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第1話 深夜、土砂降りの雨

 今どき、天気予報がここまで盛大に外れることがあるのか——と感心に似た感想を抱き、櫂谷(かいたに)紗凪(さな)は土砂降りの雨の中を歩き出した。ジャケットの肩を雨粒がバシバシと叩き、無難なオフィスカジュアルが水を吸って重くなる。


 今日は終日晴天の予報だった。だから傘など持ってきていない。会社に置き傘はなく、カバンの中に折りたたみ傘が入っていることもなく、誰かの予備の傘を借りようにも、オフィスを最後に出たのは自分だ。


 守衛室で借りるとか、近くのコンビニへ買いに走るとか、濡れないためにできることはある。しかし紗凪は何もせず、いつもの歩調で帰路に着いた。


 雨だからか、それとも平日の深夜だからか。会社の前の通りは閑散としていて、動くものと言えば時折通り過ぎる車くらい。歩道には人影一つない。


 そのことを幸運に思う。人目があったら、変な目で見られないように『急いでいて仕方なく傘をさしていないフリ』をしなければならない。それか、『急いで傘を買いに行くフリ』か。


 就職を機に会社近くに借りたアパートは、ここから徒歩で二十分ほどの距離にある。繁華街に背を向けて歩いていくと、道はどんどん狭く、暗くなっていく。


 紗凪は決して面倒くさがりではない。どちらかと言えば几帳面で、準備や何やらを念入りにする方だ。「傘を貸してください」を言えないほど見栄っ張りでも引っ込み思案でもないし、コンビニのビニール傘を買えないほど困窮しているわけでもない。


 それでも、どうしても、傘を調達する気になれなかった。あれこれ考えて傘を手に入れることも、それをさして歩くことも、酷く複雑で煩わしいことに感じた。


 なぜ、雨の日は傘をささなければならないのか。雨に濡れることがなんだと言うのだろう。人間は雨に打たれたくらいで死にはしない。——その程度では、死ねない。


 雨の日は傘をさすものだからさすのだろうか。みんながそうするからそうする。それが『普通』の社会では、雨に濡れていると変な目で見られて、変な人だと思われて、笑われたり、馬鹿にされたり、遠ざけられたりする。


 ここで暮らしていくために、『普通』からはみ出さないようにしなければならない。誰もがそう信じていて、そのために努力をしたり、我慢をしたり、本音を誤魔化したり、金を費やしたりする。なぜならそれが『普通』だから。


 紗凪もずっと『普通』を信じて、周囲の人間と同じように振る舞い、はみ出さないよう気をつけて生きてきた。——いつからこんなに両足が重くなっていたのかわからない。


 街の明かりが見えなくなった。背の低い住宅地の、左右を塀に挟まれた窮屈な道を進む。誰も彼もが寝静まっている時分。民家に明かりはなく、夜闇の光源はポツリポツリと立つ街灯の光のみ。


 向こうで車のヘッドライトが光った。紗凪は強烈な光に目を眇め、塀に肩が当たるほど路肩に寄る。乗用車一台がやっと通れる程の道幅。黒いタイヤが水溜りを踏み、泥水が彼女の足に打ちつけた。


 車はそのままの速度で走り去る。紗凪は怒るでも嘆くでもなく、泥水がついた足を見下ろすこともなく、背後に遠ざかるエンジン音を聞きながら歩き出す。こんな些細な感情を抱くのも億劫になっていた。


 アパートがある通りに差し掛かったところで、不意に『友』の存在を思い出した。人間の友人ではない。この辺りでよく見かける野良猫のことだ。


 鋭い目つきの茶トラ猫。いつも一匹でいて、他の猫といるところは見たことがない。出会ったのは二ヶ月ほど前。紗凪がこの近くの公園のベンチに座っていると、猫が突然隣に寝そべって毛繕いを始めた。


 それ以降、この辺りでよく見かけるようになった。会うのは大体深夜。紗凪がアパートへ向かって歩いている時。——そもそも紗凪がこの辺りを歩くのは、職場へ向かう早朝か、仕事を終えた深夜のみだが。


 猫はいつも、塀の上とか、電柱の陰とか、紗凪の死角になる位置からひょいと飛び出してくる。紗凪が「うわっ!」と驚き声を出すと、まるでドッキリ成功に満足したように、毛繕いをしたり大欠伸をしたりする。


 紗凪は猫に「今日も元気だね」とか声をかけ、しばらく眺めてからアパートへ帰る。おやつの一つも与えたことがない。猫が返事をしたこともない。


 しかし、今日は、カバンの中に猫缶が入っている。今朝方、通勤途中のコンビニで買ったものだ。


(雨だから、今日は会えないか)


 深夜。世界の全てが停止したような静けさと暗がりの中で密かに交わす、一人と一匹の穏やかな時間。それは紗凪にとって日々の楽しみの一つとなっていて、それゆえの、『友』。


 ——『楽しみの一つ』という表現は、今となってはあまりに白々しいかもしれないが。


 土砂降りの雨に霞む視界の先。ぼんやりとした街灯の光の間に、じっとりとした暗闇が落ちている。三つ目の街灯の横がアパートの入り口。紗凪はそちらを見ながら歩き、ふと、視界の端に違和感を感じて立ち止まった。ちょうど、一つ目の街灯の前。


「あ」


 振り向くと、そんな声が出た。霞んだ白い光が照らすアスファルトの上に、見知った猫が横たわっている。オレンジ寄りの茶色模様の、雄猫。全身がだらっと脱力していて、ピクリとも動かない。


「……どうしたの?」


 問いを発しながら、しかし紗凪はわかっている。よろよろと歩いて街灯の光の中へ入り、猫の傍らに両膝をついた。


 オフホワイトのタックパンツに染みる地べたの雨は、僅かな赤みを帯びている。


「こんな雨の中で寝てたら、風邪引いちゃうよ」


 猫を抱き上げると、体の下に溜まっていた赤に雨粒が打ちつけた。ぐっしょりと濡れた体は冷たく、固い。『死後硬直』の四文字が紗凪の脳裏をよぎる。


「も(・)っ(・)と(・)、早(・)く(・)……」


 紗凪は無意識に独りごち、猫をジャケットの中に抱いた。雨が当たらないように、少し前屈みになって立ち上がる。


 涙は出ない。悲しみに鼻の奥がツンとすることもない。そういう機能を失ってどれくらいの時が経ったか、紗凪はもう思い出せない。


 長時間労働終わりのぼんやりした思考に、『橋』『雨』『川』の三文字が浮かんだ。猫を抱いたまま歩き出し、アパートの入り口を通り過ぎる。


 雨足が一層強くなり、夜闇を歩く紗凪の後ろ姿を掻き消した。


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