第7話 やりたいことと、やらなければならないこと
頭の中にスピーカーでも入っているような、あの声は一体なんだろう。本当に、最近になって私の脳みそにスピーカーが導入されたのだろうか。重さの変化を感じないほど小型で、重低音がしっかり鳴るタイプの。
そうなると、どこかにスピーカーの持ち主がいることになるが——翠雨が私の頭の中を勝手にいじるはずがないし、私自身にスピーカーを入れることは不可能。つまりスピーカーが入っているわけではない。
どのような仕組みであの声が鳴り、あれは誰の声で、何を言っているのか。私には何もわからない。だから声のことを考えても仕方がないのに、私はずっと考えている。
食事の時に聞いた、男の声。
『この出来損ないが! 小学生にもなって箸もまともに持てないのか!』
おそらく、箸を使うのが下手な小学生に親が放つ設定の言葉。これが私の頭の中の声でよかった。本当にこれを言われた小学生がいたら傷ついているだろうし、私も悲しい。
それから、脱衣所で聞いた、女の声。
『あんた、本当にセンスないわね。一体誰に似たんだか……恥ずかしいからもっと離れて歩いてちょうだい』
誰に似たんだか、ということは、これもまた親が子に言っているものだろう。服や何かのセンスがない我が子を突き放す言葉。
『まさか子育てがこんなに面倒くさいものだとは思わなかった』
子供としては「ここに生まれたいです」と挙手をして生まれたわけではないのに、こんなことを言われるのはあんまりだ。
『本当にあんた、何をするにも要領悪いわね。これくらい自分でやりなさいよ』
何をもって、要領が悪いなのだろう。
『普通にしなさい! わかる!? 普通よ、普通。親に手間かけさせるなってこと!』
その『普通』を、声の主は教えたのだろうか。教えて、練習に寄り添って——そうしたとして、誰もが全てをできるようになるわけではない。
この声は翠雨に聞こえていないようだから、私だけが認識したものだ。私が話さないでいればないのと同じ。誰もこれを言われていない。
実際にこれを言われた子供がいたならば、その子は酷く悲しい思いをすることだろう。自分はここにいてはいけないのではないか。自分は消えるべきなのではないか、と。
しかし、その子供は実在しない。だから「良かった」の一言で終わるはずだが、なぜか私は考え続けている。脳が勝手にぐるぐる動き続ける感覚だ。悲しい気持ちが生成されて、身体中に満ちていく。
考え続けてかなり長い時間が経った。日記を確認してみると、初めて入浴をした日から十二日が過ぎたことがわかった。こういう確認をしたい時のために、翠雨は日記を書くように言ったのだろうか。
あれ以来、入浴は一日に一回、必ず行っている。時間は特に決めていない。翠雨に「気が向いたら入って」と言われたからだ。
私は本当に思いつきのまま入浴へ向かうが、棚には必ず着替えとタオルが入っていて、浴槽はお湯で満たされている。着替えはやはり浴衣で、二回目以降、私はそれを自分で着ている。着付けを一回で覚えられて良かった。
目が覚めたら日記を書くこと。沖で鯨が潮を吹いたら食事に行くこと。眠りと眠りの間に一回、入浴をすること。この三つが、私がやるべきことになった。
*
声のことを考え始めて二十一日目。私が日記を書き終えたタイミングで「おはよう、紗凪」と現れた翠雨は、大きくて分厚い本のようなものを抱えていた。
「君にお願いしたいことがあるんだ」
真剣な顔で差し出してくる。本の上には百色の色鉛筆セットの缶が乗っている。私がひとまず受け取ると、「それは記録帳だよ」と話し出した。
「ここから見える海の中のことを、絵と文字で記録して欲しいんだ」
縁側の縁を指差し、
「その辺りから覗いて、見えた魚や海藻、珊瑚、海の色とか、君が気づいたことを書く。日に何回書いてもいい。多い方が嬉しいかな」
それから「できそう?」と尋ねてくる。私はすぐに頷いて、色鉛筆と記録帳を確認する。
色鉛筆は新品で、同じ形に削られた先端が規則正しく並んでいる。消しゴムと鉛筆削りは缶の端に収まっている。
記録帳は大型の学習図鑑くらいの大きさと重量。淡い菖蒲色のハードカバーで、柔らかい白の画用紙が束ねてある。紙の表面に細かな凹凸があるから、色鉛筆を使うのに適しているだろう。
彼は「絵と文字で」と言った。文字は、日記で使っているボールペンで書けばいいか。
「絵と文字はどれくらいの比率にすればいい?」
私は二つを脇に置きながら問いを発した。瞬間、頭の中で声。
『それくらい自分で考えろよ』
男の声だが、食事の時に聞いたものとは違う。それより少し若い、嘲りで満ちた声色。聞いた瞬間、なぜか心臓がバクバクと早鐘を打ち始めた。私には関係ない、聞いたことのない声なのに。
「それは君に任せるよ」
翠雨が微笑んだ。私はこの言葉を鵜呑みにしない。実際は任されていないことを知っているから。
これをやってほしい——そう言う人の頭の中には、完成形のイメージがすでにある。私がやるべきは、それに合ったものを作ること。任されたと思って好きにしてはならない。
「でも、『記録帳』ってことは、記録するべきことが決まってるでしょ? 図鑑みたいにするのか、写真集みたいにするのか、方向性を知りたいんだけど……」
また、声。
『そこまでいちいち説明しないとわかんない?』
嘲りに苛立ちを纏う男の声。翠雨を見ているから彼の声のように聞こえて、声と視覚情報の落差に頭が混乱する。
「えっ、と……」
余計なことを言ってしまった。自分で判断すべきことを尋ねてしまった。謝罪と、訂正を——
「も、申し訳、あり——」
翠雨が「決まっているけど、決まってないかな」と私の言葉を遮った。微笑みの端に僅かな緊張が走る。
「記録帳の『記録』は、君の目に映って、君の意識にとまったものの記録の意味。だから、文字で説明した方がいいと思ったら文字で、絵の方がよかったら絵で、って感じ。そういう意味での『任せる』だよ」
耳では彼の穏やかな声を聞きながら、次はどんな罵詈雑言が頭にこだまするかと身構える。しかし頭の中の声はしなかった。翠雨が「他に気になることはある?」と尋ねてくる。
「ううん。大丈夫。……余計なこと聞いて、ごめん」
私はいたたまれない気持ちで頬を掻いた。翠雨は少し困ったような顔で、
「ずっと、そうやって生きてきたのかい?」
不思議な問い。私が疑問符を浮かべると、海のずっと遠くを眺めて、
「『普通』って奇妙だよね。人間たちが考えるそれは各々違って、同じことを考えている者は誰一人存在しないのに、皆が同じ理想を抱いていると思い込んで、『普通』じゃないと思ったものを非難する」
それからこちらを向き、「人間って難しいね」と付け足した。




