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第35話「春の、名前のない朝」

三月の、終わり。


雪はとっくにとけて、校庭の桜の枝に、小さなつぼみが、ぷつぷつ、ついていた。


朝、目が覚めて、いつものように、のどの調子を、確かめた。


「あー」


いつもの、低い声。


そして、布団の中で、ぼんやり、考えた。


オレ、なにを、確かめようとして、声を出したんだっけ。


「…………あれ」


ふしぎだった。


声のチェックを、する理由が、思い出せなかった。


でも、習慣だから、まあ、いいか。


起き上がって、鏡を見た。


無精ひげの、37歳のヒロキが、いた。


寝ぐせ。


眠そうな目。


「…………だれだっけ」


ひとりごとが、でた。


鏡の中の、おじさんに、聞いたつもりだった。


でも、すぐに、わかった。


ヒロキだ。


さくま、ひろき。


小学5年生。


もうすぐ、6年生。


それ以外に、なにも、ない。


あたりまえだ。


なにを、迷ったんだろう。


「ヒロキー! ごはんー!」


「はーい!」


階段を、とんとん、おりた。


台所の、テーブルに、焦げた卵焼きが、のっていた。


父さんが、焼いたやつだ。


「うまい」


「父さん、それしか、言わないよね」


自分で、言って、ふしぎな気持ちに、なった。


このやりとり、前にも、したことが、ある。


何回も、何回も。


でも、いつから、していたのか、思い出せない。


「ヒロキ、どうした」


「ううん。なんでもない」


「ぼーっとしてるぞ」


「春だから」


「春だな」


父さんは、笑った。


ミキが、横から、卵焼きを、ひとつ、とって、写真の前に、置いた。


「おかあさん、きょうも、こげてるよ」


写真の母さんは、笑っていた。


オレは、その笑顔を、じっと、見た。


胸の奥が、ほんのり、あたたかくなった。


でも、なぜ、あたたかいのか、うまく、説明できない。


「お兄ちゃん」


ミキが、こっちを、見ていた。


「なに」


「お兄ちゃん、さいきん、へんなこと、言わなくなったね」


「へんなこと?」


「うん。『夢の中で』って、いわなくなった」


「…………そうだっけ」


「うん。ちょっとだけ、さびしい」


ミキは、ふしぎそうに、首を、かしげた。


「でも、いいや。ふつうの、お兄ちゃんのほうが、すき」


「…………」


ふつうの、お兄ちゃん。


その言葉が、胸に、すとん、と、おちた。


ふつうって、いい。


学校の、帰り道。


ブッチと、ユウタと、三人で、歩いていた。


春の風が、ぬるくて、やわらかい。


「ヒロキー、もうすぐ、六年生だな!」


「うん」


「おれ、またヒロキと、同じクラスが、いい!」


「ぼくも」


「クラス替えは、くじ引きらしいよ」


「くじ引きかー」


ブッチは、天を、あおいだ。


「ハヤシさんと、同じクラスに、なれますように!」


「そっちか」


「ヒロキと、ユウタとも、同じが、いい! でも、ハヤシさんは、ぜったい!」


「欲張りだな」


「欲張りで、いいの!」


ユウタが、くすくす、笑った。


えくぼが、ぽこっと、深かった。


「ヒロキ」


「うん」


「ぼくね、昨日、できたんだ」


「なにが」


「逆上がり、連続三回」


「え、ほんと?」


「ほんと。ひとりで、校庭で、やってたら、できた」


「うおおお、すげえ!」


ブッチが、でっかい声で、ユウタの肩を、バシバシ、叩いた。


ユウタは、照れて、頭を、かいた。


「ヒロキに、いちばんに、言いたかった」


「…………うん」


オレは、胸が、じーんとした。


あれ。


なんで、こんなに、うれしいんだろう。


ユウタが、逆上がり、できた。


それは、ほんとうに、うれしい。


でも、うれしさの、奥に、もっと、深い、あたたかさが、あった。


まるで、ずっと、ずっと、待っていた、ことが、かなったみたいな。


「ヒロキ、泣いてる?」


「泣いてない。ほこり」


「ほこり、また?」


「うん。春は、ほこり、多い」


「花粉じゃなくて?」


「ほこりだよ」


三人で、笑った。


笑いながら、ふと、思った。


「ほこり」って、いつから、使い始めた、言い訳だろう。


思い出せない。


でも、なんだか、とても、大事な、言葉の気がした。


夜。


宿題の、ランドセルを、整理していた。


底のほうに、手を、突っこんだ。


指先に、なにか、かたいものが、触れた。


