第12話 海の中 -1
今日は想像の絵を描いていない。目覚めてすぐの日記の記入、食事、入浴、記録帳を一ページだけ書いて、あとはずっと翠雨の言葉を考えている。縁側の端に腰掛けて、彼方まで続く透明の海を眺めながら。
『栄養は足りているからって、嫌いなものとか、どうでもいいものばかりを並べられた食卓を受け入れてきたのかってこと』
栄養バランスのいい食事、というものを私は知っている。穀物、野菜、肉や魚。そういうものが偏りなく含まれているものだ。ここに偏りがあると『悪い食事』になる。
『悪い』は避けて、『いい』を目指すべき。そして『栄養が足りている食卓』は『いい』に分類されていて、それだけで十分なはず。『嫌い』とか『どうでもいい』は、食卓の評価に影響しない。
しかし、彼の言い方は、それだけでは不足があることを示していた。
『心臓を動かし続けるためだけなら、それでいいのかも』
続いたこの言葉の最も不思議なところは、心臓を動かすことと食卓——食べることの関連性を前提としている点。食べなければ心臓が止まるような表現だ。しかし、私の心臓は食事を始める前も今も、変わらず動き続けている。
彼の心臓は違うのだろうか。それとも、ここまでの『栄養』『食卓』『心臓』は全て何かの比喩なのか。
『人間は、心臓を動かし続けるだけの装置じゃない。生きるためには、好きなものがたくさん並んだ食卓が必要だよ』
生きるとは、つまり、存在を続けること。心臓が動いているということは生きているということ。それなのに彼は、心臓を動かすだけでは足りないと言う。
「やっぱり、比喩か……」
考えれば考えるほどわからなくなっていく感覚。私はため息をつき、後ろに両手をついて空を仰いだ。いつもと同じ。淡い色彩に柔らかそうな光が満ちている。
遠くでザブっと水の音がして、見ると、空を映す水鏡の上に青黒い影が薄く覗いている。鯨の背中だろうか。
ふと、お椀を見下ろす翠雨の姿が脳裏に浮かぶ。
『この、炒めるのと同じだよ』
豚汁の具材を煮る前に軽く炒める。そのことと、食卓に好きなものを並べることは同じ。つまり——どういうことだろう。
「あなたはわかる?」
私は遠くの鯨に尋ねてみた。こんなに小さい声では聞こえないだろう、と考えたところで、頭の中に声。
『ちょっとしたひと手間がね、料理を美味しくするんだよ』
台所で聞こえた時と同じ、年配の女性の声。しっとりと穏やかな、言い聞かせるような声色。
手間——何かをする時にかける、時間や労力。翠雨が考えるあるべき食卓とは、この手間をかけたもので、それは生きることに繋がって——
『他に、やりたいことはあるかい?』
あの言葉は、私が過ごす時間そのものに『手間』をかけろということだったのだろうか。
「そう言われても、料理を思いついたのはまぐれというか……」
やりたいことなど、そうそう思いつくものではない。しかし彼は私が手間をかけることを望んでいて、私はその願いを叶えたい。とはいえ、思いつかないものは思いつかないわけで——
「とりあえず、絵でも描こう」
私は独りごち、障子の近くからスケッチブックと色鉛筆缶を取った。縁側の縁から拳ひとつ分内側に座り、缶を横に置いて、スケッチブックを開きながら海を覗く。
今日は浅くも深くもない、コバルトブルーの海。いつもより彩度が高く、岩の間に揺れる海藻は萌葱色。魚は大小様々で、色も形もみんな違う。
この海が、世界の下半分に留まらず全てを満たしていたなら。——今日はそんな絵を描こうと思い、色鉛筆を取ろうとしたところでふと動きを止める。
「ひと手間……」
なんの脈絡もなく、唐突に、海の水に触れてみようと思った。感触も含めた絵を描こう、と。
スケッチブックを置き、縁側の下へ手を伸ばす。水面との落差は一メートル余り。届かないだろうな、と思ったが、やはり届かず。
「うーん、ダメかぁ……」
ギリギリまで身を乗り出した、瞬間、
「紗凪!」
翠雨の叫び声。驚いた私は、縁側についていた手を滑らせて、
「わっ!」
体の重心は完全に前。バランスを崩し、頭から海に突っ込む軌道。咄嗟に目を閉じたところで、上半身を後ろから抱えられた。引かれ、後ろに倒れ込む。
「何をしてるんだい!」
頭の後ろから叱責をはらむ翠雨の声。目を開けると、彼に後ろから抱えられる形で縁側に座り込んでいた。
「前に危ないって言っただろう!?」
——そう。記録帳を初めて書いた日、縁側から身を乗り出した私に、翠雨は危ないからあまり身を乗り出さないように言った。海に落ちてしまったら大変だ、と。
その時はそういうものなのだと思った。今もそれは変わらないが、
「こ、この程度の高さ、落ちても大丈夫だと思うんだけど……」
あの時の自分なら絶対に口にしない言葉。しかし今は、彼がどうしてこんなに取り乱すのか不思議で、振り返りながら言った。
翠雨はハッとした顔で固まって、私の腹に回した腕に力を込める。
「……普通なら、そうだね。濡れてしまうくらいで、体を拭いて着替えれば済む話さ」
どこか自分に言い聞かせるように。
「でも、今の君はダメだ。落ちたらきっと、戻って来ない」
それはつまり、今の私は『普通』ではないということ。自覚はないが、彼にはそう見えているということ。
いつか頭の中に聞いた、苛立った女の声を思い出す。
『普通にしなさい! わかる!?』
普通でないことは、悪いこと。
「どうしたら、私は『普通』になれる?」
尋ねる声は、自分で思った以上に情けないものになった。帰り道を見失ってしまった子供のよう。翠雨は口を開きかけ、閉じ、また開く。
「なろうと思って、なれるものではないよ」
その言葉に酷く落胆する自分がいる。
「『普通』なんてどこにもない。みんな違う人間だからね。なろうとして自分を捻じ曲げ続けたら、いつの間にか一番遠いものになってしまう。だから君は『普通』になれないし、なろうとするべきじゃない」
「でも、みんな『普通』をやってる」
「『みんな』って、誰だい?」
問われて、はたと気づく。ここには私と彼しかいない。自分が発した『みんな』は、一体何を指しているのか。
わけがわからず黙り込むと、腹に回された腕が少し緩んだ。
「君に必要なことは、『普通』になることではないよ」
穏やかな声には、言い含めるような響きがある。
「『普通』になれない自分に折り合いをつけて、『普通』になろうとして書いた線を少しだけ踏み越えることさ」
翠雨は何を知っていて、何を考えて、何を思っているのか。私にそれらを知る術はない。他人の頭の中を覗き見ることはできないし、私はどうしたって彼ではないから。
ただ、私のためを思って言ってくれていることはわかる。だから私は、『普通』の向こう側へ行きたい。




