第6話 新しい服 -2
いつもの縁側から屋敷に向かって右側へ進み、角を曲がる。以前食事の部屋の位置を確かめようと覗いた時も思ったが、どうやらこの屋敷は周り全てに縁側が繋がっている様子。
左側に障子の羅列を見ながら長い琥珀色の板の上を進み、翠雨が一番奥の障子を開けた。中はやはり、十畳ほどの薄暗い和室。
そこを通り抜け、次の部屋へ。他の部屋と広さは変わらないが、奥が壁になっていて、木の引き戸がついている。翠雨が「ここだよ」と言って開けた。
天井全てが外のような淡い光を放つ、明るい脱衣所。ねり色の土壁で、戸棚や床は茶色の木製。全体的に温かい印象の空間。
「脱いだ服はこのカゴに入れておいて。着替えとタオルはここに入っているから」
翠雨は手短に説明を終えると、「ごゆっくり」と言い添えて脱衣所を出て行った。私はパタパタと遠のく足音を聞きながら、シャツのボタンを外しにかかった。
脱衣所の奥の引き戸を開けると、檜のような木の香りを纏う湯気が溢れ出した。入って戸を閉め、中を一望する。
天井が高く、広々とした浴室。壁や床は白と青が混ざった不思議な石でできている。浴槽は温泉宿の大浴場なんかでよくある、床に埋め込んだようなタイプ。縁が木製だ。湯気の香りはここからきているのだろう。
私はシャワーで軽く体を流し、浴槽へ近づいた。てっきり中も木製かと思いきや、木でできているのは壁面だけで、底には鮮やかな瑠璃色の石が敷き詰められている。それを反射した光によるものか、お湯が青く輝いて見える。
足先で湯温を確認し、そっと入る。溢れたお湯がサーと音を立てて床に広がった。
温泉、ということは、海の真ん中だからさすがにないか。しかし、ただの水を沸かしたものではないように思う。お湯が体に触れる感触は少しとろっとしていて、温かくて柔らかいものが体に染み込むような心地だ。
「気持ちいい……」
思わず独りごち、湯船の縁に頭を預ける。やけに明るいと思ったら、ここの天井も脱衣所と同じ仕様だ。直視しても目がチカチカしない。食事の部屋の円窓に似ている。
考えてみると、ここには強い光が存在しない。空も、それを反射する海も、この天井も、優しい光でできている。私は目の奥を焼くような鋭い光が嫌いだから——
「あれ?」
ここまで考えて、疑問。
「ないのに、なんで嫌いなんだろう」
——想像、したのだろうか。いつだったかそんなものを空想して、それは嫌だなと思って、いつからかそれが存在すると思い込んでいた。
「ダメだな……あんまり、変なこと考えないようにしよう」
頭を空っぽにして、ぼんやりと。漣の音を聞きながら静かに、穏やかに過ごす。それが一番いい。
「リラックス、リラックス……」
考えながら目を閉じて、体を包む心地いい温度へ意識を向ける。瞼の向こうに微かに感じる光もまた、温かいものに思えてきて——
「紗凪、大丈夫?」
引き戸の向こうで響く翠雨の声に、自分が眠っていたことに気がついた。驚いて頭を上げるとお湯がバシャっと音を立てて、「紗凪!?」と彼の焦った声。
「だ、大丈夫! ちょっと寝てただけ!」
戸へ向けて声を張ると、翠雨がホッと息をつくのが聞こえて、
「溺れないように気をつけて」
足音が向こうへ去って行った。彼が様子を見に来るとは、私は一体どれほどの時間、寝こけていたのだろう。
急いで体と髪を洗って浴室を出た。ここに鯨の潮の音は届かない。きっと私は食事の時間を見逃して、だから翠雨は来たのだろう。
教わった棚からバスタオルを取り出して体を拭いていく。柔軟剤だろうか。爽やかな花の香りがする。
それからガシガシと髪を拭いて顔を上げたところで、私は重大な問題に気がついた。
「着替えって……これ、だよね?」
タオルが置いてあった棚の横に、几帳面に畳まれた布があり、その上に下着が乗っている。翠雨がなぜ私の下着のサイズを知っているのか、という謎もあるが、今重要なのは布の方。
浴衣だ。白地に濃紺の蝶が描かれている。帯はラズベリー色の無地。——もちろん私に着付けの知識などないし、そもそも浴衣を着たことがない。
「どうしよう……」