ひっぱり出すと、黒い、二つ折りの、財布だった。


「…………」


見覚えが、なかった。


いや、あるような、ないような。


大人の、使う、財布だ。


小5の、ランドセルに、なんで、入っているんだろう。


ひらいてみた。


小銭入れに、百円玉と、十円玉と、五円玉が、ぱらぱら。


お札入れに、新しい、千円札が、三枚。


きれいな、紙幣だ。


見たことの、ない、デザイン。


「…………おもちゃ?」


首を、かしげた。


どこかの、ごっこ遊びの、お金だろうか。


財布の、奥の、ポケットに、小さな、紙が、入っていた。


古い、便せんだった。


ひらくと、鉛筆の、丸っこい字。


『ヒロキへ。』


読みはじめて、胸が、とくん、と、鳴った。


『ヒロキは、泣き虫で、こわがりで、ゲームが、大すきで、ひじきが、きらいで。』


「…………ひじき、好きだけど」


思わず、ツッコんだ。


でも、ツッコんだ瞬間、目の奥が、つーんとした。


『母さんは、そんなヒロキが、だいすきでした。』


「…………」


オレは、便せんを、胸に、あてた。


誰が、書いたのか、はっきり、わかった。


箪笥の上の、写真の、人だ。


でも、なぜ、財布の中に、入っているのか。


なぜ、この財布が、ランドセルの底に、あったのか。


わからなかった。


でも、わからなくても、いいと、思った。


便せんの、いちばん下に、書かれた、一行を、読んだ。


『ヒロキの、人生も、ちょっと、焦げて、いいんです。』


「…………」


涙が、ぽとり、と、便せんに、落ちた。


でも、にじまなかった。


ふしぎだ。


オレは、便せんを、そっと、財布に、戻した。


そして、ひとつ、決めた。


この財布は、大事に、とっておこう。


中身が、おもちゃのお金でも、いい。


なぜ、大事なのか、わからなくても、いい。


大事なものは、わからなくても、大事だ。


財布を、ランドセルの、いちばん、奥に、しまった。


ふと、財布の、横に、もうひとつ、見つけた。


黒くて、薄くて、四角い、板。


「…………なにこれ」


指で、さわった。


つめたい。


画面は、真っ黒。


押しても、反応しない。


「…………おもちゃ、かな」


あんまり、気にならなかった。


でも、捨てる気にも、ならなかった。


オレは、その板を、財布の、となりに、そっと、置いた。


春休みの、最終日。


オレは、早起きして、台所に、立った。


エプロンを、つけた。


母さんの、エプロン。


ひもが、ぎりぎり、後ろで、結べた。


卵を、三つ。


割る。


からが、ちょっと、入った。


箸で、とった。


砂糖、大さじ、ふたつ。


しょうゆ、たらーっ。


「…………たらーっ、って、どのくらいだっけ」


自分で、言って、笑ってしまった。


感覚だ。


感覚で、いいんだ。


誰かに、そう、教えてもらった、気がする。


フライパンに、卵液を、流した。


じゅわーっ。


あの、いい音。


「巻くときは、ゆっくり」


誰かの、声が、聞こえた。


ふりむいた。


誰もいなかった。


でも、ふしぎと、こわくなかった。


あたたかい、声だった。


「焦らないで」


「…………うん」


オレは、小さく、返事をした。


ゆっくり、巻いた。


ひっくり返して、また、巻いた。


できた。


形は、ぼろぼろ。


焦げ目は、ちゃんと、ついていた。


お皿に、のせて、箪笥の上の、写真の前に、置いた。


「母さん、できたよ」


写真の、白いワンピースの、人は、笑っていた。


オレは、その、笑顔を、じっと、見て、ふと、気づいた。


いつの間にか、「母さん」と、呼んで、いた。


自然に。


あたりまえみたいに。


最初から、そう、呼んでいたみたいに。


「…………うん」


そう、つぶやいた。


小さな、声。


小さな、うなずき。


窓の外で、桜の、つぼみが、ひとつ、ぱちっと、ひらいた。


春休みが、あけた、日。


校庭の桜は、満開になった。


昇降口の、前に、クラス替えの、貼り紙が、出ていた。


ざわざわ、と、生徒たちが、集まっている。


「ヒロキー! 見て、見てー!」


ブッチが、貼り紙の前で、ぴょんぴょん、跳ねていた。


「おれたち、同じクラスだ! 6年2組!」


「ほんと?」


「ほんと! ヒロキ、ユウタ、ヤマグチさん、ハヤシさん、サトウさん、カワシマ、イノウエくん、ぜんぶ、いる!」


「…………全員、同じ?」


「全員! くじ引きなのに、奇跡!」


