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第五章 -6

「衣桜……」

 衣桜は僕を睨みつけながら、よろよろと立ち上がる。きっと、今の彼女には自我なんてものはない。ただ、恐怖に打ちひしがれ、恐怖に懐柔されてしまった存在に過ぎない。

 父さん。母さん。僕は心のなかで、本当の両親に語りかける。

 僕はずっと、あなた達の跡を追うだけの子どもだった。媛倉に来たのだって、元はといえば僕自身の意志じゃない。ただ、状況が許したから来ただけだ。衣桜を守る決意をしたのも、状況がそうしたからだ。僕は、巻き込まれただけの、無力な子どもだった。

 だけど──僕は今、多分人生で初めて「僕自身の」選択する。

 それは、力を得られたからじゃない。何か有効な手段を手に入れたからじゃない。

 僕が、僕自身の無力を受け入れたからだ。

 僕には何もできない。僕には世界を変えられやしない。僕にはヒーローでも神でもない。僕は悲しむ人にかける言葉を知らないし、僕は亡くなった人にどんな誠意を向ければ良いのかわからない。

 当たり前の話だ。

 そんな、何もできない僕だからこそ──しなくてはいけないことがある。

 父さんの手記に代わる新たな聖典。

 僕はポケットに手を入れ、衣桜の生徒手帳を取り出した。

 適当なページを開き、ぎっちと、几帳面に書かれた文章を、僕は読み上げた。

「先生は私の演技を褒めるけど、そうじゃない。演劇は一人ではできない。褒められても嬉しくない」

 それはまあ、衣桜の朗読に比べれば下手くそなのは当たり前だけど。

「空回りしてる。部活って本気でできる場所じゃなかったみたい。皆に申し訳ない。私みたいなのが混じって」

 僕は必死に声に出した。衣桜の言葉を。気持ちを。

「でも、私は役者がしたい。演劇は素晴らしいものだって、たくさんの人に知ってもらいたい」

 情熱を。想念を。気概を。意志を。僕は語った。

「決めた。高校を出たら家を出る。私は演技で生きていく」

 そこで生徒手帳に書かれたものは尽きる。読めない文字を除いては。

 衣桜は昏い目をして、僕の朗読を聞いていた。嵐の前の奇妙な静けさのように黙りこくって、放棄された人形のように佇んでいる。

 僕は衣桜の隣に立って、生徒手帳の不可読のページを見えるように掲げた。

「……読むんだよ、衣桜」

 僕は言った。

「これが君の声だ」

 衣桜はじっと、生徒手帳を見つめる。口元が動き、掠れるような音がする。

「……? …………。……?」

 それは、聞き取れないほど小さな声だった。

「……。…………の? ……なの? ……は、……は」

 衣桜は何度もつっかえながらも、その言葉を口にしようとする。少しずつ、その声が実声を帯びてくる。

「……たしは……私は、どうすればいい? どうすればいいの? 何ができるの? ねえ、どうしてなの? ねえ!  どうして、私には何もできないの! 誰か、教えてよ! 遼喜!」

 衣桜が僕を見た。その瞳には悲愴が滲んでいる。僕は何も言うことができない。ただ、視線を返すことしかできない。

 衣桜は取り乱した調子で、まくし立てる。

「お母さんはどうしたの! お父さんはどこ! 乃衣は! 冬子は! 塁は! 神田先生は! みんなどうしちゃったの! ねえ、遼喜、教えてよ、私の知ってる人達はどうしちゃったの、ねえ!」

 事件に関する記憶を失っていたわけではない。自分が生きていた時代を、忘れてしまっていたわけでもない。

 今までの衣桜に欠けていたのは、それを実感として受け止める「わたし」の存在だった。

「わたし」を取り戻した瞬間、十七年分の時間の流れとよく知っている人の死が、鮮烈な実感と共に襲い掛かってくる──。

 衣桜は生徒手帳を放り出し、僕の肩を掴むと、

「どうして……どうして私だけが生きてるの……」

 悲痛な声を上げ、膝から崩れ落ちるようにその場に突っ伏した。

 慟哭。衣桜は赤子のように、なりふり構わず泣いた。

 泣いて、泣いて、泣いて、泣いて、泣いた。

 僕はただ、傍らに座っていることしかできなかった。もちろん、僕だって何かしてあげたかった。今、悪魔が現れて、彼女の泣き止む呪文をお前の魂と引き換えにやろう、とか提案してきたら、迷わず魂を捧げるくらいの気分だった。

