第13話 海の中 -2
海に手を伸ばした理由を説明すると、翠雨は少し不貞腐れたような顔で「そういうことは、やる前に僕に相談してよ」と言った。それから呆れた様子で、
「君はそうやって、なんでも自分だけでどうにかしようとするね」
私は『なんでも』に引っかかりを覚えた。
「『なんでも』って、他には?」
尋ねるだけのつもりが、食い下がるような物言いになってしまった。マズいかと思ったが、翠雨は意外そうに片眉を上げてから、悪巧みをするような顔をした。
「日記のページがなくなって、裏表紙に書いた時とか」
「他は?」
「他、は……」
語尾に『とか』をつけておきながら、閉口する。
「ないなら、『なんでも』って言うほどじゃないよ」
言うと、翠雨は呆気にとられた顔をしてから、「そういうのを待っていたよ」と微笑んだ。
「え……待ってた?」
「うん。いいね、こういうの。前より仲良くなった感じがする」
「そう?」
「違うのかい?」
「……よく、わかんない」
首を傾げる私に、彼は「ふふっ」と笑うと「少し待っていて」と言い残して屋敷に入って行った。少しして戻り、
「海に入るのに、浴衣じゃ裾がめくれてしまうからね」
そう言って差し出したのは、綺麗に畳まれた上下セットの黒のスウェット。海に入るなら水着ではないのか、などと私が考えていると、
「どうだい?」
「『どう』って?」
「それを見て、何を思う?」
私はとりあえずスウェットを広げてみる。なんの変哲もない、どこにでもあるスウェット。
「海に入るのに、部屋着みたいなのを着るんだなぁって思う」
「それ以外は?」
「特に、何も……」
翠雨は「そっか」と言うと、私の背中を押して開けたままの障子の向こうへ。花畑の絵の部屋だ。今は一面に秋桜の花が咲き乱れている。
「覗き見なんてしないから、安心して着替えて」
彼はにこやかに言うと、そっと障子を閉じた。私はそれを不思議に思いつつ、ひとまずスウェットに着替える。
部屋を出ると、翠雨が縁側の縁に立っていた。彼はいつもの着物のままだ。振り返り、「じゃあ、行こうか」と左手を差し出す。
「飛び込むの?」
私はあまり深く考えず、翠雨の手に右手を乗せた。彼は「うーん」と唸りながら斜め上へ視線を向けて、何かを思いついた様子でこちらを見る。
グッと手を引かれ、ヒョイ。
「え」
横抱きにされた。
「こっちの方がロマンチックでいいね」
そう言う彼の喉仏が間近に見える。何がどうしてこうなっているのか問おうとしたら、ふわっと浮遊感。彼が縁側から跳んだ。
「ちょっ!?」
落下は想像したより緩やかで、着水の水飛沫はほとんど立たなかった。とぷっと、とろみのついたスープにお玉を入れるよう。視界に青みを帯びた透明が満ちる。
「わあ……!」
思わず感嘆が漏れ、口の端から小さな泡がポロポロと溢れて昇った。マリンスノーのような緩やかな降下。目の前を巨大な魚影が横切る。
白い岩、鮮やかな緑の海藻、色とりどりの魚たち。水の青がゆらゆらと揺れて見えるのは、水面を漂う波が光を屈折させているから。銀色の小魚の群れがミラーボールのように輝き、その横を眠そうな顔の細長い魚が泳いでいく。
光と青と命の景色。私がそれに見惚れていると、翠雨が「掴まらなくていいの?」と尋ねた。
「え?」
「ほら、こう、僕の肩にさ」
私の両手は自分の胸の前にある。
「? 大丈夫だよ」
答えると、彼は「そっか」と微笑んだ。私は魚たちの方へ視線を戻す。
「抱き上げた時も、飛び込む時も、君は掴まろうとしなかったね」
確かに、その通り。私は魚を見上げたまま「うん」と頷いた。彼は何も言わなかった。
それから徐々に下降して、水面の光が遠くなった。水に満ちる青が濃くなって、大きな魚が目立つようになる。岩の間に身をひそめる大魚の口からは、大きく鋭い牙が覗いている。
向こうから一際大きな魚影が近づいてきた。鮫だ。頭が尖っていて、目がギョロっとしている。
私はその姿を一瞬も見逃さないよう目を凝らした。鮫はスイスイと体をくねらせながら近づき、私たちの右側を通り抜けた。すれ違う最中、目が合った気がする。
「怖くないのかい?」
翠雨が尋ねた。私は他にも鮫がいないかと周りを見回しながら、
「怖くないよ」
「あそこにいるウツボ、こちらを見ているよ」
「どこ?」
「左奥の、紫の海藻がついている岩の出っ張りの下」
「……あっ、本当だ。いる」
「君に噛みつこうとしているのかもしれない。ウツボは顎の力が強いから、噛まれたらすごく痛いよ」
「へえ」
私が相槌を打ったところで、ウツボがひらりと泳ぎ出した。長い体を揺らしてこちらへ来る。まだら模様が見えるほど近くに来て、私が「胸鰭とかはどこにいったんだろう」などと考えているうちにすれ違い、見えなくなった。
「そういえばウツボって、魚類なのに全然魚っぽくない形だよね」
どうしてだろう、と思って振り返ると、翠雨が少し困ったような顔をしていた。「不思議だよね」と言って海面の方を仰ぐ。
「そろそろ、戻ろうか」
私が何か、変なことを言ってしまったのだろうか。
「翠雨、どうしたの?」
尋ねると、「ん?」とこちらを見下ろす。普通の顔に戻っていた。
「少し、潜りすぎてしまったかなと思ってね」
ゆっくりと上昇を始める。
「どうかな、いい絵は描けそう?」
「うん。……あっ、そういえば、さっきから濡れてる感触がしないんだけど」
「濡れないようにしているからね」
「……私さっき、海水を触ろうとしてたんだけど」
「濡れて、風邪でも引いたら大変だからね」
「…………」
「でも、いい絵は描けそうなんだろう?」
「それは、まあ……」
浅いところへ戻ってきた。カラフルな魚が泳ぐ、柔らかい光が揺れる場所。
「本当に、怖くなかった?」
翠雨が再び尋ね、私は頷く。彼が少しの間を置いて「そっか」と呟く。青い小魚が一匹だけ近づいてきて、彼の目元を口先でつついた。
私は怖がるべきだったのだろうか。だが、ウツボに噛まれるのも、鮫に食べられてしまうのも、全く怖いと思えない。
怖いと思うのは、時々頭の中に響く怒鳴り声。それと、辟易とした声。あと、嘲るような声。つまり恐怖の対象は私の頭の中だけにあり、世界はいつも優しく、穏やかで、美しい。




