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第9話 絵を描くこと -1

 最近、日記用ノートの減りが早い。理由は明白で、一日一行で終わらなくなったから。



『今日の三回目の食事は、メインが鶏の照り焼きだった。焼き目のついた皮はぷりぷりで、身はしっとり柔らかかった。甘味と塩味が混ざった、甘辛味が私は好きなのかもしれない。


 記録帳は四ページ書いた。一番印象的だったのは、入浴の後に見たカラフルな魚の群れ。尾鰭が大きくて、花びらのようにひらひら揺れていた。水中だと上からしか見られないのが残念。宙を泳いでくれたらよく見えるのに』



 最初の頃の何倍にも膨れ上がった日記を書いて、私はいつも通り、海の記録に移った。分厚い記録帳と色鉛筆を持って、縁側の縁から拳ひとつ分内側に座る。


 海を覗き込むと、今日は少し深めのオリエンタルブルー。灰青色の巨大な魚影が、ゆったりと体を揺らしている。


「鯨だ」


 私は独りごちたものの、魚にはあまり詳しくないため種類はよくわからない。紡錘型の巨体。深いところを泳いでいてあんなに大きく見えるということは、きっと何十メートルもあるのだろう。


 私は早速記録帳を開いた。少し迷ってから、スレートブルーの色鉛筆を取る。


 絵を描いている間、鯨はずっとその場所を泳ぎ続けた。少し浮上したり、沈んだり。屋敷の下の方へ行ってしまうと思ったら、くるっと反転して戻って来たり。まるで「ボクを描いて」と言っているよう。


 まっさらな画用紙の上に、少しずつ海の姿が写し取られていく。私は何度も色鉛筆を変えて、青の上に黒を重ねたり、色の境界を指先で擦ってぼやかしたりする。


 鯨を見続けていたら、なんだか親近感が湧いてきた。


「海の中は気持ちいい?」


 私はなんとなく問いを発し、紺色の色鉛筆を缶に戻す。黒を取って海へ視線を戻すと、鯨が尾鰭を大きく動かした。少し浮上して、胸鰭を揺らす。巨体が寝返りを打つように角度を変えて、筋の入った白い腹が見えた。


 私はほとんど完成した記録帳の絵を見て、腹をこちらに向けた鯨を見て、また記録帳を見た。パールグレイの色鉛筆を取り、余白に鯨の腹をざっとスケッチする。それからボールペンに持ち替えて、鯨の動きを文章で記した。


 完成した記録を眺め、視線を空へ向ける。今日も変わらず、夕暮れなのか明け方なのかわからない色。ここに鯨の白い腹が見えたらどうだろう、と想像してみる。境界の空を泳ぐ鯨。きっと綺麗だ。


 空想の空に鯨を泳がせ、視線を海へ戻す。いつの間にか鯨が消えていて、オリエンタルブルーの海だけがあった。


「おはよう、紗凪(さな)」


 背後から翠雨(すいう)の声。私は「鯨は本当に、私が描くのを待っていてくれたのかな」などと考えながら振り返る。


「おはよう。今日は少し遅かったね」


 翠雨は「そうかな?」と軽く首を傾げながら私の隣に座り、日記を見るより前に、開いたままの記録帳を覗き込んできた。


「綺麗な絵だね」


 思えば、彼が記録帳を見るのはこれが初めてだ。なんとなく恥ずかしくて、私は「さっきまで鯨がいたんだよ」と少し話題を逸らす。


「その辺りを泳いでたの。ずっと背中しか見えなかったんだけど、話しかけたら、返事をするみたいにお腹を見せてくれた」

「へえ」

「けっこう長くいたんだけどね、ちょっと空を見てたら、いつの間にかいなくなってたの」

「もしかして、描くのがまだ途中だった?」

「ううん。ちょうど描き終わったところ」


 翠雨が「よかった」と安堵した声で言い、「他のページも見ていいかい?」と手を出した。私はやはり恥ずかしいものの、彼に言われて書いているということもあり、「もちろん」と答えて記録帳を渡した。


 形のいい骨ばった指が、パラパラとページをめくっていく。私は海の方を向いて、視界の端でそれを見る。どうにも落ち着かず体を揺らしていると、「ねえ、紗凪」と翠雨が絵を指しながらこちらを向いた。


