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第36話(最終回)「ただいま、の朝」

目が覚めた。


天井が、遠い。


いや、遠いっていうか、ちょうどいい。


手を伸ばしても、届かない。


足を伸ばしても、布団からはみ出さない。


……なんだこれ。


なんだこれ、じゃないか。


ここは、オレの部屋だ。


三十七歳の、佐久間宏樹の、いつもの朝だ。


なのに、なんだか、胸のあたりがぽかぽかしていた。


長い夢を、見た気がする。


半ズボンの夢だった。


黄色いヒーローが、胸のところで、ドーンとポーズを決めていて。


誰かが、階段の下から、オレの名前を呼んでいて。


「……誰、だっけ」


声に出してみた。


三十七歳の、低い、寝起きの声だった。


思い出せない。


でも、思い出せないのに、目尻が、ちょっと濡れていた。


我ながら、涙腺の弱い、おっさんだと思う。


「ほこり、かな」


つぶやいて、自分でふきだした。


なんで、ほこりなんだ。


でも、この言い訳は、昔から、なぜか、しっくりくる。


今日は、八月十三日だった。 母さんの命日は、明日の十四日だ。その前の日、病院に行く前の、最後の「ふつうの日」が、十三日だった。 いつからか、この日に、みんなで集まるのが、決まりになっていた。


