第10話 絵を描くこと -2
今日が始まって一回目の食事の後、私はいつもの縁側に戻ってすぐに入浴へ向かった。いつもは二回目か三回目の食事の後に行くが、なんとなく、早くお風呂に入りたい気分だった。
ゆっくりとお湯に浸かってから脱衣所へ出ると、やはり棚にはふかふかのバスタオルと浴衣が用意されている。今日の浴衣は濃紺の布地に淡い青の糸で雲のような蝶が描かれたもの。着物の柄はいつも蝶だ。帯は金色に近いクリーム色。
私は深い海と空の色を連想しつつ、それを着た。脱衣所を出て、薄暗い部屋を二つ通り抜け、縁側へ出る。微かな海風が火照った体を正常に戻すのを感じながら、いつもの縁側へ戻る。
琥珀色の床板の端に、翠雨が腰掛けていた。縁側の縁から足を垂らし、ゆらゆらと揺らしている。私がいるところに彼が来るのはいつものことだが、私がいない間に彼がいるのは珍しい。
「翠雨?」
呼ぶと、くるっと振り返った彼が「ゆっくりできたかい?」と尋ねた。私が隣に座ると、持っていたスケッチブックを差し出してくる。
「これ、想像の絵を描きたい時に使って」
記録帳を二冊並べたくらいの大きなもの。表紙と裏表紙は深緑の厚紙。
「ありがとう」
私が受け取ると、彼は「じゃあ、またね」と言って去って行った。
私は縁側近くの海を見下ろした。底に明るい色の砂が広がる浅い海。砂の上を蟹が歩いていたり、貝が飛び跳ねたり、青い魚がつついたりしている。
このパターンは初めてだ。記録帳に書いておくべきだろう。私はその場にスケッチブックを置いて立ち上がり、障子の横の記録帳と色鉛筆を持って戻った。
「あれ?」
その僅かな時間で、海はとても深い群青色に変わっていた。大きな岩の凹凸がぼんやりとした黒に見える、濃い青のグラデーションの海。動くものの姿はない。
「こんなに急に変わることもあるんだ……」
私は感嘆寄りの独り言をこぼし、記録帳は今度かな、と考えながら空を見た。いつもと同じ、淡い暖色と寒色が混ざる境界の色彩。その場に座って記録帳と色鉛筆を置き、何の気なしに海を覗くと、
「えっ?」
深い海の中に巨大な魚影があった。灰青色の紡錘型。鯨だ。尾鰭をゆったりと動かしている。
「さっきまでどこにもいなかったのに」
屋敷の下に隠れていたのか、それともどこかから泳いできたのか。どちらにせよ、私が目を離した隙に急いでここに来ておきながら、なんでもないようなフリをしている。——そんな鯨の澄まし顔を想像した。
「絵のモデルをやりたいの?」
私の声が水中の鯨に届くことはない。それを承知で尋ねると同時に、鯨がゆっくりと体を揺らして向きを変えた。ごろんと寝返りを打つように、体の側面をこちらへ向ける。
体のサイズと比較すると、鯨の目はとても小さい。ここからでは目の位置さえわからないが、こちらを見ている気がする。
「じゃあ、描かせてもらうね」
私は少し迷ってからスケッチブックを取った。大きな一ページ目を横向きにして、灰白色の色鉛筆で軽くアタリを取る。空と海の境界と、鯨の輪郭。
それからどれだけの時間が経ったかわからない。私が空を泳ぐ鯨の絵を描き終えるまで、海の中の鯨はずっと体側をこちらへ向けていた。
私は最後に鯨の瞳を描き入れ、黒の色鉛筆を缶へ戻し、
「ありがとう。かっこよく描けたよ」
言ってから、どうして自分はこの鯨がオスだと思っているのだろう、と首を傾げた。私は鯨の雌雄の見分け方など知らない。
この鯨がメスだったら、『かっこよく』はダメだったかな? そんなことを考えながら視線を上げて、また海に戻すと、鯨がすいっと泳ぎ去るところだった。
「またね」
私は鯨を見送った後、続け様に四枚の絵を描いた。砂漠に広がる珊瑚礁、月夜を泳ぐ小魚の群れ、二枚貝の中にある小さな町、魚の背中に乗った小島。
次の絵を描こうとスケッチブックをめくったところで、背後から「紗凪」と翠雨の声。
「想像の絵を描いているのかい?」
尋ねながら隣に座る。私はふと、今日はまだ一度も記録帳を書いていないことに気がついた。
「ずっとこっちばっかり書いてて、記録帳がまだだった——」ごめん、と言おうとして考え直し、「……マズい、よね?」おっかなびっくり、訊いてみる。翠雨はなぜか満足げに微笑むと、「いいや?」と言って片眉を上げた。
「一日の記録回数は決めていないからね。ゼロだって『回数』さ」
「でも、多い方がいいって……」
「僕、そんなこと言ったっけ?」
「言ったよ。確かに聞いた」
「へえ。紗凪は記憶力がいいね」
翠雨が言いながらヒラっと手を振る。とぼけているのか本当に忘れているのか、わからない。「それよりさ」と記録帳の話題を終わらせ、「絵、見てもいいかい?」こちらに少し身を取り出してきた。
