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第三章 -1

 媛倉事件から十七年経ったけど、その十七年間に大きな地震が日本国内だけでも三回、大きな被害を出す台風は毎年一度はあり、テロも一度だけ起こっていて、そのたびに少なくない犠牲者が出た。世界規模で見れば、たぶん内戦や紛争で媛倉以上の死者が出ている場所はたくさんあるはず。

 けれども、媛倉事件のインパクトは未だに人々から消えない。数えきれないほどのルポが出て、数えきれないほどの映画が撮られ、数えきれないほどの詩とか小説が書かれて、未だに大きな物語として根付いている。

「納得できないからだよね、やっぱり」

 静歌はいつか、そんなことを言っていた。あれは僕が出生の秘密を教えられてすぐのことで、当時大学四年生の静歌は、卒論に媛倉事件のことを引用していた。

「地震、台風、竜巻の天災の類はさ、理不尽でその度に悲劇が起きているけれども、昔からある現象だし、発生原理もわかっていて皆そういうものだって知ってる。戦争とか犯罪の類も、一応そう。厳密な倫理とかはともかくとして、誰かがどうしてやった、っていうのはわかる。

 けど、媛倉はあれだけのことが起こって、原因が結局わかってない。何が、誰が、どうして、っていうのがなにもわからない。だから、本当に安心できない。無意識のうちに、誰もがそういう不安に宙づりにされているの」

 だから、調査会社としてはこう言える。媛倉事件には需要がある、と。芸能人の不倫とかスポーツ選手の薬物騒ぎとかいう下世話な話題よりも、よっぽど知りたいと思われるような真実の需要が。

 もともと調査会社は市場調査を主とするコンサルティング会社を呼ぶもので、今僕達が調査会社と呼ぶものの原型は探偵会社だ。改革によって官僚化が進み腐敗した警察組織に、「民意に即した公正の目」として食い込んでいった探偵会社が現在のポストプロテスにあたる。

 現在では、警察から捜査権を委託されて動けるよう法的に認可されている。よく言えば外注、そうでなければ下請け。事件解決に大いに貢献しようとも、手柄は基本的に警察のものだ。

 それでも調査会社が事件捜査に躍起になるのはひとえに信頼のためである。端的に、評判が良ければ顧客が増える。探偵会社が母体だから、客は警察だけじゃない、一般人の依頼も来る。浮気調査、落とし物調査、尋ね人探し……それで企業利益も増えるというのならば、警察をダシにしてアピールしておこうというわけだ。

 で、一般依頼の主な内容は事件捜査と比べると、圧倒的に華やかさが欠ける。はっきり言って地味。体力があれば誰でもできる仕事。ダーティワーク。裏社会に首を突っ込む可能性もあって危険。云々。

 そういうイメージと社会の構造が出会う事で、一般依頼請けは脱出世コースだ、という暗黙の認識ができあがる。

 静歌は真実に対する意志がとても強い。こうして暴かれた真実が多くの人を傷つけようとも、目を逸らすことは「生存」に反すると、静歌は卒論で主張していた(その時の僕にはよくわからなかったけど)。

 だから、静歌は評価の低下によって一般依頼請けへの異動を恐れている。何故なら、一般依頼というのは必ずしも真実が必要なわけではなく、依頼者が満足できればそれで良く、場合によっては特定の事実を隠すケースもあるらしいから。それは、静歌にとって翼をもがれるのと同じことだ。

 重要な証人である衣桜の保護に失敗した静歌は、(自分の勇み足のせいとはいえ)断崖の縁に立たされている。

 ──そうと知りつつも一週間。だからこその一週間。

 それが静歌と衣桜に宙ぶらりんにされた僕の、精一杯の回答だった。


「急いで来てみたところで、証人が拒否して身動きが取れないとはなあ」

 診察室。僕らは衣桜の精神状態の観察を担当する末野(すえの)という医師の話を聞いていた。先ほどヘリで到着したポストプロテス所属の精神科医らしく、静歌と顔見知りだとか。末野さんの皮肉に静歌が苦々しく歯噛みしているあたり、割と打ち解けた仲らしい。