毎年、この日の朝は、決まっている。


起きて、顔を洗って、卵焼きを焼く。


それから、机の上に、財布の中身を、ぜんぶ並べる。


誰に教わったわけでもない。


でも、気がついたら、毎年、やっていた。


黒い、二つ折りの財布。


使い込んで、角が白くなっている。


ランドセルの底から出てきた、というのが、この財布の、いちばん古い記憶だ。


小学生のころの、ランドセルに、なぜか、大人の財布が入っていた。


どう考えても、おかしい。


でも、オレは、それを、ずっと、持っている。


ひとつ、ひとつ、取り出して、並べていく。


完走メダルの、ミニチュア。


黄ばんだ、ふくやの「あたり」券。


ふわふわの、白い毛が入った、ちいさなビニール袋。


緑色の、フェルトの葉っぱ。


ぐにゃぐにゃの字で「みじかく!」と書かれた、紙きれ。


端に赤い糸で名前が縫われた、雑巾の切れ端。


がま口。


プラスチックの、歯の模型。


ビーズのブレスレット。


ぬかが入った、小さな瓶。


どんぐり。


観覧車の、半券。


油のしみた、コロッケの紙袋。


そして、いちばん最後に、古い便せん。


並べ終わると、机の上が、小さな博物館みたいになった。


どれも、がらくただ。


誰に見せても、「なにこれ」と言われる。


でも、オレにとっては、ぜんぶ、世界にひとつの、宝物だった。


なぜ、宝物なのかは、説明できない。


ただ、ひとつ、手に取るたびに、胸のどこかが、あたたかくなる。


ひとつ、取るたびに、誰かの顔が、ふっと、浮かびかける。


丸い顔の、笑った顔。


えくぼのある顔。


メガネの、きりっとした顔。


浮かびかけて、ふわっと、消える。


でも、消えたあとも、あたたかさだけは、ちゃんと、残る。


「……よし」


最後に、名刺を一枚、取り出した。


『佐久間 宏樹』


肩書きは、なにも、ない。


裏を返すと、手書きの一行。


『母さんの、息子』


これは、オレの字だ。


でも、いつ、書いたのかは、覚えていない。


覚えていないのに、これが、いちばん、オレの名刺だと思う。


台所では、父さんが、卵を割っていた。


「おはよう」


「おはよう。父さん、今日は、オレが焼くよ」


「いや、父さんも、手伝う」


「手伝うと、焦げる」


「焦げ目は、うちの味だ」


「それ、誰のセリフだっけ」


「……母さん、だな」


「だよね」


ふたりで、顔を見合わせて、笑った。


父さんは、もう、六十八歳だ。


髪は、すっかり、白い。


でも、ぬか床のかきまぜ方は、いまだに、へたくそだ。


それでも、毎朝、かきまぜている。


もう、二十七年も、休まずに。


「ヒロキ、砂糖は、大さじ、ふたつだぞ」


「知ってる」


「しょうゆは」


「たらーっ」


「そうだ」


なんで、知っているんだろう。


誰かに、教わった気がする。


縁側で、麦茶を飲みながら。


いや、台所で、椅子に座ったまま。


どっちだ。


どっちでも、いいか。


卵を、三つ割った。


からが、ちょっと、入った。


箸で、とる。


フライパンに、卵液を、流した。


じゅわーっ。


いい音だ。


この音を聞くと、いつも、背中のうしろが、あたたかくなる。


「巻くときは、ゆっくり」


声が、した。


オレは、動きを止めた。


父さんの声じゃなかった。


もっと、やわらかくて、あたたかい、女の人の、声だった。


ふりむいた。


台所には、父さんが、ひとり、立っているだけだった。


「……父さん、いま、なんか、言った?」


「いや、なにも」


「そっか」


「どうした」


「ううん。なんでもない」


でも、オレは、知っていた。


毎年、この日に、この声が、聞こえる。


そして、毎年、こう、返事をする。


「うん、ゆっくり、巻くよ」


小さな声で、言った。


フライパンの中の、卵を、そっと、巻いた。


「焦らないで」


「うん」


「ふふ。焦げたわね」


「いいんだ。うちの味だから」


父さんが、ちょっと、不思議そうに、オレを見た。


そして、何も言わずに、鼻を、ずるっと、すすった。


「……ほこりが、目に、入ったな」


「うん。ほこりだ」


「ここは、掃除が、必要だな」


「そうだね」


ふたりで、笑った。


卵焼きが、焼けた。


形は、ぼろぼろだった。


焦げ目も、ちゃんと、ついていた。


お皿にのせて、居間の、箪笥の上へ、運ぶ。


写真立ての、母さん。


白いワンピースを着て、長い髪を、ひとつにまとめて、観覧車の前で、笑っている。