 でも、そんなのは夢でしかない。僕は僕でしかない。

 僕にできることは、さんざん約束した「傍にいる」ことだけだった。


 衣桜は長い間泣いていた。十七年の月日に比べるとあまりにも短いのかもしれないが、彼女の激情を宥めるのには十分な時間だった。

「……ごめんなさい」

 目を真っ赤に腫らした衣桜は、涙でふやけたような声で僕に謝った。

「私、あなたを……首を絞めて……」

 その時の感触を思い出してしまったのか、衣桜は自分の両手を強く握り合わせる。

 僕は首を振って、

「ううん、気にしないで……全然生きてるしさ」

「……ありがとう」

 衣桜は目を伏せる。それからぽつぽつと話し始める。

「なんだか、この地下室に逃げ込んできたのが、つい昨日のことみたい。事件の時、私達家族はずっと家の中に引きこもってた。でも、最後にはお父さんもお母さんも悲鳴を上げて私を襲ってきて……私は、妹を置いて逃げ出した。夢中で空いてた家に逃げ込んで、隠れられる場所に潜り込んだの──」

「その時には……もう僕の父さんと母さんはいなかった?」

「うん。家は空っぽだった。疲れてた私はそのまま眠りについて……目が覚めた時に、どっと恐怖が襲ってきたの。私が全てを捨てて逃げたことに直面するのが、怖かった。お母さんもお父さんも妹も友達も、みんな死んでしまったことと──そんな時、あなたの姿を見て私はどこかへ行った。そうするととても楽だった。私は……媛倉事件から逃げ出すことに成功した」

 衣桜は僕の方を向いて、自嘲するような笑みを浮かべた。

「私、最低だよね……勝手に過去から逃げ出して、あなたに勝手に依存して、勝手に振り回して、勝手に殺しそうとしてさ。そんな私が生きてるなんて……馬鹿らしくて……」

「何でさ、手記の翻訳をしたの」

「え……」

 僕の突然の質問に、衣桜は不安そうな表情を浮かべる。

「いや……だってさ、それだけなら父さんの手記を訳そうだなんて思う必要なかったわけじゃん。でも、君は手記に最後まで拘りぬいた。拘らなければ、ずっと逃げっぱなしでいられたのに……何で?」

「……それは……」

 衣桜は言い淀む。本人にもよくわからなかったらしい。

 僕は、なんとなく思いついた答えを口にしてみる。

「君は……文字を見て、言葉を発せずにいられなかったんじゃないかな。演劇が好きなんでしょ? それが君の存在理由だったんだよ……だから、君は読まずにはいられなかった。手記をを最後まで読むこと、それが君自身の存在証明だったんじゃ……ないかな」

 事実との直面を避けるために作られた存在である『衣桜』にとって、この行為は意外だったに違いない。だが僕が寄越したものということもあって、『彼女』は手記の取り扱いに気を使いつつも、翻訳を続けるしかなかった。

 それで手記に過敏になりすぎた結果、『衣桜』は媛倉事件そのものの恐怖だけでなく、事件に直面し全てを受け入れることの恐怖にも呑み込まれてしまったわけだけど。

「だからつまり、私は生きてます……ってことをさ、君は主張してたんじゃないかなって」

「手記を読むことで?」

「うん。それは本当にすごいことだと思う……だからさそんなに卑下しないで、生きたからにはやれることをやるべきなんじゃないかな」

 僕が真面目にそう言うと、衣桜はぽかんと僕のことを見た。やがて、吹き出して笑い出す。

 そんな反応を取られるとは思ってなかったので、僕は呆然とするしかない。

「何、どうしたの……」

「いや……やっぱり遼喜って面白い。私を見つけてくれたのが、あなたで本当に良かった」

 そう言って、またくすくすと笑う。なんだかよくわからないけど、その表情は歳相応の女の子という感じがして、なんだか新鮮だった。


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