第6話「ふるさとと、ドとレのあいだ」
朝イチで、引き出しのスマホをこっそり確認した。
バッテリー、100%。
安心した。
で、安心した直後に、あることに気づいた。
今日の時間割に、「音楽」って書いてある。
……音楽。
オレは、時間割の紙を、じっと見つめた。
37歳。
最後に人前で歌ったのは、会社の忘年会のカラオケだ。
しかも、上司に「次、佐久間な」って言われて、しぶしぶ入れた曲を、ほぼ口パクでやりすごした。
それが、小5の合唱に、ぶっつけで参加する。
やばくない?
いや、やばいだろ。
だって、声。
オレ、いま、おっさんの声だぞ。
音楽室は、校舎の三階の、いちばんはしにあった。
ドアを開けると、あの、独特のにおいがした。
古いピアノと、ほこりと、リコーダーの、ちょっと湿った感じのにおい。
壁には、ベートーヴェンとかバッハとか、こわい顔のおじさんたちの肖像画が、ずらっと並んでいる。
こっち見んな。
「はーい、みなさん、席についてくださーい」
ピアノのイスから立ち上がったのは、マツモト先生。
ふんわりしたパーマで、いつもニコニコしてる、おばさん先生だ。
「今日から、秋の音楽会に向けて、合唱の練習をはじめます。曲は『ふるさと』です!」
おお、と、みんなが声をあげた。
「ふるさと」。
あの歌だ。
小学生のころは、「なんか古い歌だなあ」くらいにしか思ってなかった。
でも、いまのオレには、ちょっと、きついやつだ。
「じゃあ、まず、全員で一回、歌ってみましょう」
ピアノの前奏が、はじまった。
みんなの、高くて、まっすぐな、ちっちゃい声が、ふわっと、音楽室にひろがる。
ああ、これだ。
これが、小学生の声だ。
オレも、息を、すうっと吸った。
そして、歌った。
「…………」
ぜんぶ、ひとりだけ、声が、ひくい。
ずーーーーーーん、と、地面を這ってる。
まわりが、ひよこだとしたら、オレだけ、ライオン。
しかも、ふつうに、でかい。
「…………」
「…………」
となりのブッチが、目だけで、こっちを見てきた。
やめろ。
その目、やめろ。
「あ、あの、さくまくん?」
ピアノが、止まった。
マツモト先生が、困ったように、笑っていた。
「ちょっと、声が、ひくいかな?」
「あ、はい」
「変声期かしら。無理しないでいいのよ。ちょっと、小さめの声で、ね」
教室のあちこちから、くすくす笑いが聞こえた。
でも、いじわるな笑いじゃなかった。
ほんとに、「あー、ヒロキ、そういう時期なんだね」くらいの、ゆるい笑い。
……いや、時期、とっくに、過ぎてるんですけど。
「じゃあ、もう一回いきましょう。さくまくんは、できるだけ、高い声を出してみてね」
高い声。
高い声か。
オレは、深呼吸して、喉に、力をこめた。
ピアノが、はじまる。
みんなが、歌いはじめる。
オレも、せいいっぱい、高い声を、出してみた。
「――ふぉるっ、さとぉぉおおっ」
裏返った。
しかも、中途半端に。
「うっ、うげっ、げほっ」
むせた。
「だ、大丈夫ー!?」
「ヒロキ、鳥みたいだった!」
「ブッチ、うるさい!」
クラス中が、どっと、笑った。
オレも、笑うしかなかった。
オレの顔は、たぶん、真っ赤だった。
37歳の、渾身の、裏声。
忘年会のカラオケより、ずっと、恥ずかしかった。
でも。
なんでだろう。
不思議と、あんまり、いやじゃなかった。
「じゃあ、次は、リコーダーのテストをしまーす」
そのあとの、リコーダー。
これも、地獄だった。
「ソ、ラ、シ、ド、レ」
簡単な、課題曲。
小学生のころは、ふつうに吹けてたはずだ。
でも、いま、指が、動かない。
「ソ」の指の形を、完全に、忘れてる。
右手の親指は、うしろの穴だっけ?
左手の薬指は、どこだっけ?