オレは、写真の前に、卵焼きを、そっと、置いた。


「母さん。今年も、焦げたよ」


写真は、笑っていた。


「いただきます、って、言ってる?」


なんとなく、聞いてみた。


返事は、なかった。


でも、窓から入ってきた風が、カーテンを、ふわっと、揺らした。


石けんと、日なたの、においが、した。


「……うん」


オレは、うなずいた。


何が「うん」なのかは、わからない。


でも、きっと、「うん」だ。


昼ごろ、玄関の戸が、がらっと、開いた。


「おじゃましまーす!」


でかい声だった。


もちろん、ミキだ。


もう、三十四歳なのに、声のでかさは、小2のころから、一ミリも、変わっていない。


「お兄ちゃん、来たよー!」


「おじちゃーん!」


ミキの後ろから、ちいさな女の子が、飛び出してきた。


七歳の、ひなた。


前歯が、一本、抜けている。


もう一人、ひなたの手を引いているのは、四歳の弟、ゆうた……じゃなくて、そうたくん。


あやうく、間違えるところだった。


ゆうた、じゃない。


そうた。


でも、なんでだろう。


「ゆうた」の名前を聞くと、胸の奥が、きゅっとなる。


「お兄ちゃん、ごはん、できてる?」


「卵焼きは、できてる」


「それだけ?」


「それだけ」


「ふつう、もうちょっと、あるでしょ」


「うちは、卵焼きが、主食だ」


「こげてる」


ミキは、ひとくち、食べて、言った。


「でも、おいしい」


「うまい」


父さんが、横から、言った。


「それしか、言わないよね、おじいちゃん」


「うまいものは、うまいんだ」


「ふふ」


ミキが、笑った。


その、笑い方が、箪笥の上の、写真の母さんに、よく似ていた。


食後、ミキが、オレの部屋に、やってきた。


手に、小さな、青い缶を、持っている。


デンマークの、クッキーの、缶。


ミキが、小2のころから、持っている、宝物の缶だ。


「お兄ちゃん」


「うん」


「今日、読もうと思うんだ」


「……なにを」


「お兄ちゃんの、手紙」


オレは、目を、ぱちくり、させた。


「オレの、手紙?」


「うん。ここに、入ってる。いちばん、下に」


ミキは、缶のふたを、あけた。


どんぐり。


ビー玉。


貝がら。


折り紙。


そして、いちばん下に、小さな、水色の封筒。


表に、ぐにゃぐにゃの、字で、書いてある。


『ミキが、大きくなったら、ひとりで、あけること』


その下に、もう一行。


『ただし、長くて、泣いても、おにいちゃんの、せいじゃ、ありません』


「…………」


その字を、見た瞬間。


オレの、手が、勝手に、ふるえた。


小学生の字だった。


ぐにゃぐにゃで、ちょっと、斜めで。


でも、ぜんぶ、オレの、癖の字だった。


「……これ、オレが、書いたの?」


「覚えてないの?」


「…………」


覚えて、いなかった。


でも、胸の奥が、ぎゅっと、なった。


この、「ぎゅっ」を、オレは、何度も、知っている気がした。


「ミキが、小2のときにね、お兄ちゃんが、くれたの」


「小2のとき、オレは、小5だ」


「うん。小5の、お兄ちゃんが」


「…………」


「お兄ちゃんは、小5のとき、すごく、変だったの」


ミキは、くすっと、笑った。


「急に、ひじき、食べて、急に、算数が、できて、急に、卵焼きを、作りはじめて」


「…………」


「でも、いちばん、すごかったのは、ずっと、お母さんの、そばにいてくれたこと」


オレは、息を、のんだ。


「ミキ」


「うん」


「オレ、そのころのこと、あんまり、覚えてないんだ」


「知ってる」


ミキは、さらっと、言った。


「お兄ちゃんは、ずっと、そうだったもん。小6になったころから、なんか、ふわっと、忘れていったの」


「…………」


「でも、ね。それでもいいの。わたしが、覚えてるから」


ミキは、封筒を、ぎゅっと、胸に、あてた。


「お兄ちゃん。わたし、これ、ひとりで、読んでくる」


「…………うん」


「ちょっと、縁側、借りるね」


「ティッシュ、持っていこうか?」


「ううん。ひとりで、って、書いてあるから」


ミキは、にっと、笑って、部屋を、出ていった。


縁側から、ミキの、ちいさな、鼻をすする音が、聞こえてきた。


オレは、廊下の、壁に、背中をつけて、座りこんだ。


ひなたが、ぴょこぴょこ、やってきた。


「おじちゃん、なんで、ここに、すわってるの」


「ミキ……じゃなくて、ママが、お手紙、読んでるんだ」


「ふーん」


ひなたは、ちょこんと、オレの隣に、座った。


「ママ、ないてる」


