第五章 -5
次の瞬間、役者は衣桜は、僕に飛びかかってきた。
全く不意を突かれた僕は、為す術もなく押し倒される。衣桜は僕の肩をがっちりと抑えて、憤怒の眼差しで僕を見下ろす。僕は抵抗しようとしたが、押さえつける力が尋常じゃなく強くて、指一本動かすことも叶わない。
衣桜は、僕の顔に全ての憎悪を叩きつけるように叫んだ。
「京悟! お前は間違ってる! 自分で望んだ死なんて、特別なわけがないだろう! 死んだら全部同じだ! なくなっちまうんだよ! クソが! お前は息子のことを──母親に殺された息子のことを考えなかったのか! その罪ですら死への意志のもとで、正当化するつもりなのか! 京悟! お前は間違ってる!」
絶唱。これは──もはや対話ではなくなっている。『広垣真輝』の、独白だった。死にかける父さんの全力の否定が、僕の耳奥に突き刺さる。
ガン! と、衣桜は僕の耳元に拳を振り下ろした。女の子が叩いたのとは思えない音。
「病んでいたんだ、京悟は。疲れてしまっていたんだ、京悟は。そんなこともわからなくなるくらいに……取り憑かれていたんだ。あの……『バベル』とかいう細菌に。人から自己を奪う、悪魔のような存在に……」
キッ、と『広垣真輝』の視線が鋭くなる。
僕が腹の底に冷たい予感を感じた直後、僕の首に衣桜の手が食い込んだ。呼吸が不意に通わなくなり、喉の奥から嗄れた声が漏れる。僕は咄嗟に衣桜の手首を掴んで、抵抗した。
苦しさの中、意識の朦朧とする僕に、『広垣真輝』は語りかける。
「そんなものを……世の中に明かしてはいけない。二度と同じようなことを起こさないためにも、その存在は封印しなくてはいけない。誰の目にも明らかにするわけにはいかないんだ。悲劇を繰り返すわけにはいかないんだ」
呪文のような台詞を衣桜はまくし立てる──『バベル』の真相は誰にも明かすわけにはいかない、と。
それが何故、僕を襲うことに繋がるのか。それは……僕しか知るものがいないからだ。僕が喋らなくなれば、衣桜は決して手記を誰にも渡さないだろうし、内容を話さないだろう。
だから、媛倉事件の真相はまた闇の中、というわけで……。
──いや違う。衣桜は、そんなことを考えていない。思ってもいない。『バベル』は自己を破壊する。いまの衣桜は……ただ、僕を殺そうとしている。
そう思い至った瞬間、僕は恐怖を感じた。今までに感じたことのない、生々しいリアルな恐怖。
僕は渾身の力を込めて衣桜の手を離そうとしたが、首にかかる圧力が少し和らぐだけだった。
「隠し通せ、隠滅するんだ。誰の目にも届かぬところへ! バベルを滅ぼすんだ!」
『広垣真輝』はがなった。衣桜の腕に一層の力が加わり、僕の腕が小刻みに震え始める。
どうにかしろ、どうにかするんだ、考えるんだ、僕。
衣桜は──手記の内容を通じて、父さんの役を演じているのだ。
以前、衣桜は言っていた。
──うん、口にしちゃったら……本に、吸い込まれそうだから。
『バベル』の作用は、周囲の世界を認知できなくなること──衣桜の空っぽになった「わたし」が、父さんの激しい筆致を読んでしまったら、口に出してしまったら?
