こちらの顔を見て言った。


 「ここでは、何を召し上がっているの」


 「働いた分だけ、出ます」


 「足りているの」


 「足りております」


 「お茶くらい、出してもらえないの」


 「頼めば出ます」


 「頼まなかったの」


 茶の話は、これで三度目だった。


 「屋敷にいたときは、いつも先に召し上がらなかったでしょう。みんなの分を、先に」


 覚えているとは、思わなかった。


 「それも、数えていらしたの」


 「数えるほどのことでは」


 「でも、覚えていらっしゃるのね」


 答えに、詰まった。


 ミレーユの目が、卓の茶器へ動いた。空だった。


 「お母様は」


 「臥せっていらっしゃるわ。ずっと」


 「お加減が悪いのですか」


 「悪いというか……何も、なさらないの」


 語尾が、途中で落ちた。


 戸が開いて、番頭が茶を運んできた。


 二人分だった。


 「頼んでおりませんが」


 「分かっております」


 番頭は言い終える前に、もう戸のほうを向いていた。


 湯気が、細く立った。

 両手で包むように持ち上げた。


 手袋をしたままだった。

 熱いものを持つ手つきではない。


 熱さを、布越しにしか知らない手だ。




 「わたしの……あの、青いドレス」


 「仕立て代、二十二リーヴルでした」


 「覚えて、いらっしゃるの」


 「はい」


 伏し目になった。


 「一着で、一月ぶんより多いのね」


 そのとおりだった。

 言わずに済むなら、言わずに済ませたい。


 妹の目が、わたしの袖に止まった。


 同じ生地。四年、直して着ている。


 手が、伸びかけた。

 触れる前に、止まった。


 妹の手は、布の値を知らない。

 知らない手は、迷わずに伸びる。


 迷ったということは、何かを知ったということだ。

 何を知ったのかは、たぶん本人にも分かっていない。




 「だって、お姉様は……」


 言葉が、途中で止まった。


 「金遣いが、荒いから」


 四月近く前に、同じ言葉を聞いた。


 覚えているのかどうかは、顔からは分からなかった。


 訂正はしなかった。


 妹は、答えを待っていなかった。


 「でも、お姉様のドレスも……ずっと同じでしょ」


 「四年、直して着ています」


 「なのに、二十二リーヴルはわたしの分だけ……そうよね?」


 答えなかった。


 妹は、それ以上訊かなかった。


 「セドリック様は」


 「何か」


 「一度も、いらっしゃらないの。うちに」


 「そうですか」


 「お姉様には来られたことが」


 「ありません」


 考える顔になった。眉の間に、線が一本できる。


 「変ね」


 「さあ」




 指で、桁を辿った。


 十八かける十一年で、二千三百七十六。

 今日までなら、二千四百三十。


 合っている。


 合っていることが、今日は少しだけ支えになった。


 ミレーユが今まで一度も訪ねてこなかった日数を、数えようとした。

 出てこなかった。


 十八という数字だけは、迷わず出た。




 妹が、椅子から立った。


 「……あの」


 宙を見て、それから手元へ戻した。


 「もっと、早く伺うべきだったのかしら」


 答えを求める形の問いではなかった。


 黙っていた。


 「わたしは今まで、何も知らなかった」


 「そうかもしれません」


 「知らなかったのは、わたしのせい?」


 黙っていた。


 妹も、それ以上は続けなかった。


 「戻ります」


 「お気をつけて」


 「また、来てもいい?」


 「いつでも」


 「お姉様は困る?」


 「困りません」


 口元だけ、ゆるんだ。


 戸口で、一度だけ振り返った。


 「お姉様」


 「はい」


 「今度は、ちゃんと自分で……」


 続きは、出てこなかった。


 「変なの」


 小さくそう言って、出ていった。




 廊下の先に、会頭が立っていた。


 左手が、壁に軽く触れている。


 妹とすれ違うとき、何も言わなかった。


 目だけが、こちらを一度見た。


 それだけで、廊下の向こうへ歩いていった。


 番頭に、会釈した。


 「よろしいのですか」


 「何がでしょう」


 「お顔が、少し」


 「いつもどおりです」


 番頭は、頷いただけだった。




 卓に戻った。

 三行目の途中から、写しを継いだ。継ぎ目は、分からなかった。


 夕方まで、窓口に客は少なかった。

 二月の終わりは、いつもそうだ。




 窓の外を、一度だけ見た。


 通りに、もう馬車は無かった。


 三階へ戻る階段を、数えずに上がった。

 いつもは二十二段だ。


 今日は、数えずに済んだ。




 その夜、三階の部屋で手帖を出した。


 二月二十六日。


 額も、番号も無い。


 書けることが、今日は何も無かった。


 妹が来た。それだけしか、書きようがない。


 これで、百四十三行になる。


 番号のついた行は、百三十五のままだった。


 窓の外を、荷馬車の音が一度通った。


 もう遅い時間だった。


 三日後には、また十八リーヴルを納める。


 いつもと同じ数が、いつもと同じ日に来る。


 灯りを消す前に、袖口の折り返しに触れた。


 布は、幾度も長さを変えられている。


 指でなぞると、古い折り目が、いくつも重なっていた。


 一番上のものは、たぶん十一歳の分だ。背が伸びて、裾を出した。


 その下は、覚えていない。何のために出したのかも。


 折り目は、外からは見えない。

 着ている本人にしか触れないところにある。


 妹は今日、袖に手を伸ばした。

 触れなかったので、ここまでは届いていない。


 数えようとして、途中でやめた。


 これは、数える種類のものではない気がした。


 灯りを消した。

最後まで読んでいただきありがとうございました。


 今回は、妹が姉の答えを求めに来る話でした。ミレーユは悪気があって姉のドレスを笑っていたわけではなく、ただ一度も数えたことがなかっただけです。だから今回も、彼女に数字そのものを追わせることはしませんでした。追えるようになるのは、まだ先の話です。


 「お姉様は金遣いが荒いから」という言葉が、三月ぶりに姉の耳へ戻ってきます。今回、妹がそれを自分の言葉として覚えているかどうかは、あえてはっきりさせませんでした。覚えていてもいなくても、姉の側では同じ重さで届くと思ったからです。


 最後に姉が布の折り目に触れて、数えるのをやめる場面は、今回いちばん書きたかったところです。数える人が、数えないことを選ぶ一瞬でした。


 次話、確認を怠った男が訪ねてきます。


 ☆評価・ブックマーク・感想をいただけると、次話の励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。