「そうだな」


「かなしいの?」


「ちがう」


「うれしいの?」


「……どっちも、かな」


「へんなの」


ひなたは、首を、かしげた。


それから、オレの顔を、じーっと、見た。


「おじちゃんも、ないてる」


「えっ」


指で、頬を、さわった。


濡れていた。


「ほこりだ」


「おうちに、ほこり、おおいね」


「ほんとに、おおいんだ」


ひなたは、くすくす、笑った。


縁側の、障子が、すっと、あいた。


ミキが、出てきた。


目が、真っ赤だった。


鼻の頭も、真っ赤だった。


手に、封筒を、ぎゅっと、にぎっている。


「…………お兄ちゃん」


「うん」


ミキは、オレの前に、立った。


しばらく、何も言わなかった。


それから、ぐしゃぐしゃの顔で、言った。


「みじかっ!」


「…………え」


「三行だよ!? 三行!」


「…………」


「おかあさんの手紙は、二枚も、あったのに! お兄ちゃんは、三行!」


「…………す、すまん」


「でも」


ミキは、ぐいっと、袖で、目を、ぬぐった。


「ずるい」


「え」


「みじかいのに、いちばん、長く、泣いた」


しーん、とした。


ミキの、肩が、ふるえていた。


でも、顔は、笑っていた。


「長くて泣いても、お兄ちゃんの、せいじゃないって、書いてあったけど」


「うん」


「ぜんぜん、長くなかったし、泣いたの、ぜんぶ、お兄ちゃんのせいだからね」


「…………そ、そうか」


「うん」


ミキは、オレに、抱きついてきた。


三十四歳の、妹が、三十七歳の、兄に、抱きついた。


石けんの、においがした。


ミキの、髪の、においだった。


でも、どこか、母さんの、においにも、似ていた。


「お兄ちゃん」


「うん」


「ありがとう」


「…………うん」


「ずっと、いてくれて、ありがとう」


「…………」


「小5の、あのとき、そばに、いてくれて、ありがとう」


オレは、ミキの背中を、ぽんぽん、叩いた。


何を、言われているのか、はっきりとは、わからない。


でも、わかった。


オレは、あのとき、ちゃんと、そこに、いたんだ。


「こちらこそ」


小さく、言った。


「ミキが、いてくれて、よかった」


「…………みじかく」


「え」


「みじかく、言って」


「…………ありがとう」


「うん。ちょうどいい」


ミキは、にっと、笑った。


ひなたが、ふたりの間に、ぎゅっと、割りこんできた。


「わたしも、だっこ!」


「ひなた、重いぞ」


「おじちゃん、ちからもち、じゃないの?」


「おじちゃんは、ちからもち、じゃない」


「へんなの」


三人で、団子みたいに、くっついた。


そうたくんが、とことこ、歩いてきて、オレの背中に、ぴたっと、乗った。


「おもい」


「おじちゃんが、おもいの」


「ちがう。そうたが、おもいの」


「どっちも、おもいんだよ」


ミキが、笑った。


縁側の風鈴が、ちりん、と、鳴った。


午後、ひなたとそうたを、近所の公園に、連れていった。


八月の、午後の、公園は、暑かった。


蝉が、うるさいくらいに、鳴いている。


滑り台の鉄板が、焼けて、ひなたが、「あちっ」と、とびのいた。


「おじちゃん、てつぼう、やる!」


「鉄棒?」


「うん。さかあがり、れんしゅうしてるの」


「……逆上がり」


その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が、とくん、と、鳴った。


「できるの?」


「できない」


ひなたは、あっさり、言った。


「でもね、ともだちの、りょうくんも、できないの。きょう、ここで、いっしょに、れんしゅうする、やくそくなの」


「そうか」


鉄棒のそばに、男の子が、ひとり、立っていた。


七歳くらい。


ひょろっとして、色白で、前髪が、ちょっと長い。


ひなたと、同じ小学校の、友達らしい。


でも、なんだか、うつむいて、体操服の裾を、ぎゅっと、にぎっていた。


「りょうくーん!」


ひなたが、手を、ふった。


男の子は、ぴくっと、顔を、あげた。


オレを、見て、ちょっと、おびえた。


「あ、この人、わたしの、おじちゃん」


「…………こんにちは」


「こんにちは」


オレは、しゃがんで、目線を、合わせた。


その子の、手のひらが、ちらっと、見えた。


赤くなっていた。


何度も、鉄棒を、握って、まめが、できかけていた。


「手、痛い?」


「…………ちょっと」


「そっか」


オレは、ポケットを、さぐった。