役と、自分の区別がつかなくなってしまうのでは。
今の衣桜は『広垣真輝』ではない、広垣真輝となってしまっているのだ。
だとしたら──いま僕は、父さんに殺されようとしている。
僕の手から力が抜けた。衣桜の指が食い込む。痛さと息苦しさが、同時に口の奥を襲う。視界に黒い影が差し、衣桜の表情が見えなくなった。
はい、これが答えでございます。両親の跡を追って、媛倉に滞在した今回の旅で、得られた解答。
僕は父さんに、生きることを許されていない。
僕は……誰でもないままに……死んでいく。いや、もともと、生きていたわけではないのだ。僕は死の中から生まれたのだ。最初から死んでいたのだ。
なら、これで、いいんだ。
きっと。
──意識が徐々に薄れていく中、衣桜の声だけはやけにはっきり聞こえた。
「人々に知られてはいけない。誰にも知られてはいけない。ひっそりと、ただひっそりと、謎の中に葬り去るんだ……二度と、この恐ろしさを蘇らせてはいけない、二度とこの恐怖を味わってはいけない!」
恐ろしさを……恐怖を……もう二度と……。
まるで、衣桜自身のことみたいだ。そんなに恐怖を、怖がって。そんなに怖いことを嫌がって──
……ちょっと待ってくれ。
父さんはこれまで、一度でも恐怖のことを言っただろうか?
記憶する限り、そんなことは無かった。いや言ったかもしれないが、それほど父さんにとっては重要なワードではなかったはずだ。
いや待て、それどころか父さんはひたすらに手記を書いていたじゃないか。誰にも読めないのに何故書くか、と結に嘲られながらも、それでも一心に書いていたじゃないか。自分にしかわからない、いや自分にもわからない文字で、ひたすらに書き続けたじゃないか。
何故かって、そんなの決まってる。
誰かに、読んでもらうためだ。誰かに、真実を知ってもらうためだ。
そんな父さんが、真相を隠せなんて言うはずがない。書いておきながら隠せだなんて言うはずがない。
今、僕に乗っかって物を言っているのは──『広垣真輝』、父さんじゃない。じゃあ、衣桜本人なのか? ──いや、衣桜が僕を殺すなどありえない。
衣桜自身の恐怖への恐怖が、無意識に父さんの人格に投影して演技を強いているんだ。
僕を殺そうとしているのは、父さんでもない。衣桜でもない。誰でもない、誰か。
──恐怖そのもの。
僕は無我夢中で衣桜の腕を掴んだが、さっきよりも力がでなくてびくともしなかった。
「無かったことにするんだ、そんなものは無かった、無かったんだ、無かったのだ、最初から、どこにも、存在しなかった、バベルなど、神など、どこにも、無かったんだ──」
衣桜の口からは呪詛のように、台詞が漏れ出している。あまりにも苦しくって涙がこぼれ始めた。
嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ。
さっきまで諦念に満ちていた頭の中が、駄々をこねる子どものような思考でいっぱいになる。
僕はただ、生きる許しが欲しかっただけなのに。僕は、きちんと認められて生きたかっただけなのに。
どうして恐怖なんかに殺されなくちゃいけないんだよ。どうしてこんなところで死ななくちゃいけないんだよ。
僕は媛倉事件を生き抜いた子どもなのに!
「わあああああああああ!」
僕の中で、何かのエネルギーが閃いた。
衣桜の腕を思い切り握り、そこを起点にして身体を思い切りよじらせた。暴れた。足掻いた。
「う……」
そのうちに脚がどこかに当たったらしく、衣桜は呻いて僕の首から手を離した。
僕はその隙をついて、思い切り衣桜の身体を突き飛ばす。彼女は嘘のように軽く吹き飛んでいって、僕の身体は自由になった。
──僕は本当は知っていたんだ。
媛倉に来る前から、いや、もしかしたら今の母さんに高熱が出た状態でほっぽり出されるずっと前から、僕はわかっていたんだ。
僕の生きる許しは、とっくに与えられていたんだ。
僕が生きていることそれ自体が、僕の生きる許しそのものだったんだ。
だから僕は、高熱の状態で一人で生き延びることを見せつけることで、今の母さんに示してみせたのだ。
ほら……生きてるでしょう、って。
どれだけ隠そうとしたって、目を逸らそうとしたって、この真実だけは絶対に揺るがない。




