第5話 新しい服 -1
翠雨が縁側にいる時間はさほど長くなく、規則性もほとんどない。一日の始まりには日記を確認するために必ず来るが、そのあとは一緒に海をしばらく眺め、「またね、紗凪」と言って去っていく。
今日もやはり、私が目覚めて少ししてから「おはよう、紗凪」とやって来た。ここにいるのは私と彼だけなのでわざわざ名前を呼ぶ必要などないように思うが、彼は決まって挨拶の後に『紗凪』をつける。
いつも通り日記を確認して、寝そべる私の頭側に座って海を望む。透明な水面を反射した光が彼の瞳に反射する様は、空を漂う薄雲を連想させる。
今日はいつもより長くいる気がする。体感だから、私がそう思うだけかもしれないけれど。
「ねえ、紗凪」
翠雨がこちらを向いた。
「何?」
尋ねると、「あー」と言いながら視線を逸らし、「やっぱり、なんでもないや」と海に向き直る。それから少しして、
「紗凪、あのさ」
また翠雨がこちらを向いた。
「うん?」
私もまた彼を見上げる。彼は「いや、後でいいや」と言って縁側の縁に視線を落とした。
どうやら何かを言うのを迷っている様子。だからいつもより長くいるのか。そんな悩ましげな顔をしないで何でも言ってくれればいいのに、と思うが、こういうのはその人のテンポというものがあるだろう。
気遣いは要らないから言ってみて、と声をかける選択肢はある。ただ、私個人としてはあまりいい方法と思えない。言われて「はいそうですか」とすんなり話し出す人は言わなくても話し出す気がするし、話せない人にとってはプレッシャーにしかならないと思うから。
だから私は何も言わず、広大な海へ視線を戻した。近くの水面がキラキラと輝いて、小魚が一匹、ぽちゃんと跳ねる。
「あのさ」
それを合図にしたように翠雨が口を開いた。
「その……ほら、僕は男性の姿をしていてさ、君は、女性じゃないか」
「? うん」
「だから、ええっと……僕からこういうことを言うの、君にとっては不快かもしれないんだけど……」
「……うん……?」
気まずそうに俯いていた翠雨が、パッと顔を上げてこちらを向く。
「そろそろ、お風呂に入ってみるのは、どうかな……?」
勢いよく話し出すも、声はみるみる尻すぼみになっていった。少しの間を置いて、消え入りそうな声で「もう大丈夫だと、思うんだ」と付け足す。
食事の時もこう言っていたな、とか。これを言えずにずっとモジモジしていたのか、とか。簡単な感想は私の中をすり抜けて、頭の中にデカデカとした『風呂』の文字が居座る。
『風呂』——もちろん、私はこれを知っている。しかし食事と同じく、自分のこととして考えたことがなかった。
『風呂』——浴室に行って体を洗うこと。洗うとはすなわち、汚れを落とすこと。体の汚れとは垢だったり、汗だったり、そのままにしておくと悪臭を放つもの。風呂を勧められるということは、その汚れを落とすべきというわけで——
「私……」彼の真似をするわけではないが、私もまた消え入りそうな声で、「く、臭い?」恐る恐る尋ねた。なんとなく居心地が悪くて「ごめん、全然思いつかなかった」と続ける。
「お風呂は、知ってたんだけど、自分がやるべきことだと思わなくて……よく考えたら、そうだよね。ずっとお風呂に入ってないと……」
臭くなるよね、までは恥ずかしくて言えなかった。彼と距離を取るべきだと思い、身を起こす。
翠雨はポカンとした顔で固まって、私の言葉を聞いていた。私が少し横にずれたところで、「違うよ!」と声を上げて腕を掴んでくる。
「そういう意味で言ったんじゃない! 『ごめん』は言わないで!」
「いや、でも……いいよ、気を遣わなくて」
「本当に違うってば!」
「言い訳だけど、自分の匂いって、なかなか気づけないから……」
「紗凪、聞いて!」
翠雨が私の両肩をガシッと掴んで顔を近づけてくる。なぜか私の方が息を止めてしまった。
「ここに代謝は存在しない!」
「……へ?」
「よく考えてみて。君、今までトイレに行ったことある?」
「? ……ない、けど、それは——」
「出すものがないからじゃないよ。君は最近食事を始めただろう?」
「あ、そっか」
「ここは時間が止まっているから、君はずっと清らかなままだよ」
「いや、『清らか』って——」
「つまり臭くなんかないし、臭くなったりしないってこと!」
翠雨が語気を強めて「わかった!?」と尋ねる。勢いに気圧された私が頷くと、ホッとした様子で嘆息して手を離した。
「僕が言いたかったのは、『お風呂に入る』をやってみないか、ってこと。日記や食事と一緒だよ。必要だからじゃなくて、日々に組み込んでみようって話」
「なる、ほど……?」
「それでどう? お風呂、入れそう?」
「う、うん」
翠雨が「よかった」と微笑んで、「じゃあ、準備をしてくるよ」と言って立ち上がった。屋敷の方へ歩き出そうとするのを、私は着物の袖を掴んで止める。
「時間が止まってるっていうのは、変じゃない?」
尋ねると、彼が不思議そうな顔で振り向いた。
「どうしてそう思うんだい?」
「確かに空も海も変わらないけど」私は琥珀色の床の上の日記を一瞥し、「私は昨日から今日に来て、いずれ明日に行く」
翠雨が「ああ、それはね」と言いながら隣に座った。
「『停止』の中での動きだよ」
「……どういうこと?」
「エンジンをかけたまま停まっている車のような感じ」
「う、ん……?」
「車体は停止しているけど、エンジンはずっと回っているだろう? ここで言う車体は世界で、エンジンは君の意識。意識は時間を超越するからね。でも、体は世界に置かれているから」
彼の説明はわかるようで、よくわからない。私は質問をしようと口を開きかけたが、考え直してやめた。
ともあれ、要するにこれは焦らなくて済むということ。それだけで安心だ。それ以上を知ったところで何になるわけではないし、説明の労力をかけさせてしまうのは気が引ける。
「わかった。教えてくれてありがとう」
私は着物の袖から手を離す。翠雨が「準備ができたら呼びに来るね」と言い残して屋敷の中に消えた。