なんで、持ってきたのか、自分でも、わからなかった。


朝、家を出るとき、なんとなく、財布の中の、あの、軍手を、ポケットに、入れてきた。


財布の、ポケットの、奥に、一組だけ、入っていた、ふるい、軍手。


ちょっと、色あせて、指の先が、すり切れている。


白かったはずの、布地は、薄いグレーに、なっていた。


でも、洗濯したての、においがした。


なぜか、石けんの、においがした。


オレは、その、軍手の、片方を、そっと、男の子の手に、のせた。


「はい、これ」


「え」


「はんぶんこ」


「はんぶんこ?」


「うん。片方、貸してあげる。もう片方は、ひなたが、はめて」


「えー、おじちゃんの、ぐんて、ちっちゃいね」


「ひなたの手に、ちょうどいい」


ひなたが、片方の軍手を、はめた。


ちょっと、ぶかぶかだった。


男の子も、おそるおそる、もう片方を、はめた。


「…………あったかい」


「でしょ」


「手、痛くない」


「よかった」


男の子は、ちょっとだけ、笑った。


えくぼは、なかった。


でも、その笑い方が、なぜか、どこかの、誰かに、似ていた。


鉄棒の前に、ふたりが、並んだ。


右手に、軍手。


左手に、軍手。


ひなたと、男の子で、片方ずつ、はんぶんこ。


「じゃあ、せーのっ、で、やってみよう」


「うん」


「オレが、うしろで、足を、おすからな」


「えー、おじちゃん、できるの?」


「できる。……たぶん」


「たぶん?」


「たぶん」


なんで、「たぶん」なんだろう。


でも、この言葉は、口に出すと、なぜか、あたたかい。


オレは、ひなたの、うしろに、まわった。


小さな、背中。


ひなたの腰に、手を、添えた。


軽くて、あったかかった。


「いくよ」


「うん!」


「せーのっ!」


ひなたが、地面を、蹴った。


オレは、ぐいっと、押し上げた。


ひなたの足が、ふわっと、空に向かった。


「わ、わ、わ」


「あがってる、あがってる!」


「ほんと!?」


「ほんと! ぜんぜん、前より、あがってる!」


ひなたの足は、鉄棒の上まで、あと、ちょっとのところで、止まった。


そして、ゆっくり、落ちていった。


「あー」


ひなたは、地面に、すとんと、着地した。


でも、顔は、笑っていた。


「わたし、いま、ちょっと、できそうだった!?」


「うん。できそうだった! ぜったい、もうちょい!」


「やった!」


ひなたは、ぴょんぴょん、はねた。


その瞬間。


オレの、頭の中で、なにかが、ぱちんと、はじけた。


夕焼けの、校庭。


軍手が、ふたつ、ならんでいる。


「せーのっ!」


「ヒロキ、あがってる!」


細い、背中。


えくぼ。


オレの、手の下に、小さな、背中が、あった。


これは、誰だ。


「ヒロキ」と、呼ぶ、声。


「…………ユウタ」


声が、でた。


オレは、その名前を、口に、していた。


ユウタ。


そうだ。


オレの、いちばんの友達で、いまは、オレが、マネージャーをしている、歌い手だ。


なのに、いま、名前が、ほとんど、初めて聞くみたいに、胸に、ひびいた。


「おじちゃん?」


ひなたが、見上げていた。


「どうしたの」


「…………ううん」


オレは、目を、ぬぐった。


「なんでもない。思い出したんだ」


「なにを?」


「友達のこと」


「ともだち?」


「うん。むかし、おじちゃんも、こうやって、友達と、練習した」


「できた?」


「できた。ふたりとも、ちゃんと、できたよ」


「すごい!」


ひなたは、目を、輝かせた。


オレは、男の子の、うしろにも、まわった。


「次は、りょうくんの、番」


「…………うん」


「こわい?」


「…………ちょっと」


「こわくて、いい」


オレは、男の子の、肩に、手を、のせた。


「こわくても、ここに、いるから」


男の子は、軍手を、ぎゅっと、にぎった。


「せーのっ」


「せーのっ!」


男の子の、足が、地面を、はなれた。


オレは、ぐいっと、押した。


男の子の、体が、くるっと、一回転した。


「…………あ」


「あ」


「できた!?」


「できた!!」


男の子は、鉄棒の上に、ちょこんと、座って、目を、まん丸に、していた。


「ぼく、できた」


「できたな」


「ひなたちゃん、ぼく、できた!」


「すごい! りょうくん、すごい!」


ひなたが、ぴょんぴょん、はねた。


男の子は、顔を、まっかにして、笑った。


はじめて、えくぼが、片方だけ、ぽこっと、浮かんだ。