オレは、貼り紙を、見上げた。


『6年2組』


その下に、ずらっと、名前が、並んでいた。


『さくま ひろき』


『ふちがみ たかし』


『みずの ゆうた』


『やまぐち あかね』


『はやし みなみ』


『さとう えみ』


『かわしま だいき』


『いのうえ まさる』


そして。


名簿の、いちばん、下の、行に、手書きで、書き足された、一行が、あった。


『担任:高橋 先生』


「また、タカハシ先生だ!」


「持ち上がりなんだ!」


「やったー!」


教室が、わっと、沸いた。


オレは、胸が、いっぱいに、なった。


みんな、いる。


みんな、また、いっしょだ。


「ヒロキ」


ユウタが、隣に、立った。


「またよろしくね」


「うん。よろしく」


「ぼく、今年は、逆上がり、連続、五回、やるよ」


「欲張りだな」


「ヒロキに、似たんだ」


ユウタは、にやっと、笑った。


オレも、笑った。


そのとき、背中に、あたたかい、風が、ふわっと、吹いた。


桜の、花びらが、一枚、オレの肩に、のった。


ひらり。


指で、つまんだ。


薄い、ピンク色。


春の、においがした。


石けんと、日なたの、においが、ほんのり、まじっていた。


「…………」


ふりむいた。


誰も、いなかった。


でも、確かに、そこに、いた気が、した。


オレは、花びらを、ポケットに、入れた。


そして、ブッチたちの、あとを、追いかけて、走り出した。


「待てよ、ブッチ!」


「おそいぞ、ヒロキ!」


春の、校庭を、全力で、走った。


足が、かるい。


息が、あがらない。


世界が、やさしい色を、していた。


走りながら、ふと、思った。


オレ、なにを、忘れたんだろう。


とても、大切な、ことを、忘れた気が、する。


でも、思い出せない。


思い出せないのに、胸の中は、ぽかぽか、していた。


忘れても、残っているものが、ある。


それは、きっと、ずっと、残る。


オレは、校庭の、まん中で、立ち止まって、空を、見上げた。


青い、空。


白い、雲。


満開の、桜。


「…………いい天気だ」


ひとりごとが、風に、とけた。


その夜。


布団に、入る、前に、ランドセルの、底から、あの、黒い財布を、出した。


中を、ひらく。


おもちゃの、お札。


古い、便せん。


そして、一枚の、名刺。


『佐久間 宏樹』


名前だけ。


肩書きは、なかった。


裏を、返す。


手書きの、一行。


『母さんの、息子』


「…………」


オレは、その、名刺を、じっと、見つめた。


さくま、ひろき。


オレの、名前だ。


「佐久間」と、漢字で、書いてある。


不思議と、しっくり、きた。


「…………いつか、な」


名刺を、そっと、財布に、戻した。


財布を、ランドセルに、しまった。


布団に、もぐった。


天井を、見つめた。


あした、6年生だ。


どんな、一年に、なるんだろう。


わからない。


でも、きっと、ふつうの日が、たくさん、ある。


焦げた卵焼きを、食べて。


ユウタと、逆上がりをして。


ブッチの、恋を、見守って。


ミキと、けんかして、仲直りして。


それだけで、十分だ。


目を、閉じる、前に、ふと、思った。


大人に、なったら。


オレは、どんな人に、なって、いるんだろう。


名前は、まだ、ない。


でも、ひとつだけ、わかる。


きっと、たくさんの、人に、「ありがとう」を、大きな声で、言える人に、なっている。


そう、信じて、眠った。


眠りに落ちる、すこし前。


「…………おやすみ」


自分の声が、ふと、耳にとどいた。


高い、声だった。


ひよこみたいな、小学5年生の、男の子の、声。


布団から出した手が、ちいさかった。


あごに、手をやると、無精ひげは、どこにも、なかった。


「…………あ」


最後の最後に、ようやく、オレは、みんなが、ずっと見てくれていたとおりの、小5のヒロキに、なれたらしい。


ずっと、そうだったのかも、しれない。


みんなの目には、最初から、ずっと。


「…………ありがとう」


小さな声で、言った。


高い声で。でも、ちゃんと、とどくように。


窓の外で、桜の花びらが、ひらひら、舞っていた。


ひとひら、窓ガラスに、ぴたっと、くっついた。


まるで、おやすみ、と、言っているみたいに。


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