第4話 そうやって生きてきた
目を開けると、視界いっぱいに境界の空の色が広がった。淡い青と紫が多く、隙間に薄いピンクが流れている。少し頭を動かすと屋敷の屋根が映り、自分が仰向けに横たわっていることを知る。
いつも横向きで眠りにつくが、起きると必ず仰向けになっている。寝ている間に寝返りを打つのは普通のことだが、海に落ちてしまわない理由はわからない。
うつ伏せになり、頭の先のノートに手を伸ばす。手繰り寄せたところで、最後のページを昨日使い切ったことを思い出した。厚紙の裏表紙をめくると、最後の行に『今日の味噌汁の具は油揚げとネギだった』の文字。
一冊目が終わる時は、その数日前に翠雨が新しいノートをくれた。二冊目が終わった今、私は新しいノートをもらってないし、必要だと伝えていない。
少し考えて、裏表紙の上の方に昨日の分を書くことにした。ツルッとした厚紙にボールペンが滑ってあさっての方へ行かないよう、気をつけながらペン先を動かす。
『今日最初に食べた食事のメインは焼き鮭、次は肉じゃが、最後は鯵の塩焼きだった』
インクが乾くのを少し待ってからノートを閉じて、海を向いて寝そべる。少しして、翠雨が「おはよう、紗凪」と言いながら近づいてきた。
「これ、新しいノート」
そう言って差し出されたノートを私は「ありがとう」と受け取り、使い切ったノートの上に置いた。隣に座った翠雨が不思議そうな顔でそれを見下ろす。
「昨日の日記はもう書いたのかい?」
「うん」
「もう書くところがなかったと思ったけど」
「裏表紙のところに書いた」
「あれま。新しいのを渡すのが少し遅かったね」
翠雨は言いながら、古い方のノートを取って開く。
「僕が持って来るのを待っていればよかったのに」
「なくなったって伝えてなかったから」
「前の時は持って来たから今度も同じように、とは思わなかった?」
「うん」
私は頷き、少し考えて、
「起きたら日記を書くって決めてるし、書くのはあなたとの約束で、ノートがなくなったのを伝えなかったのは私だから。できる範囲でやったんだけど、そこに書いたらまずかった?」
裏表紙の一行に視線を落としていた翠雨が、こちらを向く。
「僕が『書いてないよ』って言ったら、『ノートをくれないのが悪い』って言えばいい」
「でも、私はちょうだいって言ってない」
「君に日記を書くように言ったのは僕だよ。必要なものを用意するのは僕の役目」
「それは、そうかもしれないけど……」
翠雨は困ったようにため息をつき、「そうやって生きてきたのかい?」と尋ねた。また不思議な質問。私が眉を上げて疑問符を示すと、ノートをパタリと閉じる。
「自分に足りなかったことばかり見て、誰かのせいにすればいいのに、一人で抱えて一人でどうにかしようとする」
「これ、そんなに深刻なこと?」
「日記は深刻じゃないよ。でも、君の習性は深刻かも」
私は少し考えて、
「ごめん、よくわかんない」
言うと、翠雨は「ここでは、『ごめん』は要らないよ」と微笑んで日記を置いた。
*
『食事』というものは、一日三回、朝と昼と夜にとるもの。しかしここには昼も夜もない。朝もあるか微妙なところで、明け方か夕暮れかわからない空が続いている。
日記と同じく食事も継続的に行うことを翠雨は提案してきたが、やはりそのタイミングについては考えていなかったらしい。私がこのことを指摘すると、「そうだね」と言って少し黙った。
「じゃあ、鯨の潮吹きを合図にしよう」
それから、海の遥かを指差して、
「向こうに白い水柱が上がったら食事の時間。この前の部屋に来て」
「この前の、部屋……」
私が緩慢なおうむ返しをしてしまったのは、『探検』の記憶があったから。屋敷の部屋が流動的なら、この前の場所にあの部屋はない。
「いき方を忘れちゃった?」翠雨は背後の部屋を指し、「ここから入って三つ目の部屋だよ」私の記憶にある部屋の場所と同じことを言った。
果たして、あの部屋は変わらずそこにあるのか。最初に食事をした日の翌日、私は不安に思いつつ、鯨の潮吹きを見てから屋敷に入った。三つ目の部屋は確かに、他より手狭で円窓のある部屋だった。二つの膳が置いてあり、翠雨は片方の前に座って待っていた。
そうして、私の時間に『食事』が加わった。眠りと眠りの間——一日の間に二回の時もあれば、三回の時も、四回の時もある。
ずっと海から目を離さないでいるわけではないが、鯨の潮吹きは大きな水飛沫の音を立てるため、気づかないことはない。
縁側で仰向けになって空を眺めていた私は、水飛沫の音に振り向いた。透明な水鏡の彼方に、白い柱が立っている。本日二度目の食事の時間。
あの下にはどんな鯨がいるのだろう、と考えながら起き上がり、開け放たれた障子を通って薄暗い室内へ。
色とりどりの鮮やかな花畑が描かれた襖に、なんとなく以前見た人間の絵を探す。確か奥の角にあったな、と思ったが、そこには白いヒナゲシの絵があるだけだった。
不思議に思って見回すと、障子側の襖の下の方に、チェック柄のワンピースを着た女の後ろ姿を見つけた。膝丈の裾が風で膨らんでいて、鍔の広い麦わら帽子を真っ白な手で押さえている。
こんな絵だっただろうか。思わず首を捻り、なんとなく近づいてみる。女性の周りの青い花が勿忘草だと気づいたところで、手前の畳に何かが落ちているのに気がついた。
「カード?」
紐がついたプラスチックのケース。中にカード状の何かが入っている。私はそれを手に取らず、近くにしゃがんで見下ろした。
左上に書かれているのは、末尾に『株式会社』とあるから会社の名前だ。その下には真正面から人を写した写真がついている。胸より上。顔をここに示すのが目的。
「これ……私、かな?」
焦茶色の長い髪の、同色の目をした若い女。顔貌は私だが、目には生気があって、暗くない。凛々しい、と言うのだろうか。何かを成し遂げる、みたいな何らかの意思がある目。
よく似ているが別人だ。私はこんな顔をしないし、歳も若干若い気がする。
写真の横には少し大きめの字で『櫂谷紗凪』とあり、その下に小さなローマ字『KAITANI SANA』が添えられている。『さな』——翠雨が私を呼ぶのと、同じ名前。
「この人と似てるから、『紗凪』って呼ぶのかな」
ともすると、これは翠雨の持ち物ということになる。拾って届けるか、と思って手を伸ばすが、触れる直前で考え直してやめた。
もしも彼が彼女を思い出して私を『紗凪』と呼ぶのなら、彼女はもう彼の近くにいないということ。永遠に会えないのか、どこかへ行っているだけなのかは判断がつかないが、とにかく遠いということは確かだろう。
そして、赤の他人にその面影を重ねてしまうほど、彼にとって彼女は大きな存在であるということ。——下手に触れない方がいい。ここから物が消える心配はないし、屋敷は大きいが有限だから、彼が探せばいつか見つけるだろう。
私は立ち上がり、食事の部屋へ向かうべく踵を返した。ふと視界に違和感を感じて振り向くと、勿忘草の花畑から、女の姿が消えていた。