オレは、その顔を、見て、ふと、思った。


世界って、ぐるっと、まわって、いるんだな。


誰かに、してもらったことが、巡りめぐって、また、誰かの、背中を、押すことに、なる。


ふくやの、おばあちゃんの、おまけみたいに。


夕方、ミキと、父さんと、子どもたちと、ひまわりデパートの、屋上に、行った。


毎年、八月十三日の、夕方の、決まりだ。


「ひまわりランド」の、小さな、観覧車に、乗る。


ゴンドラが、八つしかない、古い、観覧車。


係員の、おじさんは、もう、いなかった。


代わりに、若い、お兄さんが、立っていた。


「いらっしゃいませ」


「お願いします」


家族みんなで、一周。


ミキと、ひなたと、そうたが、ひとつ。


オレと、父さんが、もうひとつ。


ゴンドラが、ゆっくり、ゆっくり、上がっていった。


窓の外に、町が、広がる。


駅。


商店街。


小学校の、校舎。


その、むこうに、うちのある、住宅地。


遠くに、海の、きらきらが、ちょっと、見える。


「…………ちっちゃいな」


「ああ、ちっちゃい」


父さんが、窓に、おでこを、くっつけた。


「ここで、母さんに、プロポーズしたんだ」


「知ってる。三分の一で、叫んで、ゴンドラを、ゆらしたんだよね」


「…………誰に、聞いた」


「母さん」


「…………」


「いや、誰だろう。どこかで、聞いた」


父さんは、ちょっと、黙った。


それから、ふっと、笑った。


「ヒロキ」


「うん」


「おまえ、いい顔、してるな」


「そう?」


「ああ。母さんが、見たら、よろこぶ」


オレは、ゴンドラの、窓の外を、見た。


てっぺんに、近づいていく。


空が、ぐんぐん、広がる。


夕日が、ゴンドラを、金色に、染めている。


ふと、向かいの席を、見た。


父さんの、横に、誰かが、座っている気が、した。


白い、ワンピースの人。


長い髪を、ひとつに、まとめた人。


でも、まばたきを、したら、そこには、夕日の、光しか、なかった。


「…………」


「どうした」


「ううん。なんでもない」


「そうか」


父さんは、窓の外を、見たまま、言った。


「いまな、母さんが、そこに、いた気がした」


「…………父さんも?」


「ああ。毎年、てっぺんで、ちょっとだけ、な」


ふたりで、黙った。


ゴンドラが、てっぺんで、きしっと、鳴った。


あたりが、しーんと、した。


「…………母さん」


父さんが、ぼそっと、言った。


「今年も、来たぞ」


「…………」


「ヒロキも、ミキも、孫たちも、みんな、元気だ」


オレは、窓に、手を、あてた。


ガラスは、夕日で、ぽかぽか、あたたかかった。


「母さん」


小さな、声で、言った。


「ありがとう」


返事は、なかった。


でも、ゴンドラが、そっと、揺れた。


夕日が、ふわっと、強くなった。


まぶしくて、目を、細めた。


細めた先で、ガラスに、ちいさく、ほんの、一瞬だけ、写った。


白い、ワンピースの、笑顔が。


夜。


市民ホールで、ユウタの、コンサートが、あった。


水野優太。


三十七歳。


演歌と歌謡曲の、境目を、行き来する、ちょっと変わった、歌い手だ。


派手な衣装は、着ない。


でかい声も、出さない。


でも、一度、聞いたら、忘れられない、声を、していた。


高くて、すんでいて、まっすぐな声。


「ふるさと」を歌うと、会場の、半分が、泣く。


そういうことで、有名な、歌い手だった。


オレは、その、マネージャーだ。


袖に、立っていた。


黒いスーツ。


首から、スタッフパス。


手には、タオルと、ペットボトル。


どこかで、見たことが、ある、並びだった。


「ヒロキさん、そろそろ、出番です」


若い、スタッフが、小声で、言った。


「うん」


ステージの、むこうで、ユウタが、静かに、立っていた。


羽織姿の、細い、背中。


その、背中を、見た、瞬間。


オレの、視界が、ぐにゃっと、にじんだ。


「…………あ」


また、だ。


毎回、これだ。


ユウタが、息を、すう、その瞬間に、オレは、もう、泣いている。


なんでかは、わからない。


でも、あの、細い背中が、一歩、前に、出る、たびに、胸の、いちばん、奥が、あつくなる。


誰かの、ごめんなさいが。


誰かの、ありがとうが。


ぜんぶ、まとめて、こみあげてくる。


「ふるさとの」


ユウタの、声が、会場に、ひろがった。


オレは、袖の、カーテンで、顔を、おさえた。


見えない。


涙で、ぜんぶ、にじんで、見えない。


でも、声だけは、ちゃんと、聞こえた。


