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第四章 -5

「覚えてます。えっと、衣桜の件でお世話になりました」

「日鞍さんね……あの子が篠園さんを拒絶したって本当の話なの?」

「はい。なんか、すごかったです」

 僕はあの地獄の押し問答を思い出してげんなりした。末野さんは、愉しそうに笑って、

「そうかぁ。お陰さまで、俺はもう非番状態さ。ポストプロテスが患者から了承を得ないと、俺は継続的な診察ができないからな。まぁ、有休みたいなもんだ」

 静歌の投げ捨てた有休はこちらの方に飛んできていたらしい。

 末野さんに促されて、僕はベンチに腰掛けた。真ん中に肘掛けのあるタイプのもので、肘掛けを挟んだ隣に末野さんが座る。

「それで、どうだい。あの子の様子は?」

 と、末野さんが訊いてきたので、僕はかいつまんで話した。衣桜が僕がいなくなることを恐れている話、手記を読む段階から書く段階へと移った話、そして今朝、生徒手帳を拒絶した話。

「ふぅん、君の渡すものを退けたんだ……」

 末野さんは、今朝の話を特に興味深そうに聞いていた。僕はそこで末野さんが、ポストプロテス関係者であることを思い出して、

「あ、生徒手帳は静歌が勝手に持ちだしたみたいなので……オフレコでお願いします」

「あはは、東村がそんなことしたのか。あいつも本気なんだな。……で、それよりもその話、大分面白いね。面白いなんて言ったら不謹慎かも知れないけど、面白い」

 末野さんは手にしたコーヒー缶を小刻みに振りながら続ける。

「俺は、あの子は君の言うことを全て受け容れるものかと思っていたが、そうじゃなかった。しかも、別に過去の記憶を失っているわけでもなく、君との関係によって安定しているわけでもない……あの子は未だに怖がっているんだからな」

 ──どうしてわたしには、遼喜しかいないの。

 不安に満ちた衣桜の声が頭の中で木霊する。

「あの、これって……衣桜が僕を恐れているっていうことになりませんか?」

 僕はあの晩思ったことをぶつけてみた。すると、末野さんは真剣な面持ちで首を振り、

「いや、それはネガティブに考えすぎだろう。恐怖は結果に過ぎない。そういう言い方をするならば、あの子は全てを恐れている、と言った方がいい……ようだな。自分自身も含めてね。で、その唯一の逃げ場が君なんだ。というか、君を根拠とした『自分』かな。だから、君が生徒手帳を渡そうとしたのは、セーフハウスに敵が乗り込んできたようなものなんだよ」

「なるほど……」

「しかし──そうなると、なかなか厄介なことになってくる」

 末野さんは口に手を当てて脚を組んだ。

「そもそも、あの子に過去の記憶があって、事件の恐怖に怯えているというのであれば──ただ、ひたすら君に縋って慰められていれば済む話なんじゃないのか? 正に刷り込みと同じく、君を親のように慕っていれば良い、というかそうしかできないはずだ」

「確かに……そうですね」

「そばにいて欲しい」と衣桜が僕に頼んで、僕が了解すればそれで済むはずなのだ。それで恐怖が払拭されるのであれば、そうすればいいだけのこと。

「しかし、実際は違う。あの子は多くのことをしすぎている。君に判断の根拠を求めて篠園さんに楯突いたり、君のお父さんの手記を必死で翻訳しようとしたり……一体、どういうことなんだ?」

 篠園さんの提案だって、最終的に駄々をこねるなりして僕を同伴させれば良かったのだ。しかし、衣桜は「僕の意志」を最大限に考慮した。衣桜は僕を最終的な決定の根拠にしていた。

 父さんの手記の翻訳は、すっかり僕の方から頼み込んでやってもらっていると思っていたが、そうじゃなかった。思えば、衣桜は最初から自分の意志で解読を進めていたのだ。それも、酒々井さんからもらった尋常じゃない量の資料を一晩で読んでしまうくらい、強靭な意志で。

 恐怖と、僕と、手記とで。

 一体、衣桜は何をしようとしているんだろうか?

「何か、前提を見落としてるような気がするな。何か……何かが」

 末野さんは、遠く川面を見つめながら呟いた。

 沈黙が下りる。僕は、葉出川の向こう岸をぼんやりと眺める。葉出川はそれほど大きな川ではないが、それでも彼岸はとても遠く感じる。僕は向こう岸に衣桜が佇んでいる幻を見たような気がした。

「そういえば」

 末野さんが口を開いた。

「そもそも、君はどうして媛倉くんだりまで来たんだ?」

「……僕の生まれ故郷だからです」

 僕はこの旅の切欠から、末野さんに話した。今まで母さんだと思っていた人が、本当の母さんじゃなかったこと。本当の両親は媛倉事件で亡くなっており、僕はその最中に生まれたただ一人の子どもだということ。

「それで、僕の両親の足跡を辿りに来ました……主に調べてるのは父さんばっかなんですけど」

 まさか、生きる許しを求めてやってきただなんて言うわけにもいかず、その辺りはぼかして伝えた。

「へえ……それで、ここで両親のことを調べて、どうするつもりなんだ?」

「どうするつもり、ですか?」

 僕が反問すると、末野さんは目を丸くした。

「ええ、何も考えずに来たのか? 例えば両親の夢を知って、それを引き継ぐ! とか、そういうのあるだろ?」

「……あんまり、考えてません。何かしらを見つけたら、その時に考えようと思ってます」

「ふわっとしてるな……まあ、若いからそれで良いのかも知れないけどさ」

 末野さんはぼやきながら缶コーヒーに口をつけ、空っぽなのに気づいて溜め息を吐く。それから、のっそりと立ち上がって、

「じゃ、俺はそろそろ行くよ。あ、そうそう、篠園さんのことだけど、担当案件はもうとっくに片がついてるはずだから、そのうち何か仕掛けてくるんじゃないかな。ま、抵抗するつもりなら気をつけてな」

 手をシュッシュと振り、去っていった。

 僕はしばらくそのベンチに座って、流れる川面とその向こう側を見つめていた。

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