第三章 -2
その日の午後は、衣桜と色々話してみた。同意が取れていない以上、ポストプロテス社員である静歌の聴取はまずいというので、二人きりだ。
まず、冷凍睡眠に入った前後の記憶はないらしい。怖い、という感情以外は。
「『怖い』でできたトランクに閉じ込められてたみたい。それを遼喜が助けてくれた」
そのくせ、媛倉事件の概要や父さんの手記の内容が本当であることを伝えても、薄い反応しか寄越さない。もっとリアクションしろと僕が言えば、衣桜は喜んでオーバーリアクションをするだろうが、もちろんそうする意味はない。わかってる。
それから、衣桜はいたく父さんの手記を気に入っている。
「なんだか無性に読みたくなって、試しに読んでみたら自然と読めたの」
そうしたらコミュニケーションが取れるようになったということらしい。末野さんは、朗読という刺激によって凍っていた言語機能が蘇ったのではないかと推測している。元演劇部だったようだし、声に出して読むという行為というか習慣が身体に刻まれていたのかもしれない。
そして、父さんの手記の解読は一向に進まない。
「後ろにいけばいくほどわからなくなるね」
と、僕らと同じ感想を持つくらいなのだから、滞在中に翻訳しきれるか不安なところがある。もちろんそれは努力目標だと自分で言ったばかりで、ポストプロテスに保護されてからでもゆっくりやれることにはやれる。
でも、それにはちょっとした問題が立ちはだかった。
「良いよ。でも……遼喜以外は見ちゃダメ」
まるでお気に入りのぬいぐるみみたいに、父さんの手記をぎゅっと抱きしめて衣桜は言う。
「何でまたそんな」
「わたしが、遼喜からもらったものだから。他の人はダメ」
別にあげていないが、衣桜の中ではもうもらっていることになっているらしい。
「じゃあ、僕が他の人のために読んでって言ったら読むの?」
「読まない。わたしが読むのは遼喜のためだけ。他の人がいるのなら、読まない」
謎の論理だけどあの医師の言う通りだとすれば、衣桜の行動原理は全部僕に依存しているわけだから、一応頷ける話ではある。ただ、そうなるとまた「同意」云々の話が出てきて、ポストプロテスと悶着が起こりそうな気がする。
結局、僕はそのことを静歌には教えなかった。
翌日、僕はとある出版社に足を運んだ。雑誌記者だった父さんの生前の職場で、手記にも登場した編集部がある場所だ。
父さんの手記を聖書に見立てて聖地巡礼に来た、というわけでなく、単に父さんの書いた記事のデータを受け取りに来たのだ。もう一ヶ月も前から静歌経由でアポを取ってある。
で、余裕があったら当時の父さんを知る人から父さんの話を聞く、と。どちらかというと、こちらのほうが目的として比重が大きい。正味、記事データだけならWebアーカイブを地道に収集すれば手に入れることができるからだ。
媛倉に本社を構えるこの出版社は事件によって実質倒産状態になっていたが、種々の保険や補償を元手に復活、媛倉事件に関する最前線の情報発信元として活躍した。
僕が受付で要件を伝えると、二階の応接スペースで待っているよう言われた。どこかの雑誌の編集部と、パーテーション一枚で区切られたスペースの、それなりに良いソファに腰掛けて担当の人を待つ。
「お待たせ……した」
やがて、一人の中年の男性が山盛りの書類を持ってやってきた。目の前のテーブルの上に、即席の資料の山が出来あがる。思ったより膨大な量に、僕は目を丸くした。
「これが広垣がウチで書いた全文章。全部、持ってっていい」
男性──酒々井英敏さんは資料の傍らに立ったまま言った。長身、スポーツ刈りという出で立ちで、静歌曰く見た目通りに優しい。父さんの元同期だったという人で、姫倉事件の起こった時はたまたま県外に居たために無事だったらしい。
僕は慌てて立ちあがって、頭を下げた。