「……こぶな、つりし、かのかわ」


ひと言ごとに、胸が、ふるえた。


「……ゆめは、いまも、めぐりて」


最後の、ひと言。


「……わすれがたき、ふるさと」


最後の、一音が、のびて、のびて、のびて、消えていく。


その、最後の、一音だけは、見えた。


涙の、むこうに、ユウタの、横顔が、ぼんやり、見えた。


口を、大きく、ひらいて、胸を、はって、目を、閉じている。


会場が、爆発した。


拍手。


拍手。


拍手。


「…………ブラボー」


誰かが、叫んだ。


オレは、袖の、すみで、鼻を、ずるずる、すすった。


「ヒロキさん、また、泣いてますね」


若い、スタッフが、くすっと、笑った。


「ほこりだよ」


「ほこり?」


「ほこり」


「ホールの、掃除は、毎日、してますけど」


「それでも、入るんだ」


「へえ」


スタッフは、首を、かしげた。


でも、それ以上、聞いてこなかった。


終演後、楽屋に、ユウタが、戻ってきた。


羽織を、脱いで、ふうっと、息を、ついた。


「ヒロキ、また、袖で、泣いてたでしょ」


「泣いてない」


「鼻声」


「ほこり」


「ほこり、か」


ユウタは、くすくす、笑った。


えくぼが、ぽこっと、浮かぶ。


三十七歳になっても、そのえくぼは、片方だけ、同じ形をしていた。


「ねえ、ヒロキ」


「うん」


「ぼくね、まだ、できないんだ」


「なにが」


「逆上がり、連続、五回」


「…………」


オレは、一瞬、固まった。


それから、ぷっと、ふきだした。


「まだ、やってるのか」


「うん。毎年、八月十三日に、試すんだ」


「なんで」


「約束だから」


ユウタは、にっと、笑った。


「誰との約束か、もう、思い出せないんだけどね」


「…………」


「でも、毎年、八月十三日は、やらなきゃって、気がして」


オレは、ユウタの、顔を、見た。


三十七年分の、年を、とった、顔。


でも、どこか、小5の、えくぼの顔と、重なって、見えた。


「…………ユウタ」


「うん」


「オレもだ」


「え?」


「オレも、毎年、八月十三日に、やることが、ある」


「卵焼き?」


「うん。それと、もうひとつ」


オレは、ポケットから、財布を、取り出した。


そして、名刺を、一枚、抜いた。


『佐久間 宏樹』


「裏、見て」


ユウタは、名刺を、受け取った。


裏を、返して、目を、落とした。


『母さんの、息子』


「…………」


ユウタは、しばらく、黙っていた。


それから、顔を、あげた。


「ヒロキ」


「うん」


「ぼくも、書いていい?」


「え」


「裏に」


「…………いいよ」


ユウタは、ポケットから、ペンを、取り出した。


そして、名刺の、裏の、すみに、小さく、書き足した。


『ともだち。 優太』


「…………」


オレは、名刺を、受け取った。


目の奥が、つーんとした。


今度は、ほこりじゃ、ごまかせなかった。


「ユウタ」


「うん」


「ありがとう」


大きな声で、言った。


楽屋じゅうに、ひびく、でっかい声で。


ごにょごにょじゃなくて。


ユウタは、びっくりして、それから、ふふっと、笑った。


「どういたしまして」


「それだけ?」


「それだけ。みじかく、でしょ?」


「…………誰に、聞いた」


「わからない。でも、いつも、そう、思うんだ」


ふたりで、笑った。


楽屋の、むこうで、ブッチと、ハヤシさんの、でかい声が、聞こえた。


「ユウタああああ! 今日の、ふるさと、最高だったああああ!」


「ブッチ、声、でかい。ここ、楽屋よ」


「だって、うれしいんだもん!」


「もう、三十七歳なのに」


「年は、関係ない!」


ハヤシさん、いや、ハヤシミナミは、もう、「渕上ミナミ」になっていた。


口に、手を、あてて、笑っている。


ブッチは、あいかわらず、丸い顔で、でっかい声で、ぶんぶん、手を、ふっていた。


その、すぐ後ろに、きりっとした、女の人が、立っていた。


「議長として、一言」


「山口先生、ここは、会議じゃ、ありません」


「わかっています。でも、さくまさんは、また、泣いていました」


「ほこり」


「ほこりの、確率は、ゼロです」


「ヒロキ、法律で、反論される、ぞ」


「ヤマグチさん、おれ、ちゃんと、ごめんなさい、って言いました」


「では、受理します」


「受理すんのかよ」


楽屋が、笑いで、いっぱいになった。


ゴウダも、イノウエくんも、サトウさんも、カワシマも。


なぜか、全員、いた。