「これは、どうして紙なのに光って見えるんだい?」


 彼が開いているのは、四日前に描いた魚の群れの絵。浅い海に銀色の小さな魚が渦を巻いて泳ぎ、キラキラと光を反射していた。


「一度普通に描いた絵に、消しゴムでコントラストをつけたの」

「……この辺?」


 翠雨が光のところを指差し、


「そう。それで、ここに少し白を入れた」


 私はそのすぐ横を指す。彼が「へえ」と感嘆を漏らした。


「紗凪は絵が上手だね」


 それからにっこりと笑い、


「君にお願いしてよかったよ」


 心から満足した様子で言う。その言葉に、表情に、私は自らの異変に気づく。


 なぜだろう。鼻の奥がツンとする。目の奥がギュッと内側から圧迫されるよう。翠雨(依頼者)が満足していて、褒めてもらえて、私は喜ぶべき場面なのに。


 自分が何を感じているのか、いまいちよくわからない。私はとにかく涙を堪えて、「そうかな」と後ろ頭を掻いた。当然痒いわけではなく、自分自身を誤魔化すため。


「翠雨は、どの海が一番好き?」


 話題を逸らすためだけに適当な問いを振る。このことを露ほども知らない翠雨は、「どの絵も綺麗だけど」と話しながらページをめくり、


「どの絵が好きかって言ったら、ダントツでこれかな」


 そう言って開いて見せたのは、ついさっき描いた鯨がいる海の絵。「君が描いてくれたからね」と付け足す。


 全部私が描いたものだけど——という疑問は、涙を止めるのに大きな役目を果たした。私は「綺麗な鯨だったよ」と言って絵を撫でる。


「小さい絵にしちゃうと普通に見えるけど、実際はすごく大きくてね、動きが優雅で、海の中で踊ってるみたいだった。この目の後ろのフジツボはね、本当はもっといろんな色で、キラキラしててアクセサリーみたいだったんだよ」


 翠雨は「へえ」と言いながらなぜかモゾモゾと体を揺らし、「紗凪は、この鯨が好きかい?」と尋ねた。


「うん。また見たいけど……初めて見たから、なかなかここまで来ないのかな。翠雨は見たことある?」

「あるよ。何度もね」指先で鯨の絵の輪郭をなぞり、「でも、綺麗だとは、あまり思わないかな」

「見慣れちゃったから?」

「うーん……まあ、それもあるかも」


 翠雨が記録帳から視線を上げ、遠くの海を望む。


「どんなものだって、ずっと見ていたら色褪せていってしまう。大切だったものは取るに足らないものになってしまうし、元々嫌いだったものは、一生ついて離れない呪いのように思えてくる」


 それからふっと嘆息し、


「かと言って、目まぐるしい変化は美しさどころか、周りの何をも見えなくしてしまう。何事も塩梅だと言ったらそこまでだけど……世界は難しいね」


 どこか諦めた様子で付け足したのは、鯨を美しいと思えていた頃への憧憬があってのことだろうか。——彼が再び美しさを実感する方法は、ないものか。


「……さっきね、鯨がお腹を見せてくれた時に、これが空にあったらもっと綺麗だろうな、って思ったの」


 私は色鉛筆の缶を開き、白系の並びに目を走らせた。水の中で見た鯨の腹の白は、空中にあったらどの色だろう。


 考えて、灰白色の色鉛筆を取る。それを彼方にある海と空の境界にかざして、


「うん。やっぱり映える」


 隣を見ると、翠雨が不思議そうな顔をしている。


「想像すればいいんだよ。見慣れたものも、違う場所で見たら新鮮に思えるし、角度を変えたら違うものに見える。この空にあったなら、見飽きた鯨もきっと新しいものに思えるよ」


 翠雨は少しの間を置いてから、「そうだね」と微笑んだ。「じゃあ、今度はそれを描いてよ」と記録帳を指す。


「それはダメだよ」

「どうして?」

「記録帳は、見えたものをきっちり記録するためのものでしょ?」

「少しくらい、違うものを書いてもいいんじゃないかな」

「ダメ。用途は守らないと」

「……君は、真面目だね」


 翠雨が少し困ったように肩をすくめる。それから「どうしてだろうなぁ」と独りごち、


「君は、世界の歩き方を知っているのに。……呼吸もままならなくて、歩くどころの話じゃなかったのかな」


 私が「なんの話?」と尋ねると、「ううん」と首を振って記録帳を閉じた。


「そろそろ、朝食にしないとね」


 そう言って彼が眺める海の彼方に、鯨の潮は見当たらない。


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