第3話 食べ物の味
今日も私は日記を書く。二冊目のノートは残り三ページになった。いつもと同じ一文を書き、ノートを閉じて海を向く。しばらくすると、近くでポチャっと水が跳ねる音がした。
初めて聞く音だ。起き上がって縁側の縁を覗いてみる。透明な水面の奥で銀色の光がキラキラと輝いていて、最初、光の潮流かと思った。よく見ると小魚の群れが泳ぎ去るところ。流れから飛び出した一匹が水面を尾鰭で蹴って、急ぎ仲間の元へ戻っていく。
小魚が去った後、水面に広がっていた波が凪ぎ、透明の水鏡に私の顔が映った。二十代半ば。陰鬱とした焦茶色の長い髪をしていて、同じ色の瞳にはくたびれ果てた陰が落ちている。
日記を書くのはそんなに大変なことかな、などと考えながら顔を上げたところで、「ねえ、紗凪」と翠雨が声をかけてきた。いつからそこにいたのか、開け放った障子の横に立っている。
「そろそろ、食事をしてみるのはどうかな」
私はその問いに意表をつかれた。どう答えたらいいのかわからない。
もちろん『食事』は知っている。しかし、それが自分に関係するものとは思っていなかった。これは受け入れるべきか、拒否するべきか——必須でないことは、やらなくていいか。
「ええっと……」
私がなんと断るか考えていると、翠雨が「もう大丈夫だと思うんだ」と言いながらこちらに来て私の手を取った。「行こう」と軽く引く。私は言われるがまま、彼と一緒に屋敷の中へ入った。
最初に入った部屋は、十畳くらいの何もない部屋。縁側との境は障子になっていて、横と奥は襖。襖には、鮮やかな花畑の絵が描かれている。
翠雨が奥の襖を開けて、次の部屋へ。そこも広さは十畳くらいで、四方が襖。豊かな森の絵が描かれている。どちらの部屋でも、見渡すと、襖の片隅に小さな人間の絵を一つだけ見つけた。
次の部屋はここまでより二回りほど小さく、襖には真っ白な雲が泳ぐ青空の絵が描かれている。入って左側は壁になっていて、真ん中に障子紙が貼られた円窓が一つ。向こうから光が差し込んでいる。
ここまでの部屋を考えると、円窓の向こうが外なのはおかしい気がする。私は首を傾げつつ円窓に近づいて開けてみた。ほんわりとした光が満ちているだけで、外の景色は見えない。
不思議に思って触れようとしたところで、「朝食、これでいいかな?」と翠雨が尋ねた。振り返ると、彼は私のすぐ後ろに立っていて、部屋の真ん中に置かれた膳を指している。——この膳、部屋に入った時は見なかった。
私は膳の上に意識を向ける。頭の横でパタっと音がした。円窓を閉めた翠雨が、「嫌いな食べ物はある?」と私の手を引きながら尋ねる。私たちは膳の方へ。
彼と向かい合う形で座り、目の前の膳を見下ろす。
ツヤツヤの白飯、豆腐となめこの味噌汁、皮目にこんがりと焼き色がついた鮭の切り身、みずみずしいだし巻き卵、ほうれん草の胡麻和えと、横にあるのは、カブとキュウリの浅漬けだろうか。
見た瞬間、美味しそうだと思った。変なの。私は食事などしたことがないのに。何かを口に入れたことさえないのに、これを咀嚼して飲み込んだ時の幸福を脳が勝手に想像する。
「多分、全部好き」
言うと、翠雨は安堵したように微笑み、「食べよう」と箸を取った。
食事は静かに進んだ。驚くべきことは、私が箸の持ち方も鮭の骨は食べられないことも知っていたこと。知らないはずなのに知っている。この屋敷が教えてくれたのだろうか。
「これ、僕が作ったんだ」
半分ほど食べたところで翠雨が言った。私は「上手だね」と返す。本当は他の料理など知らず、これが上手いのか下手なのか判断がつかないけれど。
「どう? 味はする?」
この問いには「美味しい」と答えた。実際はよくわからない。
無味無臭の緩衝材でも口に入れているような心地だ。脳が想像した幸福を、一口食べ進めるごとに現実が打ち消していく。しかし私は『美味しい』と答えるべき。せっかく用意してくれたのだから。
と、思ったわけだが、
「そっか」
翠雨はそう言うと、しょぼっと萎んだ笑みを浮かべた。彼はどこまで気づいて、何を考えているのか——私の返答は食事を用意してくれた人に対する最適解のはずなのに、なぜ彼は落胆した様子なのだろう。
「本当に、美味しいよ」
私の無意味なダメ押しをもって会話は終了し、また静かな食事が進む。壁の向こうから微かな波音が届く室内に、箸が皿に触れる音と、椀を置く音だけが響く。
私が箸先で鮭の小骨をつまんで皿の端に置いた時だった。
「紗凪は、箸の持ち方が綺麗だね」
翠雨が言った。本当にそう思ったから言ったのか、沈黙に耐えかねて目についた話題を振っただけかはわからない。どちらにしても私はすぐに返事をするべきだが、できない。
