第四章 -3
「結ぶの『結』に、京都の『京』、悟りの『悟』で、結京悟」
「で、その人はいったいどこから出てきたの」
「本の中に出てきた」
手記のことを、どうしてか彼女は本と呼ぶ。衣桜は父さんの手記を、両手で掴んで僕に見せた。
僕らは近場の喫茶店に入って小野さんの話をまとめ直していたのだが、とにかく僕が知りたかったのは「結京悟」という人のことだった。
「もしかして、父さんが手記で言ってた『あいつ』のこと?」
「うん。そう書いてある。この本を書いた人は、結って人に会いにいってる」
「あの事件の最中に? 妊娠してる母さんと一緒に?」
「妊婦の人は連れてない。この本を書いた人だけ」
衣桜はストローに口をつける。衣桜が頼んだのはクリームソーダ、僕はアイスココア。落ち着いた店の雰囲気にマッチしていない気がするが、あいにくお互い背伸びするほどの甲斐性はない。
「そ、そんな危険を冒してまで、父さんがその人に会いに行く理由って……」
「……わかんない。それでね」
衣桜はクリームソーダとココアのコップを脇によけて、手記を広げてある行を指差す。
「ここまでは今読めるんだけど、ここから先はすぐに読めないの」
「読めないって、父さんの情報が足りないからってこと?」
「ううん。わかるんだけど、読めないの……その、書いてみないと、どういう風か聞こえてこなくて……うーん」
衣桜本人もこの感覚をどう伝えたら良いか、わかっていないようだ。
「落ち着いて。えっと、ここから先に書いてあることの意味は理解できるの?」
とりあえず、僕はさっき衣桜が指した行を示して訊ねてみる。衣桜は少し考えてから、
「理解できる。けど、伝えられない」
「伝えられない?」
「うん、口にしちゃったら……本に、吸い込まれそうだから。書かないとダメみたい」
独特な言い回しだけど、とりあえず文章に起こしたいということらしい。思えば、今までは衣桜による朗読で内容を追ってきたわけで、文面として内容が保存されているわけではない。
どっちにしろ、父さんの手記の内容は読める文字にする必要があるだろうから、できるうちにやってしまったほうが良いだろう。
そういうわけで、当面の方針は決まったのだけど、僕はもうひとつ、しておくべきことを思いついた。
「せっかくだから、一応、静歌に結京悟って人のことを調べてもらおうと思ったんだけど、良い?」
もしかしたら翻訳の助けになるかも知れないし、また別の新たな事実が出てくるのかも知れない。
ただ、衣桜は僕以外に手記の内容を晒すのを嫌がっているので、僕は確認の意味を込めて訊いてみた。
「うん、そうしたほうがいいかも」
衣桜は素直に言った。特に何の問題ないらしい。
僕は静歌に連絡するため、携帯を取り出して通話アプリを呼び出した。
「……何か、結さんについて他に情報ない? あった方が調べやすいんじゃないかと思って」
「ビリヤードがうまい」
「それ以外で」
衣桜は「うーん」と唸りながら手記をぱらぱらとめくると、何かを見つけたのか声を上げた。
「『帆村製薬』に勤めてたって」
僕はその名前を紙ナプキンに書き留めた。
その日、静歌が帰ってきたのは二二時を回ったくらいだった。
「お帰り」
「ただいま……って、こんな風に言うの久しぶり」
静歌は居間に入ってくるなり、溜息とともに言った。一人暮らしをしているとよくあること、らしい。
「で、どうだった? 小野さん」
「父さんのこと、たくさん話してくれた」
「そう。解読は進みそう?」
「うん、ある程度は……今、衣桜が文字に起こしてくれてる」
衣桜は今、地下室にこもって父さんの手記の翻訳をしている。二階のどれか一室を使えばいいと言ったのに、衣桜はやけにあの場所にこだわった。
実際の翻字作業はかなり苦しいらしくて、朗読してくれた時のようにスムーズには進まなかった。本人曰く、声に出す動作と文字を書くときの動作が違く、リズムが狂って父さんの言葉を見失うんだそうだ。正直、僕にはよくわからなかったので、気を遣って居間で父さん全集を眺めている。
