第2話 永遠の境界
間接照明のような薄い闇を纏う光が、常に景色を満たしている。
空は何色とも言い難い。淡い青、紫、ピンク、赤、オレンジが、ゆっくりと混ざったり離れたりを繰り返し、カラフルな綿菓子をちぎって投げてくっつけたような姿をしている。
つまるところ黄昏、あるいは黎明。昼でも夜でもない境界の時刻。広々とした空に目を凝らすと、いつもどこかに透けた月を見つけることができる。
私は屋敷の縁側で目を開けた。両腕を広げても余りある広さの、半分だけ軒がかかった縁側。
どれくらい寝ていたかはわからない。空の色彩配置は眠る前と違う気がするが、明るさは眠る前と変わらないから。
ごろっと寝返りを打って屋敷に背を向けると、一面に広がるのはどこまでも続く透明な海。空の色を反射していて、彼方の水平線は空の終わりと混ざっている。
縁側から落ちないように体を支え、冷たくも温かくもない板の床にうつ伏せになる。頭の上の方にあるノートを手繰り寄せ、ボールペンを挟んだページを開いた。
これは日記。彼に言われたから書いている。私は書く意味などないと伝えたが、彼は「でも、書いた方がいいと思うんだ」と困ったような顔をした。
どこにでもある、B5サイズの普通のノート。前の日の記述から一行空けて、『今日は縁側にいた』と書く。これで完了。なんとなく手抜きだと言われそうな気がするが、実際に私は『縁側にいる』以外をやっていないので他に書きようがない。
このノートは二冊目だ。半分まで使ってある。前のノートもここまでの半分も全て、一行間隔で『今日は縁側にいた』とだけ書いてある。これになんの意味があるのかさっぱりわからないが、彼は毎日確認して安心したように微笑む。
日記を書いたらやることは終わり。私はノートにボールペンを挟んで閉じて、あとは縁側に横たわっている。眠くなったら寝て、目が覚めたらまた日記を書く。ずっとそうだ。
日記を書き始めてすぐの頃、彼に「どうして寝覚めに書くんだい?」と尋ねられた。確かに、日記とはその日にあった出来事を書くもので、つまり一日の終わり——寝る前に書くのが自然だ。
一方で、ここには昼も夜もない。太陽は沈まず——そもそもどこにあるかわからず——一日の始まりも終わりもわからない。だから眠りを昨日と今日の境界と定義した。不意に訪れる眠りの前に書くのは難しいから、今日の始まりに昨日の分を書く。
私がそれを説明すると、彼は「そこまで考えてなかったよ」と、これまた困ったような顔で言った。彼は昼と夜がある世界にいたことがないから考えが至らなかったとのこと。
昼と夜を見たことがないのは私も同じ。しかし私は『一日』の境界を作ることに気づいた。それはなぜだろう、と尋ねたら、やはり彼は困ったように笑うだけだった。
日記を書き終えてしばらく。ぼんやりと海を眺めていると、背後から彼の声がした。
「おはよう、紗凪」
振り向くと、縁側の角から彼が歩いてくるところ。
二十代後半くらいの、和服を着た男。白に僅かな緑が混ざった色——白緑とでも言うのか、そんな色の髪をしている。空と同じ青とも紫ともつかない色の瞳が微笑みを作る。
「よく寝ていたね」
彼の名前は翠雨。——ここにいる人だ。
私は「おはよう」と応えて、海へ視線を戻す。頭の横に翠雨が座った。日記を手に取り、開く。
「よかった。今日も書けているね」
「手抜きだと思わない?」
「どうして?」
「いつも同じ内容で、一行しかないから」
彼は「思わないよ」と答えながら日記を閉じた。
「君が縁側にいるのは事実だからね」
「…………」
「君はどう? 最初に日記を書くのは意味がないと言っていたけど、あれ以来何も言わないね。でも書き続けている」
「それは、まあ……」
私が返答に困っていると、翠雨は「ずっと、そうやって生きてきたのかい?」と尋ねながら日記を置いた。
「『そうやって』って?」
「嫌だなと思っても、やれと言われたことは黙ってやる」
「嫌って言うほどのことじゃないよ」
「無理して書かなくてもいいよ?」
「……大した手間じゃないから、書く」
彼は「そっか」と言って海を向いた。私たちは黙って穏やかな水平を望む。囁き声のような漣の音が響く。
彼は時々この質問をする。——そうやって生きてきたのか。
私はいつも不思議に思う。『生きてきた』という言葉がいまいちピンとこないし、私はずっとここにいる。彼は一体、なんのことを——
「ねえ、紗凪」
考えていたら、翠雨が不意にこちらを向いた。私は「ん?」と彼を見上げつつ、この呼びかけもやはり不思議だと思う。彼は私を『紗凪』と呼ぶが、私には自分が『紗凪』である覚えがない。
「どうして屋敷に入らないで、ずっと縁側にいるんだい?」
またしても不思議な問い。
「入る必要がないから」
私は答えて、海へ視線を戻す。日記を『翠雨の不思議な質問記録』にしたら書くことが増えて手抜き感が減りそうだが、彼が毎日読む手前、そうもできない。
私はずっと縁側にいる。使い込まれた琥珀色の板の、海が見える場所。背後の開け放たれた障子の向こうには立派な和室があるが、それが何部屋先まで続いていて、この屋敷がどれくらいの広さなのか、私は知らない。
なんとなく、とても広くて立派な屋敷なのだと思う。この広い海の世界に、たったひとつの家だから。——それを知っていれば十分で、だから中に入る必要はないと思う。
「探検とか、してみればいいのに」
「どうして?」
「そうすれば、日記に『今日は屋敷の探検をした』って書けるよ」
「そこまでするのは、ちょっと面倒かな」
「君は自分がどこにいるのか気にならないのかい?」
「? どこって……私は縁側にいるよ?」
沈黙が流れる。二種類の波音を聞いてから翠雨の方を見ると、彼はちょうど海を向くところだった。一瞬前まで私を見ていた。どんな顔で、見ていただろう。