頭の中に声が響く。
『この出来損ないが! 小学生にもなって箸もまともに持てないのか!』
内側から頭蓋骨を叩き割るような、知らない男の怒号。何かを何かに打ち付ける音が続いた。瞬きをする刹那、ここではない何かが見えたような、見えなかったような。
突然のことに、私は卵焼きを切ろうとする手を止めた。物音の後には何もなく、視界は良好。微かな漣の音が聞こえる。
「えっ、と……」いつの間にか強張らせていた背中に、暑くもないのに汗が伝った。「そう、かな? 他を知らないから、よくわかんないや」
瞳が標本箱に磔にされたように動かない。どうにか少しだけ動かして、翠雨の手元を視界に入れる。
「あなたも、綺麗だよ」
彼はまた「そっか」と応えた。どんな顔をしていたかは、わからない。
*
食事を済ませた私は、元の縁側へ戻った。今度眠って目覚めた時の日記には『今日は食事をした』と書けるな、などと考えながら琥珀色の床に横たわる。
景色は変わらず。どこまでも続く水面が、淡い暖色と寒色が混ざる空を映している。柔らかい光が満ちているが、光源はどこかわからない。景色全体が光を放っているように見える。
ぼうっとして過ごすこと、しばらく。薄い眠気を感じて『今日』の終わりを思ったところで、ふと、食事をした部屋の丸窓を思い出した。
手前にあった二つの部屋は左側が襖になっていて、室内は薄暗く、隙間から差し込む光は見えなかった。つまり、左隣に別の部屋があったということ。
私は起き上がり、背後の屋敷を見てみる。すぐ近くの障子は開いているが、横に続くものは閉じている。その数を鑑みるに、左右に二つほど部屋が並んでいてもおかしくない。
あの丸窓の光はなんだったのだろう。あの場所だけ屋敷がくびれているのだろうか。
考えながら起き上がり、縁側の突き当たりまで歩いてみる。直角の角を曲がると、見慣れた琥珀色の床がずっと先まで続いていた。
元の場所へ戻り、開いている障子のすぐ隣を開ける。部屋があった。やはり十畳くらいで薄暗く、家具一つない部屋。なんとなく足音を潜めて入ってみる。
左右と奥が襖になっていて、どこかの公園の絵が描かれている。少し錆びたブランコ、砂場、数多の棒が数多の立方体を成す名称不明の遊具、ポツンと立つ街灯、その下のベンチ。
奥の部屋へ進もうとしたところで、引手のすぐ下に猫の絵があることに気がついた。黒くぼんやりとしたシルエット。黒猫の絵というより、猫の影といった様子。
襖を開けて次の部屋へ。ここもやはり十畳ほどの広さだ。丸窓のことを考えるとこの先に部屋はないはずだが、奥も左右も襖になっている。私はなぜか少し緊張しながら部屋を進み、奥の襖に手をかけた。
「あれ?」
口では疑問符を奏でつつ、頭の奥では「やっぱり」と思う。食事の部屋の左隣に位置するそこは、他と同じ薄暗い部屋になっていた。右側——丸窓があるはずの場所は襖になっている。
恐る恐る開けると、やはり向こうには薄暗い部屋。ここまで思い浮かべてきた屋敷の間取りが瓦解した。どういうことだろう、と考えながら襖を閉める。
もしかして、この屋敷の部屋は浜辺の砂のように流動していて、常に配置が組み変わったりしているのだろうか。私がいるこの部屋も知らないうちに移動していて、縁側に戻ろうとしても、二部屋より先にさっきまでなかった部屋が流れ着いていたり。
考えると同時に、私の中の誰かが「閉じ込められた!?」と恐怖を叫んだ。どうしてこれが怖いのだろう、と思いつつ、私は来た道を戻る。
隣の部屋へ。さっき通った部屋と同じに見えるが、襖の柄が思い出せない。こんな、何もない生成色だっただろうか。
意図せず早歩きになり、次の部屋に続く襖を開けた。向こうには縁側へ続く障子があるはずが、無地の襖が立ちはだかっている。
「いや、そんなはず……」
思わず独りごち、ふと、ここの襖には猫の絵があったことを思い出した。傍らを見下ろす。——あった。引手の下の黒い猫。
「あれ? さっきは座ってたような……」
猫の位置は変わらない。しかし、体勢が違うような気がする。さっきは香箱座りでこちらを向いていたはずだが、今は襖の奥へ去るような後ろ姿。
「一体どういう——」
薄闇の猫の姿に目を凝らしたところで、視界が一段明るくなった。私は顔を上げる。向こうに、柔らかい光を透かす障子がある。
「……どういうこと?」
呟きながら障子の方へ。引手に指先をかけて、自然と生唾を飲み込み、開く。
——何にも遮られない、漣の音。水面を転がる光子の柔らかな輝き。空は黄昏、あるいは黎明。
「探検して来たのかい?」
縁側の端に腰掛ける翠雨が、穏やかな笑みを湛えて尋ねた。