指が、頭に、ついてこない。
ピー。
ピョー。
プスッ。
「ヒロキ、ぜんぜんちがう音出てる!」
「うるさい、わかってる!」
しかも、指が、ちょっと、太い。
小学生用のリコーダーの穴が、小さくて、ふさぎ切れない。
そのせいで、音が、ぜんぶ、すきま風みたいな音になる。
オレが吹くと、音楽室が、笑い声に包まれた。
「おじさんのリコーダー」
誰かが、ぼそっと言った。
おじさん、って。
いや、そうなんだけど。
「だれー? いま言ったの」
「え、おれ、言ってないよー」
先生が、くすくす笑いながら、言った。
「さくまくん、算数は得意なのに、音楽は苦手なのね」
「……はい」
「でも、そういうのも、いいのよ。人には得意と不得意があるから」
先生の声は、ほんとうに、やさしかった。
オレは、ちょっと、救われた。
……っていうか、ここのところ、ずっと、みんなに、救われっぱなしだな。
練習の終わりかけ。
先生が、「あと十分あるから、二人組になって、パートごとに、練習してみましょう」と言った。
みんなが、わいわい、ペアを組みはじめる。
「ヒロキ、いっしょにやろうぜ!」
ブッチが、手を、挙げた。
「ブッチは、ほかのやつと、やれよ。おれ、へただから」
「え、いいじゃん! ヒロキ、へたなところが、面白いんだし!」
それ、ほめてるのか。
けなしてるのか。
どっちだ。
と思っていたら、横から、小さい声が、聞こえた。
「あの……ヒロキ」
ユウタだった。
「ぼくと、やらない?」
ユウタは、楽譜を、ぎゅっと胸に抱えていた。
目が、不安そうに、ゆれてる。
でも、どこか、勇気をふりしぼってる感じが、した。
「……いいよ」
ブッチが、ちょっと、ぽかんとした。
でも、すぐに、にかっと笑った。
「じゃあ、おれ、サトウとやる!」
ブッチは、走っていった。
ああ、ブッチ。
気をつかってくれたんだな。
音楽室の、うしろのすみ。
ユウタと、ふたり、並んで、楽譜をのぞきこんだ。
「ヒロキの声、すっごく、低かったね」
「うるさいよ」
「ごめん。でも、なんか、かっこよかった」
「え」
「ぼく、あの声、ちょっと、うらやましい」
なんだそれ。
37歳のおっさんの声が、うらやましい?
「ユウタは、声、高いほうだよな」
「うん。……でも、ぼく、人前で歌うの、だめなんだ」
ユウタは、うつむいた。
「声、ちっちゃくなっちゃうの。みんなに聞かれると、へたくそって思われる気がして」
へたくそ。
その単語を聞いた瞬間、胸のあたりが、ずきっとした。
昨日の、教室の光景が、また、頭に、ちらついた。
『……ほんと、へたくそだな』
オレだ。
あのとき、そう言ったのは、オレだ。
「……ユウタ」
「ん?」
「ちょっとだけ、ここで、歌ってみてよ。誰にも、聞こえないくらいの、声で」
「え、でも」
「オレしか、聞いてないから」
ユウタは、すごく、迷った顔をした。
でも、オレが、ずっと、待っていたら。
ちいさく、息を、すった。
そして。
ユウタが、歌いはじめた。
――ほんとうに、小さな声だった。
ほとんど、息みたいな、ささやき声。
でも、その声は、ふしぎなくらい、まっすぐ、オレの耳に、届いた。
高くて、すんでて。
だれにも、ふれたことがない、湧き水みたいな声。
オレは、息を、するのを、忘れた。
うまい。
ユウタ、めちゃくちゃ、うまい。
なんで、こんなに、うまいのに。
なんで、自分で、気づいてないんだ。
最後まで歌って、ユウタは、ぱっと、顔を上げた。
「……どう?」
「…………」
言葉が、出なかった。
目の奥が、つーんとした。
またかよ。
でも、今回は、止めなかった。
「ヒロキ? 泣いてるの?」
「泣いてない。目に、ほこりが、入った」
「ほこり、ひどいね、ここ」
ユウタは、心配そうに、オレのほうに、顔を寄せてきた。
そのとき、オレは、はっきり、言った。
「ユウタ。おまえ、うまいよ」
「え」
「めちゃくちゃ、うまい。オレ、ぜんぜん、へたくそなんかじゃないと思う」
ユウタは、ぽかんとした。
そのあと、ゆっくりと、ほっぺたが、赤くなっていった。
「……ほんと?」
「ほんと。ぜったい」
「…………ヒロキ、お世辞、言ってない?」
「言ってない! オレが、お世辞なんか、言えると思うか!」
ユウタは、ふふっと、笑った。
えくぼが、ぽこっと、浮かんだ。
昨日より、ずっと、深く。
「……ありがとう」
「うん」
そのときの、ユウタの笑顔を、オレは、たぶん、一生忘れない。
音楽の時間が、終わりに近づいたとき、先生が、言った。
「最後に、ひとりずつ、短くでいいから、一フレーズだけ、歌ってもらおうかな。希望者は、いるかしら?」
手を挙げる子は、いなかった。
みんな、もじもじしてる。
オレは、ユウタの顔を、ちらっと、見た。
ユウタは、うつむいている。




