第四章 -4
媛倉市滞在、五日目。
静歌は、結京悟について調べるために、朝早く出かけて行った。有給休暇のことなんて、すっかり忘れてどこかへ行ってしまったんだろう。
衣桜は十時くらいになって、地下室からあがってきた。僕が静歌の用意した朝食を温めて、テーブルに並べてやると、もそもそと食べ始める。
「翻訳は、どんな感じ?」
訊ねると、衣桜は食べる手を止めて、
「……あんまり進まない」
「読みあげるのと、書くのとでそんなに違うんだ」
「うん……声に出すとすって入り込めるんだけど、書く時はその感じを形にしなくちゃいけないから難しい」
僕にはその感覚がよくわからないが、とにかく衣桜を信じるほかない。
とりあえず何か助けにならないかと、僕は昨晩静歌から受け取った父さんの手記、一巻から八巻を衣桜に渡した。
衣桜は目を丸くして、
「これ全部、本なの?」
悲痛な声をあげた。どうも、これが全てあの読めない文字で記されていると思ったらしい。
「いや……、これは父さんがそれまでつけてた手記だから、読める字で書いてあるよ」
「資料ってこと?」
「えっと……その認識であってると思う」
「なら楽でいいや」
衣桜は安心したように言った。僕は心の中で、衣桜ルールを更新する。読めない文字で書かれた手記(九巻)だけが「本」、他は「資料」。
「それから、これも」
僕は衣桜の生徒手帳を差し出した。衣桜は首をかしげて、それを受け取る。
「これ……わたしの?」
「そう、衣桜と一緒に冷凍庫に閉じ込められてたやつ。中にたくさん書いてあるし、もしかしたら衣桜も自分ことが──」
「これ、やだ!」
ぱしっ、と軽い音ともに、生徒手帳がテーブルの上に放られた。見ると、衣桜はまるで熱湯でもかけられたかのように、手帳を持っていた手を庇い、口元を震わせていた。
「ご、ごめんなさい……でも……、これだけは、ダメ……」
それだけ告げると、衣桜は走って居間から出て行った。
「衣桜!」
僕は慌てて、その後を追った。どうせ行く場所なんて一つしかない。
物置部屋にたどり着いた時、衣桜はもう地下に降りていて、床板はぴったりと閉められていた。動かそうとしても、内側で何かが引っかかっているようで開く気配がない。
僕は何度も衣桜に呼びかけたが、中からは何も聞こえなかった。まるで、地下室など最初から存在しないかのように。
心配だが、これ以上どうしようもない。僕は後ろ髪を引かれる思いで居間に戻ってきた。テーブルにある生徒手帳を手に取り、ページを繰る。
──台本の下読。王城の悲劇。王妃の悲痛を表現するには?
──サ行が鋭く、耳障りになりがち。
──劇団プリエの新作を観る。脇役が素敵。
そんな具合で演劇日記が続くが、最後のページに至ると、
$B$_$s$J$NMM;R$,$*$+$$!#1i5;$H$+$=$&$$$&OC$c$J$$!#;d$O$I$&$l$P$$$$!)!!$I$&$l$P$$$$$N!)!!2?$,$G$-$k$N!)!!$M$(!"$I$&$F!)!!$M$(!)(B
見たこともない字の羅列で記述は終わる。一度、コピーで見たことがあるので、特に新しい情報があるわけでもない。
ただ、みっちりと書かれた衣桜の肉筆をじっくり見るうちに、僕はやるせない思いでいっぱいになってきた。
それはあまりにも活き活きと、かつて日鞍衣桜という存在がいたことを物語っていた。
生徒手帳に連なる不可読の文字群は、今の衣桜にとってはパンドラの箱なのだ。
僕は、衣桜の生徒手帳をポケットにしまうと、靴を履いて外に出た。戸締りをすると、鍵を郵便受けの二重底の下に収める。一本しかない鍵をやりくりするために、初日に設えたものだ。
それから僕は駅に向かう。今日は、媛倉市をあてどなく巡る予定だ。
媛倉市はかつて、運河の中継地点として栄えた場所だったんだそうだ。で、一般的な郊外の例に漏れず、二十世紀末のベッドタウン化により人口が急激に増加、そして媛倉事件により人口が激減、現在は一部地域がゴーストタウン化しているのは前に述べた通り。
空は澄み渡る快晴。湿度もそれほどなくて、過ごしやすい暑さといった感じ。
僕は駅前で借りた自転車で、西の方へと向かった。何も考えずに漕いでいっても、そのうち市の中央を通る葉出川にたどり着く。道中はまばらだった人通りも、川沿いに設けられた自然公園まで来ると、散歩するお年寄りや、レジャー目的で来た家族連れの姿が多く見られるようになる。
駐輪場に自転車を留め、僕はぶらぶらと遊歩道を歩く。道端に植えられた木々の鮮やかな葉っぱが、陽に照らされて眩しい。川の流れは穏やかで、水鳥がのんびりと水面を漂っている。
父さんと母さんが歩いたかも、歩いていないかも知れない道。
もしかしたら、僕も両親と一緒に歩いたかも知れない道。
そんな、もしもの話には何の意味もなく、何の実感も湧かない。ちょうど衣桜も、十七年前の自分に対して、同じような感慨を抱いているのだろう。意味としてはわかっているけれども、彼岸の出来事のように見てしまう、この感じ。
けれども、僕らの立場はやっぱり決定的に違う。
僕は此岸で生きるしかない。でも、衣桜は過去を取り戻せる。
しばらく遊歩道を行くと売店があって、近くにベンチがいくつも並んでいた。家族が腰を下ろしてお昼を食べたり、カップルが並んで座って笑い合ったりしている。
ふと、ベンチで一人缶コーヒーを飲んでいる男性と目が合った。僕はなんとも思わず、そのまま通りすぎようとしたが、男性の方は立ち上がって声をかけてきた。
「君、東村の従弟の……中浦くん?」
「え……」
僕は驚いて、改めてその男性をよく見てみると、彼は衣桜が僕のことを「神」と思ってるんじゃないかと、冗談半分に言っていた医師の末野さんだった。
「やっぱり中浦くんか。二日ぶりくらいかな……俺は精神医をやってる末野っていうんだけど、覚えてる?」
末野さんは、前話した時のよりも更に砕けた口調で話しかけてきた。白衣がないと、ただの親戚のお兄さんのようだ。