正直なところ、私はこれをあまり見られたくない。記録帳の絵もそうだが、これはより一層。自分が生み出したものは自分の一部のような気がして、それを否定された時のことを考えると、自分自身を否定された気分になる。
「ええっと……」
私は無意識にスケッチブックを胸元に寄せ、どうするべきか考える。
スケッチブックも色鉛筆も、翠雨が用意してくれたものだ。それなのに見せないというのは失礼だし、不義理な気がする。だから見せる以外の選択肢は——
——ふと、頭の中に声。
『美大? ハハッ、何を言い出すかと思えば』
嘲るように笑う、男の声。食事の時に聞いたものと同じ。
『才能のないお前が行ったところで何にもならない。大体、芸術なんてカネにならないものに、学費なんか出すわけないだろ』
ただの声。知らない声。今、私が言われているわけではない。しかし自分に言われているような心地がして、絵を描いているのがとてつもなく恥ずかしいことに思えてきた。
「紗凪、どうしたんだい?」
黙って固まる私に翠雨が尋ねる。頭の中の声は頭の中だけの話で、彼は嘲笑ではなく心配そうな顔をしている。
「嫌だったら見せなくていいよ」
彼にこんな気遣いをさせてしまう自分がさらに恥ずかしい。
「う、ううん。大丈夫。嫌じゃない」
私はどうにか笑みを浮かべ、半ば押し付ける形でスケッチブックを渡した。翠雨が驚いた様子で受け取り、私はすぐに海の方を向く。絵を見る彼を直視できない。
少しの間を置いて、横からパラっと紙をめくる音が聞こえた。私は膝の上で両手を握り締めて俯く。『下手』『才能がない』『画材の無駄』——そんな否定が飛んでくるのを想定して身構える。
絶えず続く漣の音に、ゆっくり紙をめくる音が重なる。ぽちゃんと水の音。近くで小魚が跳ねたのか。
永遠に感じる沈黙の後、
「やっぱり、紗凪は絵が上手だね」
その言葉を理解するのに、かなりの時間がかかった。「紗凪?」と戸惑うような声で呼ばれて、私は勢いよく顔を上げる。
「……えっ、と……じょ、上手?」
譫言のような問いを発すると、翠雨は不思議そうな顔をして、
「なんだい、僕が下手って言うと思ったの?」
「それは、その……」
「記録帳を見たときも上手だって言ったじゃないか」
言われてみれば、その通り。
「僕は絵に詳しくないから専門的なことはよくわからないけど、君の絵は優しいというか、モチーフの一番いいところを一番美しく描いている感じで、好きだよ」
翠雨がスケッチブックをめくり、砂漠に広がる珊瑚礁の絵を指す。
「この珊瑚礁は僕も何度も見たけど、こんなに鮮やかで力強いと思ったことはない。僕の目には見えない、生命の力のようなものが、君にはよく見えているんだろうね」
次は月夜を泳ぐ小魚の群れ。
「これは小魚たちが踊っているようだね。生きることを楽しんでいる」
まためくり、二枚貝の中にある小さな町。
「これは貝が町を守っているのかな。力強さと思いやりを感じる」
魚の背中に乗った小島。
「この魚は、これからこの島に世界を案内してあげるのかな。この魚も僕は見飽きてしまっていたけど、この絵を見たら、もう一度会いたくなった」
それから最初のページに戻り、
「どれも素敵だけど、やっぱり僕はこの絵が一番好きかな。かっこよく描いてくれて嬉しい——」一瞬言葉を切り、「鯨も、きっと喜んでいるよ」と続けた。
私はその言葉を噛み締めて——
「あっ」
両目から涙がポロッと溢れたことに、縁側に水滴が落ちる音を聞いてから気づいた。薄い透明の膜が張った視界の真ん中で、翠雨がギョッとした顔をする。
私は咄嗟に目元を拭うが、涙が堰を切ったように溢れ出す。
「えっ、あれっ……?」
「紗凪、どうしたんだい?」
「いや、これは……」
「僕、君を傷つけることを言ってしまったかな。ごめんよ」
「違うの。本当に、これは、そんなんじゃなくて……」
傷ついてなどいない。悲しいわけでもない。それなのに涙が止まらない。
翠雨が「紗凪」と弱り果てた声で言って、スケッチブックを開いたまま後ろに置いた。躊躇うようにゆっくりと手を伸ばし、そっと背中をさすってくれる。私の涙はより一層勢いを増し、
「た、多分……ううん。多分じゃなくて、これ、嬉し涙……」
しゃくり上げるような呼吸を押し込み、大きく息を吸い込んで吐き出し、自分を落ち着ける。
「好きって言ってくれて、ありがとう」
言うと、翠雨は私の背中をさすりながら、「ありがとうって言ってくれて、ありがとう」と返した。
日記を書くこと、食事をとること、入浴、記録帳、スケッチブック。ここには私のやるべきことがあって、それらは同時にやりたいことでもある。
もっと絵を描きたい。たくさん描いて、彼に見てほしい。他のこともやってみたい。それが何か今は思いつかないけれど、彼が喜ぶことがいい。
そんなことを思った。