「あ、ありがとうございます……、えっと──」
「二週間」
「え?」
酒々井さんは耳朶を人差し指で掻きながら、僕の向かい側のソファに腰を下ろした。
「もう十七年前に死んだ奴の生涯書いたデータをかき集めて、印刷して、まとめるのにかかった時間だ。二週間かかった。普段からムチャクチャに文章を書く奴でな、記事の草稿とかボツになった原稿とか、取材のメモとか企画書、後輩へのアドバイス、業務日報まで全部集めた正真正銘の広垣真輝全集だ」
僕は説明を聞きながら、資料のいくつかを開いてみた。雑誌に記事の載ったものはそのまま雑誌一冊まるごと、草稿があるものは別途添付されている。それが資料の大半。残りはジャンルごとにバインダーでまとめられていて、それだけでも百科事典のような分厚さになっている。
「あの……本当にありがとうございます。ここまでしていただけるとは思いませんでした」
正直、電子媒体で渡してくれるほうがありがたかったが、それはワガママだ。いや、それにしてもという感じはあるけど、好意でやってもらった以上僕は文句を言える立場にない。
酒々井さんはちらりと僕の方を一瞥すると、
「まぁ、座ってくれよ」
と、僕を促した。さっきから立ちっぱなしだったのだ。僕は静々と再び腰を下ろす。同じ高さになった酒々井さんの目が、僕を真直ぐに見据えた。
「どうして俺がここまでしたかわかる? 二週間、仕事もなおざりにして」
「それは……」
僕は言い淀む。初めて会う相手に、見返りも期待せず二週間もかけてプレゼントを準備する理由など、見当もつかなかった。
酒々井さんは煙草とマッチを箱から取り出すと、煙草にゆっくりと火をつけて咥えた。
「くれぐれも勘違いしないで欲しいんだが、別に君が広垣の息子だからってわけじゃない。……くく、あいつの息子が、どんな顔になってるもんかと思ったが、思ったよりあいつに似てないな。嫁さん似か」
そこで思い切り煙を吸い込み、ソファの肘掛けに置かれた灰皿に灰を落とす。酒々井さんはしばらく黙っていたが、やがて唐突に顔を歪めて、僕の目の中を覗き込むようにして言った。
「──答えられないか。まぁ無理はない。ただ……答え合わせの前に、これだけは伝えておこう。事件の直後、赤ん坊の君を引き取らないかという話は俺のところまで回ってきたんだ」
「……そうなんですか」
「もちろん断ったがな。何故かはすぐ教えるが、まぁつまり、俺とお前はもしかしたら親子だったかも知れないな、って話だ。お前と……今の育て親が親子なのと同じようにな」
普通、親が違えば生まれて来る子どもも違ってくるけど、育て親の場合はそうじゃない。僕が生きられるのであれば、育て親は誰だって構わない──というわけにもいかない。人は環境に左右されるというし、母さんが僕の育て親でなかったなら、今の僕はまず間違いなくいなかっただろうと断言できる。
だから、僕は驚かなかった。まるで他人事のように、酒々井さんの言葉を受け止めていた。
「ま、そんなこと言われてもピンと来ないか」
僕の反応を見て酒々井さんは薄く笑ったが、すぐに引っ込めて、
「だが、それで良かったんだ。そのままで良かった。君は、自分の出生の秘密なんぞ知らずに、ごく普通の一人の男として生きて、成長して、老いて、何も知らずに死んでいれば良かった。そして、俺の前に現れなければ良かった……俺はそう思っている」
僕は酒々井さんが何を言おうとしているのか、少しの間うまく呑み込めなかった。けれども、それが決して愉快な話の類でないことはたやすく理解できた。
酒々井さんは勢いよく煙草の煙を吐き出すと、
「二週間の答えは、君をさっさと追い払うためだ。広垣の話とか、事件の話とか、俺のことだとか、根掘り葉掘り訊かれる前に、これで満足だろう、さあ帰ってくれ、と言うためだ」