「静歌はどこ行ってたの?」
台所からカルーアミルクの入ったグラスを持ってきた静歌に、僕は訊いた。静歌は僕の向かいに腰を下ろし、ゆっくりと一口飲んでから、
「本社」
「本社……って、東京行ってきたの?」
「うん。これを取りにね」
静歌は大きな紙袋をテーブルの上に載せた。それなりの重量があるらしく、二枚重ねにした紙袋の形が歪んでいる。
僕は立ち上がり、紙袋の取っ手を掴んで中を覗いてみる。見慣れたデザインの手帳が八冊、ぎっちりと詰まっていた。
「これ……父さんの手記?」
「そう。一巻から八巻までの分ね。役に立つと思って、取りに行ってきたの。あと、これもおまけ」
静歌は鞄から小さな手帳を出して、僕に手渡した。
見慣れた女の子の顔写真。十七年前経った今も変わらぬ顔立ちの女の子。
「衣桜の生徒手帳……」
「コピーもあるけどさ。やっぱり、本人が持っておいた方が良いよねって……勝手に持ってきちゃった」
「ええ、勝手に?」
僕は驚いて、静歌を見た。確かに、事件と関連があるからといって、私物を回収してしまうのはどうかと思うけど、ポストプロテスで出世道を進みたい静歌が、そんな危うい橋を渡るとは思わなかったからだ。
「昨晩の地下室での話、私……聞いちゃったの」
静歌はまたグラスに口をつけてから、まるで懺悔でも始めるかのように言った。
「地下室での話って……」
「立ち聞きするつもりはなかったの。でも、二人が家のどこにもいないから心配になって探してたら……」
静歌はグラスの縁を指でなぞった。ガラスの透明な音が微かに鳴り響く。
「私ね、恥ずかしくなったの。今までは、どんなにたくさんの人に傷を負わせた事件でも、真相を明らかにして丁寧に説明してやれば、傷ついた人達はみんな報われる、って思ってた。一番不幸なのは、どうして自分が傷ついたのか、わからないままでいることだと思ってた。だから、私はそういう仕事をしたかった……けどね」
ちん、とグラスの指で弾き、静歌は続ける。
「そういうことじゃないって、わかった。顔も知らない不特定多数の人の前にさ、今、目の前で苦しんでいるたった一人を助けないでどうするのよ、って、つい昨日気づいたのよ……笑っちゃうでしょ? 私、自分が全人類の命をとるか、最愛の人の命をとるか……みたいに選択する権利を持ったヒーローだと勘違いしてたの。あんな選択さ、ただ、場を盛り上げるための仕掛けでしかないのにね」
現実は物語じゃないのに、と静歌は小さく呟いた。それから、僕に向けて微笑んで見せて、
「だから言ったでしょ、私個人として、できることは何でも協力するから、って。まあ、そう言った時は、ここまでするつもりはなかったんだけど……」
「……静歌は、どうすれば衣桜は助かると思う?」
僕は、ずっと誰かに訊きたかったことを、初めて口にした。
どうすれば、衣桜はあの恐怖から解放されるのだろうか。
どうすれば、衣桜は衣桜自身を『可哀想』とではなく、『悲しい』と思うことができるだろうか。
静歌はグラスの液体を飲み干しから、じっと僕の顔を見つめた。少し頬が赤くなり、目つきもとろんとし始めている。あまり強くない上に、疲れているから酔いが回るのも早かったのだろう。
「わかってるんでしょ?」
それでも、静歌は冷静に言った。
「衣桜ちゃんが、遼喜から解放されることだよ。衣桜ちゃん風に言えば、『わたし』と『君』の世界から、解放されることだよ……恐怖の方へ突き放すのとは、別のやり方でね」
「……そんなやり方、あるのかな」
「わからない。わからないよ……わからない……」
静歌は駄々をこねるように「わからない」と繰り返した後、ずるずるとテーブルに突っ伏して眠り始めてしまった。僕は静歌を二階に運ぶことは諦めて、布団の方を居間に持ってきて寝かせた。
その後、衣桜の様子を見に行くと、地下室で眠りこけていたので、布団を運んできて寝かせた。
僕には布団がやってこないので、自分から二階に上がっていって潜りこむしかなかった。




