第8話 櫂谷紗凪
記録帳を渡された翌日。私は目覚めてすぐに日記を取り、手短に書き終えた。障子の近くに置いた記録帳と色鉛筆の缶を取り、縁側の縁に座って海を覗き込む。
この日は海が浅い日で、透明な水面のすぐ下に珊瑚礁が見えた。カラフルな小魚たちが、珊瑚の隙間を出たり入ったりしている。
私は記録帳の最初のページを開き、色鉛筆を取った。さっそく描こうとしたところで、
「紗凪! そんなに身を乗り出したら落ちてしまうよ!」
翠雨の悲鳴に近い声がこだました。
以来、記録帳を書くときは、縁側の縁から拳ひとつ分内側に座るよう心がけている。
今日の海は深い。水面の下は濃い瑠璃色で、底は暗くてよく見えない。底の方を巨大な魚影がゆったりと泳ぐ以外に動くものはなく、視覚的に静かで、壮大な何かを感じさせる。
私は横に広げた色鉛筆の缶から、マリンブルーの色鉛筆を取った。海を描くから当然のことだが、青系の色の減りが早い。
様々な青に持ち替えながら、今日の海を描いていく。そうしてどれほどの時間が過ぎた頃か、背後から「紗凪」と翠雨の声がした。障子を開け放ったままの部屋から歩いてくる。
「? そこから来るの、珍しいね」
何か理由があるのかな、などと考えながら言うと、敷居に立った彼が「食事の時間だよ」と部屋の奥を指した。
私は思わず「へ?」と声を漏らし、海の彼方を振り返る。鯨の潮は見えない。
「さっき呼んだんだけど、君、絵を描くのに夢中で全然気づかなかったからさ」
「えっ、嘘っ……ごめんなさい!」
私は叫び、急いで色鉛筆を片付ける。翠雨が少し困った様子で「そんなに急がなくていいよ」と言い、
「ねえ、紗凪。そのすぐ謝るの、やめない?」
私は缶の蓋を閉じながら、頭の中に声を聞く。
『お前が謝ったってなあ、何も変わらないんだよ!』
頭蓋骨を叩き割るような怒鳴り声。私は缶の上に閉じた記録帳を置き、次の叱責を待ちながら顔を上げた。
「これくらいの小さなこと、『気づかなかったわー』くらいでいいんだよ」
翠雨が言いながら近づいてきて、私の前にしゃがんだ。
「一度は、自分の正しさを信じてあげたら?」
「え?」
「食事の合図を沖の鯨の潮吹きにしたのも、君に記録帳をお願いしたのも、縁側のすぐ下の海の様子を書くように言ったのも、全部僕だ。海の中を覗いて集中したら、沖の水柱になんか気づけない」
「……でも、請け負ったのは私だから」
「未来予測なんか誰にもできない」
翠雨は僅かな間を置き、「神にだってね」と付け加えた。それから私の横の記録帳を一瞥する。
「絵を描くのは楽しい?」
「? う、うん」
「そっか」噛み締めるように、「よかった」微笑み、「食事は後にする?」どこか満足げな顔で尋ねる。
「ううん。今食べる。ごめ——」
ごめん、早く行かないと冷めちゃうよね。——言いかけた私は一度口を閉じ、
「……いつも、用意してくれてありがとう」
言うと、翠雨は「そっちの方が嬉しい」とやけに弾んだ声で返した。
*
眠りから目覚めて最初にやるのは、日記を書くこと。それが終わったら海を覗いて記録帳を書く。このときは集中し過ぎないように注意。海の彼方で白い水飛沫が上がったら、背後の部屋を入って、三つ目にある食事の部屋に行く。食事を終えたら縁側に戻り、また記録帳を書いて、合間に入浴をして、また食事をして、記録帳を書く。
ずっと縁側に横たわって海を見ているだけだった時間に、いつの間にかやることが増えた。
今日も私は手短に日記を書き、記録帳を開いて海を覗いた。今日の海は真っ暗だ。光が一切存在しないかのよう。不思議に思って顔を上げる。
空はいつもと変わらない。淡い青や紫、ピンク、赤、オレンジが混ざった、黄昏とも黎明ともつかない薄明かりの空。見渡す海はそれを映しているのに、縁側の縁から見下ろす近くの海は、空に光があることを忘れてしまったかのよう。
その代わりとばかりに、私の顔をくっきりと映している。長い焦茶色の髪の、同色の瞳の女。前に意識した時より明るい顔をしているのは、絵を描くのが楽しいからだろう。表情の分、少し若返ったように見えなくもない。
「若いのは……望ましい、こと?」
私はなんとなく独りごち、横の缶からミッドナイトブルーの色鉛筆を取った。
見えたままの海の姿を、画用紙の上に描いていく。真っ暗な海の色彩が出来上がったところで、左から赤い何かが流れてきた。
花だ。たくさんの細長い花弁が放射状にくっついている花。それが一輪、ガクから下がない首だけの姿で、目の前を左から右へ流れ去った。
私は少し考えて、海の絵の横に赤い花を描き添えた。色鉛筆をしまい、ボールペンを取り、今起きたことを文章で記す。
書き終えたところで、彼方からざばっと水飛沫の音が響いてきた。顔を上げると、ずっと遠くの水面から白い水柱が立っている。食事の時間だ。
私は記録帳を置いて立ち上がった。ふと、何の気なしに足元を見る。使い込まれた琥珀色の縁側の上には、古い日記と新しい日記のノートが二冊、ボールペン、色鉛筆の缶と、分厚い記録帳が置いてある。やることと同様、ここにある物も増えた。
