第11話 『生きる』に必要なこと
それはふとした思いつきだった。ずっと考えていたわけでも、考える当てがあったわけでもない。突然空から降ってきて、私の頭の中にすぽっと収まったような感覚。
食事の用意を、やりたい。
結論から逆算する形で、ずっと翠雨に用意をしてもらってきたことを申し訳なく思った。考えてみたら自分は、用意はおろか片付けさえしていない。
思いついたら今すぐにでもやりたくなって、私は描きかけのスケッチブックを閉じて立ち上がった。スケッチブックと色鉛筆の缶を障子の近くに置いて「行こう」と思った瞬間、重大な問題に気づく。
台所の場所を知らない。
「後で翠雨に聞いて……いや、いつもの食事のタイミングを考えると、そろそろ支度を初めててもおかしくない」
次の食事の時にするという手はあるが、動き始めた手前、ここで諦めるのは居心地が悪い。
「ちょっと、探してみようかな……」
とはいえ、どこから手をつけたものか。
私は考えた末、ひとまず、この前の『探検』の続きを探してみることにした。つまり、いつも食事の時に通る部屋の左隣に入り、ずっとまっすぐ進んでみるということ。
障子を開けて、部屋の中へ。襖に描かれているのは、前回と同じ寂れた公園の絵。隣の花畑の部屋はよく変わって、今は真っ青なネモフィラの丘になっているのに、ここは遊具の配置の一つも変わっていない。
「部屋によって、変わり方も違うのかな」
考えながら部屋を進む。奥の襖にはやはり猫の絵があった。黒くぼんやりとした影の猫。横向きで、引手に前足を伸ばしている。
「ここはあなただけが変わるの?」
なんとなく猫に親近感のようなものを感じて尋ねてみる。猫は返事をせず、動きもしない。——絵だから当然か。
それでもなぜか、絵が動かないことに違和感を覚えて、それを不思議に思いつつ襖を開けた。
「うわっ!」
思わず声を上げてしまったのは、その部屋の色彩が他と完全に異なったから。四方の襖が真っ黒で、広さは他と同じく十畳ほどあるのに、やけに圧迫感がある。
「ここ、こんなだったっけ?」
得体の知れない薄ら寒さを感じつつ入室。猫の部屋に続く襖を閉めた。次の瞬間、襖の黒がただの黒ではないことに気がついた。
星空だ。黄みがかった点がたくさんあって、奥の襖には青白い星雲が描かれている。
「綺麗、かも」
今度通る時もこの星空はあるかな、などと考えながら次の部屋へ。食事の部屋の隣に位置するはずだが、四方が襖で壁がない部屋。ここの襖は生成色の無地。すっと通り抜けて次へ。
襖を開けて、何もない部屋を通り、また襖を開ける。それを四回繰り返し、そろそろ屋敷の反対側に出てしまうのではないかと思ったとき——六回目の襖を開けると、
「わっ!」
翠雨がギョッとした顔で声を上げた。ちょうど開けた襖の真ん前に立ち、両目をこれでもかと見開いている。対する私も驚いているが、驚きすぎて声も出ない。
てっきり次の部屋もこれまでと同じかと思いきや、他より少し狭い。食事の部屋と同じくらいだろうか。奥に木製の文机と本棚がある。
「え……あ……こ、ここ……あなたの、部屋?」
驚きのあまり、見ればわかることを尋ねてしまった。これは流石にないだろう、と訂正に口を開きかけたところで、翠雨が「そうだよ」と弾んだ声で答える。
「君が来るなら、お茶菓子の一つでも用意しておけばよかったな」
「急に開けてごめんね」
「構わないさ。どうする? お茶するなら、何か持ってくるけど」
「ううん。私……お茶じゃなくてね、その……」
ここまで来てから突然不安になってきた。私が食事の支度をしたいと言って、邪魔だと思われたらどうしよう。余計なことをするなと言われたら。お前じゃ役に立たないと言われたら。
悪い予感が頭の中をぐるぐると回る。私は少し俯き、黙ってこうしているのもまた迷惑だと気づいて、顔を上げる。翠雨が「ん?」と小首を傾げた。微笑んでいる。
——そうだ。彼は一度だって、否定的なことを言った試しがない。いつだって優しい。
「食事の支度をやりたいと思って、台所を探してたんだけど……」
言うと、翠雨はより一層表情を明るくした。
「確かに『やりたい』なのかい? 用意してもらうのを悪いと思って、とかではなく」
それもある。思考の出発点はそこだ。いつも用意してもらっていて悪いな、と。
だが、それは行動に対する言い訳のようになっている。ここまで来た一番の動機は、料理をしたいということ。食事を用意してもらえるのは嬉しいから、私が用意したら、彼も嬉しくなったりするかな、と。
「うん。やりたい」
私は確信をもって頷いた。それを見た翠雨は「じゃあ、行こうか」と言ってこちらの部屋に来た。
「ちょうど、そろそろやろうと思っていたところなんだ」
彼は言いながら自室の襖を閉め、私から見て右側の襖へ向かった。いつもの縁側を起点にすると、七番目の部屋の右側の襖。
