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第三章 -3

「……」

「想像してみて欲しいんだが……いや、想像できなくても良い。たまたま外、遠くに出かけていたら、家族とか友達とか同僚とか上司とかよく行く店の店員とか名前も知らない近所の子どもとか、全員死んでるんだ。それも、原因不明の集団ヒステリーで。俺は自分のあまりの無力さに死にそうになったが、死ぬことすら無意味だってわかってたから死ねなかった。あの頃の日々はとにかくひたすら無力感に押しつぶされそうになっていた。人間が一番耐えられないのは無力感だって、俺は身を以って知った」

 無力、無力、無力。無力感に苛まれる日々。僕は想像してみたが、きっとどこまでも想像でしかない、作り物めいた怖さをぼんやり感じただけだった。

 酒々井さんはマッチを一本取り出して、手の内で弄び始めた。。

「地獄、地獄だよ。やかましいあらゆるメディアが、わたしはこんな気持ちだ、あなたはどんな気持ちか、わたしたちに何ができるか、どうして何もしないのか……さんざ喚きたてていた。何ができるか、だと? クソくらえだ」

 マッチが、酒々井さんの手の中で折れた。

「俺は何もできなかった、何一つとして。失意のただなか、俺は同業者のしつこい取材を受けて、自分の仕事を生まれて初めて恥ずかしく思った。会社も潰れたし、辞めてやろうかと思ったよ。でも、今も続けてる……恥ずかしくても、俺にはこれしか残ってなかったからな。そして今でも続けてる」

 根元まで燃え尽きた煙草を、思い出したように灰皿に捨てる。

「もうたくさんなんだ。広垣の名前を聞くだけで、否応なしにあの事件のことを思い出す。俺はもううんざりしていた。だから、君を引き取らないかという話も断ったんだ。事件そのものみたいな君を育てるには、俺は疲れすぎていた。家に帰るたび君の顔を見て、あの無力感を思い出しちゃかなわないからな」

「……僕は色々な人に避けられていたんですか?」

 僕は訊ねる。僕の預かり知らない、けれども紛れも無い僕のことを。

「ああ、文字通りたらい回しさ。施設すらも受け入れを拒否するなんて、前代未聞だった。だから必死で親捜しだ。親戚はもちろん、友人もダメで俺みたいな同僚のとこまで回ってきた。どこに落ち着いたのかは君がよく知る通りだ」

「……それは僕が、媛倉事件そのものだから?」

 僕はなんだか泣きそうになりながら、でもなんとか押しとどめながら訊いた。酒々井さんはそんな僕の気持ちを察しているのかいないのか、滔々と答える。

「事件そのもの、と言っても人によって受け取り方は違かったはずだ。俺みたいに無力感を思い出したくない奴、単純にあの恐怖を思い出したくない奴、穢れていると思いなす奴、成長する途中で狂って自分が殺されるんじゃないかと怯える奴。君は色んな人間のあの事件に対するデリケートな部面を刺激する存在だった」

「今の僕もそうですか? 僕を見て、無力感を思い出しますか?」

 そう質問すると、酒々井さんはじっと僕の顔を見た。僕の裏の裏側、無意識とか呼ばれる氷山の底面に、何かしらの狂気が眠っていないかと、注意深く窺うような眼差しで。

「……中浦遼喜、って名前だったか」

「はい」

「それだけなら、俺は何も感じなかったはずだ。だが、一度、もう既に俺は君が広垣の息子だっていうことを知ってしまっている」

「……はい」

「だからダメだ。俺は今、苛立っている。無力な自分と、君がここにいることに。申し訳ないが、もう今日は帰ってくれ」

 酒々井さんは耐え切れなくなったように席を立つと、応接スペースを出て行った。僕はしばらく呆然と座っていたが、泣きそうな気分だけが残されていて、実際に涙が出てくることはなかった。それにはまだ早すぎるということだろうか。わからない。

 

 行きは歩きだったけど、帰りは建物を出てすぐにタクシーを捕まえた。酒々井さんのくれた資料の量が法外すぎて、いくらなんでも僕一人で徒歩二十分の距離を運ぶのは不可能だった。台車を借りて二往復かけ、荷台に積み込む。

 僕は走り出したタクシーに揺られながら、さっきまでのやり取りに思いを馳せる。知ることのできなかった父さんのこと。知りたくもなかった僕自身のこと。

 トランクに詰まった父さんの文章は山のようにあるといっても、酒々井さんはご丁寧に父さんの記事が掲載された雑誌まるまる用意してくれたので、たぶん六割くらいは父さんの書いた以外の文章だろう。それでもなかなかの文量があって、衣桜がこの膨大な資料を読んでくれるかどうか不安だ。

 そして、僕のこと。僕の知りようのない僕。いつ僕が生まれたのか知らないが、生まれたての僕は少なくとも死んでいて、大人たちは皆、僕を養うことを嫌がった。

 高熱を出して寝込んでいた幼い僕を、母さんが置いてけぼりにした日のことを思い出す。

 実際、あの時の僕には、あらゆる大人の間をたらい回しにされていた記憶があったんじゃないかと思う。あらゆる人が僕の生存を許さなかった──そして唯一拾ってくれた母さんも、完全には僕を許していなかった。最後の一人かもしれない母さんから、生きるための完全な許しを得るために、僕は生き延びた。

 そして、未だに生きる許しを求めて媛倉を彷徨っている。

 そんな僕でも誰かの神になれるんだな、と僕は何かの歌詞みたいなことを思った。


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