ひとまず下着をつけて、浴衣に袖を通してみる。ガウンを羽織ったような状態。前を合わせて帯でとめればいいのだと思うが、それにしても丈が長い。『引きずる』の次元を超えている気がする。これは一体、どうすれば。
「そういえば、折る?とかなんとか……」
無意識に呟き、裾を持ち上げた瞬間。
頭の中で声がした。
『あんた、本当にセンスないわね。一体誰に似たんだか……恥ずかしいからもっと離れて歩いてちょうだい』
嘲笑と軽蔑が混ざった、女の声。罵詈雑言が続く気がしたが、これ以降何も聞こえない。
「これ、初めて食事をした時も……なんだろう……?」
不思議に思いつつ浴衣との格闘を再開したところで、部屋へ続く引き戸の向こうから「紗凪、もう出たかい?」と翠雨の声がした。
「う、うん。今、服着てるとこ」
慌てて声を張ると、「そっか」と返事。足音は聞こえて来ない。
私は横の洗濯カゴを見下ろした。空っぽだ。さっきまで着ていた服は翠雨が持って行ったらしい。彼が洗濯をするのか、という問いは後回し。
服の着方がわからない、などと言ったら、彼はどんな反応をするだろう。怒るだろうか。蔑むだろうか。こんなことも知らない、できない、出来損ないだと。
考えて、考えて、考えて。ふと、いつかの翠雨の言葉を思い出した。
「僕が『書いてないよ』って言ったら、『ノートをくれないのが悪い』って言えばいい」
もうこれでいくしかない。怒られるのは仕方がないとして、怒って着方を教えてもらえなかったら、「あなたが浴衣を用意したのが悪い」と食い下がる。
私は大きく深呼吸をして、羽織った浴衣の前を合わせて掴み、少しだけ戸を開けた。
「ね、ねえ、翠雨」
隙間を覗くと、横の壁に寄りかかっていた翠雨が「うん?」と背中を浮かせた。私はもう少しドアを開けて顔を出す。
「あ、のさ……浴衣の着方が、わからなく——」
不意に彼が「ン゛ンッ!」と咳払いのように喉を鳴らして勢いよく横を向いた。首が痛くなりそうな動き。
「ごめん、本当に。手間かけさせちゃうんだけど、できたら、着方を教えて欲しくて……」
私は話しながらさらにドアを開ける。翠雨が横を向いたまま前に立ち、戸をガシッと掴んで止めた。口にギュッと力を入れている。
——これは、着られるまで出てくるなということだろうか。みっともない姿を晒すな、と。見るに堪えない、と。
「本当に、変なお願いしちゃって悪いと思ってる。でも、その……ふ、普通の服なら、着れるけど、これは、わかんなくて……」
用意しておいた言葉が、いざとなったら出てこない。そんな自分が情けなくて、自然と視線が下がっていく。翠雨の着物の綺麗に巻かれた帯が見えたところで、頭の上から「ごめん」と彼の声。
「え?」
顔を上げると、彼が片手で口元を覆っている。横目にこちらを一瞥して、
「僕の考えが足らなかった。君に似合いそうだと思って選んだんだけど……そうだよね。浴衣の着方なんか、わからないよね」
語尾がボソボソと尻すぼみになって消え、またチラッとこちらを見てから、
「着付けは、その……君が嫌でなければ、僕がやるよ」
「いいの?」
「もちろん」
「面倒なこと頼んでごめんね。ちゃんと見て覚えるから」
頭の中に声。苛立った女の声。
『まさか子育てがこんなに面倒くさいものだとは思わなかった』
翠雨が「面倒じゃないし、『ごめん』は要らない」と横を向いたまま、
「とりあえず……もう少しちゃんと、前閉じといてもらえるかい?」
言われた私は体を見下ろす。胸元ばかりに意識が向いて、浴衣の下の方がめくれて右の太ももが覗いているのに気づかなかった。
頭の中に声。
『本当にあんた、何をするにも要領悪いわね。これくらい自分でやりなさいよ』
私は慌てて浴衣を掴み、脚を隠した。下を向いたまま固まっていると、カラカラと戸がゆっくり開く音がする。翠雨が開けているのだろう。
また、声。
『普通にしなさい! わかる!? 普通よ、普通。親に手間かけさせるなってこと!』
なぜだろう。知らない人の、私に関係ない声なのに、胸の奥が酷くざわめき立つ。何かをしなければ。ちゃんとしなければ。自分のことは、自分で——
「……ご、ごめんなさい」
半ば反射的に謝ると、翠雨が「君は……」と言い淀み、
「そうやって、生きてきたのか」
何かを諦めたような、悲しげな声で呟いた。