 証人、とは衣桜のことだ。衣桜がポストプロテスへの協力に同意しなかったので、ポストプロテスとして活動する末野さんは衣桜を診察する権利を持たない。診察に限らず、検査や聞き込みなどもできないので、「同意」の果たす役割はとても大きい。

 だから、僕と静歌だけが医師と面会しているというわけで。

 一連の事情を聞いた末野さんは、所見を教えてくれた。

「まぁ、実際会ってないから何とも言えないが……喩えて言うなら、刷り込みみたいなことが起こってるんじゃないか」

「刷り込みって、雛鳥が生まれて最初に見たものを親と思いこむやつ?」

 静歌の質問に、末野さんは軽快に頷いた。それから僕の方を見て、

「昨日、冷凍庫から出てきた日鞍さんは、目を開いた瞬間、君を見たんだよね」

「は、はい」

 あの時は死ぬほど驚いた。今でもあの生々しい感覚を覚えている。

 末野さんは両手を軽く組んで、説明する。

「赤ん坊はだいたい生後九か月くらいで、自己を獲得する──つまり、自分という存在を自覚するんだが、それは他の人、概ね母親とのコミュニケーションによって成される。その原初的なコミュニケーションは、見ることと見られること……要するに見つめ合うことだ」

「見つめ合うこと……」

「『視線触発』って呼ばれているな。そこでヒトは『見られている自分』を自覚し、『わたし』の地盤を形作る。これが自己の芽生えとでも言うべき切欠なんだが……日鞍さんの場合には、その時にこれが起こった可能性がある。というか、そうすれば少なくとも君に極度に依存する態度は納得がいく」

「……僕を親だと思ってるってことですか?」

 僕が問うと、末野さんはいたずらっぽく笑った。

「いや、親よりも遥かに強いだろうな……神とでも言っていいかも知れない。『わたし』はわたしで、『君』が君という絶対的な関係は信仰に近い感じがする。絶対的な道徳、絶対的な行動原理さ。本人にそのつもりはないんだろうけど」

「仮にその話が正しいとして、じゃあそれまでの『日鞍衣桜』はどこにいったの?」

 静歌が突っ込みをいれる。衣桜はどう見ても赤ん坊ではないのだから、とっくにそんな手続きは済ませたはずだ。だけど、再び視線触発があったということは──。

 末野さんは肩をすくめた。

「もう、いなくなったんだろう。彼女は十七年前、事件の最中に錯乱した状態で冷凍庫に入った。そして、長い年月を経て錯乱は沈静していき、同時に彼女の自己まで沈んでいった、と」

「それで、自己が空白になった?」

「そう考えると自然だ。これだけでも新事実だから、できれば俺も早いところ診察して報告をしたいんだが……神様が一週間、離れるなというのだから、日鞍さんは離れることを不合理に思うだろうな。ちょうど、俺達が虐待された犬や猫を見て、眉をひそめるのと同じふうにね」

 末野さんはメモを白衣のポケットにしまうと、静歌の方を見やった。

「そういうわけで東村さん、あの患者はこの一週間は絶対に首を縦に振らないよ。その間、あの上司をどうやって留めておくつもりなんだ?」

「……いま、考えたくないから、上司のこと言わないで……」

 静歌はこめかみを抑えて、寝起きみたいな声音で言った。今の静歌を見れば誰でも、あ、頭を悩ませてるんだな、とわかる。そもそも、静歌をして軽率な行動をさせたのも、その上司のことが念頭にあったからかも知れない。

 末野さんは苦笑して、

「ま、とりあえず俺の方からとりあえず、篠園(しのぞの)さんに報告しておくよ。こういう理由で、いまの重要証人はこういう理由でテコでも動きませんよ、ってね」

 安心させるように言ったが、静歌の顔色は晴れない。

「……そう言っても篠園さん来ますよね」

「まあ、来るだろうな。今日、証人が来ないって分かってカンカンだったから。今日明日は裁判絡みで身動きとれないらしいから、明後日には確実に来るな」

「──遼喜。それまでにあの子の気を変えておいてよ」

「無茶言わないでよ……」

 僕はげんなりしつつ答えた。

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