敷居を跨いで薄暗い部屋へ入ってから二歩。思わず「あれ?」と独りごちた。
奥と左右の襖には、カラフルで鮮やかな花畑が描かれていたはず。それが真っ赤な彼岸花に姿を変えている。下半分には赤の地平、上には色褪せた夕暮れの空。
無意識にワンピースの後ろ姿を探す。ひとしきり目を動かしたところに、「あの人はまだいるだろうか」という思考が追いついた。それから思う。『あの人』など、ただの絵に何を思っているのだろう、と。
結局、女の絵は見つからず。諦めて食事の部屋へ向かおうとしたところで、奥の襖と左側の襖が交わる畳の上に何かが落ちていることに気づいた。——以前見つけた、首にかけるタイプのネームプレート。
近づいて見下ろすと、やはり写真と名前が書いてあった。私は以前と同じだと納得しかけ、
「いや……これ、私だ」
しゃがみ、手に取る。左側の四角い写真、そこに映る焦茶色の髪の女は私だ。入社したての頃の、これからに希望を抱く私。これは私の社員証。
右側の少し大きい文字——『櫂谷紗凪』——これは私の名前。私は櫂谷紗凪。櫂谷が名字で、紗凪が名前。私は櫂谷紗凪で、会社員。なんの仕事をしているかは、わからない。
だから翠雨は、私を『紗凪』と呼んで——
「どうだい?」
不意に背後から声。反射的に背中がグッと強張り、私はゆっくり振り返った。翠雨が立って、こちらを見下ろしている。縁側の方から差す光がその顔に深い陰を作っていて、しかし、空に似た色の瞳だけは鮮やかに見える。
「どう、って……?」
譫言じみた私の問いに、翠雨は「君は今、何を考えている?」と言いながらしゃがんだ。
「かん、がえ……」私は状況をうまく飲み込めないまま、「わ、私は、櫂谷紗凪」思い浮かんだそのままの言葉を声にする。
翠雨がじっとこちらを見つめる。青とも紫ともつかない瞳は凍ってしまったように止まっている。私はそこから目を離せない。
「そうだね。君の名前は櫂谷紗凪。他には?」
「え……」
「それを見て、何を考えた?」
「えっ、と……私は、会社員。会社で、この社員証をつけて、働いてた」
「うん。……他は?」
「他?」
「そう。名前と、会社で働いていること。それ以外」
「……仕事内容はわからないな、って思った」
翠雨が左の目元をピクリと動かす。
「『わからない』?」
「? うん」
「それだけ?」
「うん」私は反射的に頷き、「ダメ、かな?」自分が何か変なことを言っているのではないかと不安になった。彼がそれだけかと尋ねるのは、それだけではないはずだからかと思って。
しかし、翠雨は「ダメじゃないよ」と答え、私の手から社員証をそっと抜き取ると自分の懐へしまい、
「食事、嫌になった?」
どうにも脈絡に欠ける、不思議な問いを発した。私は話についていけず、口をぽかんと開けてしまう。
「食事は面倒? 意味のないことだと思う?」
続いた問いはやはりよくわからないものだが、とりあえず考えてみる。
食事の席で、彼は決まって一度だけ「味はする?」と尋ねてくる。私は毎回「美味しい」と答えるが、無味無臭の緩衝材を食べているような感覚は、最初の時から変わっていない。
膳に並ぶ皿を目にするたびに脳が想像する喜び——『美味しい』を感じることが食事の意義なら、私がしていることは意味のないことだ。しかし、最近の私は、鯨が潮を吹くのを楽しみにしている節がある。
食べることが楽しみなのではない。『食事』が楽しみだ。翠雨と向かい合って座る、そこに流れる空気を心地良く思う。皿がびっしり乗った膳は、「ここにいてもいい」という安堵を与えてくれる。
「嫌じゃない。面倒でも、意味なくもない。楽しみだよ、食事。最初は不思議だったけど、今は、あなたがやろうって言ってくれたことに感謝してる」
答えると、翠雨がふっと顔の力を抜いた。
「じゃあ、入浴は? 好きかい?」
「うん。温かくて気持ちいいし、体の緊張がほぐれる感じで……時々お湯に浸かったまま寝ちゃうのは、ちょっと、良くないと思ってるんだけど……」
「ふふっ。そうだね。溺れてしまったら大変だから、僕としてもそこは直して欲しいかな」
「……が、頑張ります」
「日記を書くのはどう?」
「日記は、あんまり好きとかじゃないけど……前にやったことを思い出すのに便利だから、書いておいた方がいいなと思う」
「記録帳は?」
「好きだよ。絵を描くのは楽しいし、書いたページが増えたのを見ると……なんだろう……達成感?みたいな、嬉しい気分になる」
翠雨は「そっか」と言って立ち上がると、「じゃあ、食事に行こう」とこちらへ手を差し伸べた。私はその手を取るか少し迷い、おっかなびっくり手を出してみる。彼が私の手を掴んで引き上げた。
「翠雨は、私の仕事内容知ってる?」
ふと尋ねると、彼岸花の襖を開けようとしていた翠雨の手が一瞬止まった。すぐに引手に指をかけ、開く。
「それはまだ早いかな。今は『櫂谷紗凪』だけ覚えていて」
私は手を引かれるまま、彼と共に奥の部屋へ。
「少しずつ、集めていこう」
その日以降、食事の味がわかるようになった。