その先は台所になっていた。前の部屋より一段低くなっていて、手前にすのこが置いてある。卯の花色の土間。向かって左側に少し古めのシステムキッチンがあり、向かいの壁が浴室の天井のように淡い光を放っていて明るい。
キッチンの奥には冷蔵庫。奥の壁には食器棚、電子レンジとトースターが置かれた棚、長ネギや三つ葉が覗くカゴが置かれた木製ラックが並んでいる。
なんとなく、田舎で暮らす祖父母の家の台所、といった雰囲気だ。
翠雨がすのこに降りて、前に置かれたサンダルを履いた。彼のサンダルの横には、二回りほど小さいサンダルが一足。履いてみると、私の足にピッタリだった。
「じゃあ、手分けして作ろうか。紗凪は何を作りたい?」
キッチンに並んだところで、翠雨が懐から布の紐を取り出しながら尋ねた。さっと背中に回して着物の袖を留め、もう一本を持って私の背後に立つ。
「あ、ありがとう」
同じように私の袖も留める彼に礼を言いながら、何を作るか考える。そもそも自分は料理など知らない——と、結論しかけたところで、頭の中に声が響いた。
『じゃあ、ニンジンと大根を切るのをお願いしようかね。里芋は滑るから、もっと大きくなってから』
ゆったりとした口調の、年配女性の声。これまで聞いた声と違って、優しく穏やか。
「豚汁……」
無意識に呟くと、翠雨が「いいね」と言い、流れるような動きで材料の用意を始めた。
*
「本当だ。具材を炒めないで作ったときと、全然違うね」
食事の部屋。お椀を持った翠雨が、驚いたような、喜んでいるような顔をした。お椀の中身は私が作った豚汁だ。
具材を切った後、私は深鍋にごま油を敷いて火にかけた。それを見た翠雨が「煮るんじゃないのかい?」と尋ねた。
「そういうレシピもあるけど……先に油で炒めておくと、こう、全体的にトロッとして、深みがある味になるんだよ」
私はこう答えた。どこで得たのかわからない知識だが、確かなものだと思って。それから完成した料理を皿に盛り、膳に乗せ、翠雨と一緒にこの部屋へ来て、現在に至る。
「僕はこっちの方が断然好きだな」
好き——想像の絵を見た時にも言ってくれた言葉。聞くと、胸の奥にじんわりと温かいものが広がる。
「よかった」
私は翠雨が作っただし巻き卵を口に運んだ。噛むと出し汁がジュワッと溢れ、卵のほんのりとした甘味と混ざり合う。
「他に、やりたいことはあるかい?」
ふと、翠雨が尋ねた。
「……他?」
「うん。料理が好きなら、食事だけじゃなくて、お菓子を作ることもできるよ」
「料理は……そこまで、好きなわけじゃないかな……」
「じゃあ、やっぱり絵かな。絵の具やキャンバスも用意しようか?」
「ううん。今あるので十分だよ」
私が首を振ると、翠雨は「他に好きなことはある?」と訊く。私に新しいことをやらせたいのだろうか。
「やることを増やした方がいいなら、これをやれって言ってくれれば、やるよ」
私としては、気を利かせて先回りをしたつもりの発言。しかし、翠雨の表情が僅かに曇った。違ったらしい。言わなければよかった。
咄嗟に「ごめん」と言いそうになって、この言葉も彼を落胆させるものだったと気づき、閉口する。少しの沈黙が流れた。
「足りていると、思うのかい?」
沈黙を破ったのは翠雨だった。
「一方的に与えられたものだけで、君は満足しているの?」
問いの意図が、よくわからない。これはつまり『足りていない』を表しているわけだが、私の体感では足りている。満足している。——満足するのは、おかしいのだろうか。
「満足……してると、思うんだけど……」
答えると、彼はまたあの不思議な質問——「ずっと、そうやって生きてきたのかい?」と尋ねた。
「『そうやって』って?」
「栄養は足りているからって、嫌いなものとか、どうでもいいものばかりを並べられた食卓を受け入れてきたのかってこと」
「……栄養が足りてれば、いいんじゃないの?」
「心臓を動かし続けるためだけなら、それでいいのかも」
翠雨は少し眉尻を下げ、手元のお椀を見下ろした。「この、炒めるのと同じだよ」と言って、こちらを向く。
「人間は、心臓を動かし続けるだけの装置じゃない。生きるためには、好きなものがたくさん並んだ食卓が必要だよ」
彼は時々、難しいことを言う。私はこれに「心臓を動かすことを『生きる』と言うのではないか」などという安易な問いを抱いてしまうけれど、おそらく、彼が言いたいのはそういう話ではない。
これまでは、「難しい話だな」と思うだけで終わらせてきた。しかし今はきちんと考えるべきだと思う。きっとこの答えが、彼が私にやって欲しいことだと思うから。
彼の望みを叶えたい。彼に喜んでもらえるような自分になりたくて、そうなった暁には、できたら少しだけ褒めて欲しい。
この感情は、一体何と呼べばいいのだろう。