「みんな、なんで、いるの」


「今日は、八月十三日だから」


ブッチが、でっかい声で、言った。


「毎年、みんな、集まるんだ。理由は、わかんないけど」


「でも、集まらないと、なんか、落ち着かない」


「そう、そう」


「なんか、誰かに、会いに行く、気がして」


みんなが、うなずいた。


オレは、みんなの、顔を、ぐるっと、見回した。


忘れているはずなのに。


ひとつも、はっきりとは、覚えていないのに。


みんなが、ここに、いる。


「…………ありがとう」


大きな声で、言った。


「みんな、ありがとう」


「どういたしましてー!!!」


ブッチが、でっかい声で、言った。


みんなの、声が、重なった。


「どういたしまして」


「どういたしましてです」


「…………どういたしまして」


最後の、小さな声は、ゴウダだった。


家に、帰ったのは、夜の、十一時だった。


父さんは、もう、寝ていた。


ミキたちは、客間で、すやすや、眠っている。


オレは、ひとり、縁側に、座っていた。


夜風が、涼しかった。


虫の声が、りーん、りーん、と、響いていた。


「…………今年も、終わるな」


誰に言うでもなく、つぶやいた。


縁側の、板の間に、麦茶の、コップが、ふたつ、置いてあった。


ひとつは、オレの。


もうひとつは、誰の、だっけ。


氷は、とけて、水に、なっていた。


「…………母さん」


ふと、口に、出た。


返事は、なかった。


でも、縁側の、むこうの、庭で、朝顔が、咲いていた。


夜なのに、一輪だけ、ひらいていた。


「…………」


オレは、ポケットから、黒い板を、取り出した。


いつ、なんで、持っているのか、ぜんぜん、わからない。


でも、どうしても、捨てられない、ふしぎなやつだ。


ふつうのスマホより、ひとまわり、古めかしい形。


でも、画面は、ずっと、真っ黒で、どんなに、ボタンを、押しても、反応しない。


「…………動かない、よな」


そう、つぶやいて、ふと、思いついた。


ポケットに、一本、白い、ケーブルが、入っていた。


母さんの、裁縫缶の、中から、毎年、出てくる、へんなやつ。


どこにつなぐのか、わからなくて、ずっと、とっておいた、ケーブル。


オレは、縁側の、コンセントに、アダプターを、さした。


そして、黒い板に、ケーブルを、つないだ。


「…………」


画面が、ぱっと、光った。


『充電中』


緑色の、いなずまの、マーク。


「…………ついた」


声が、でた。


笑った。


なんで、笑っているのか、わからない。


でも、おかしくて、うれしくて、たまらなかった。


この、緑の、いなずまが、こんなに、うれしいなんて。


人生で、はじめてかもしれない。


いや、はじめてじゃ、ない気がする。


だれかが、前にも、これを見て、「うおお」と、ガッツポーズをした、気がする。


「…………よかった」


ぽつりと、言った。


誰に、言ったのかも、わからない。


でも、胸の奥が、あたたかかった。


画面の、いちばん、上に、通知が、ひとつだけ、出ていた。


『バッテリー残量 1%』


『残り時間   ∞』


「…………」


オレは、画面を、じっと、見た。


その、数字の、意味は、わからなかった。


でも、なんだか、笑ってしまった。


「ずっと、あるんだ」


小さく、つぶやいた。


「ずっと、いて、いいんだ」


誰かが、そう、言ってくれた気が、した。


麦茶を、ひとくち、飲んだ。


氷が、とけた、ぬるい麦茶だった。


でも、世界で、いちばん、おいしかった。


そのとき。


台所の、方から、ことん、と、音が、した。


オレは、顔を、あげた。


台所の、明かりが、ほんのり、ついていた。


誰かが、そこに、いる、気がした。


オレは、立ち上がって、縁側から、居間を、通り抜けて、台所の、入口に、立った。


誰も、いなかった。


でも、フライパンが、ちょっとだけ、あたたかかった。


テーブルの上に、お皿が、一枚、置かれている。


その上に、卵焼きが、ひとつ。


焦げ目が、ちゃんと、ついている。


母さんの、卵焼きだった。


いや、オレの、かもしれない。


もう、どっちの、味か、わからなかった。


でも、それで、いいんだと、思った。


玄関の、ほうを、振りかえった。


遅く帰ってきた、疲れた体で、靴を、ぬいで、廊下を、歩いて。


ここまで、まだ、一度も、言っていない、言葉が、あった。


オレは、ちいさく、息を、すった。


「…………ただいま」


台所の、静けさに、向かって、言った。


しばらく、なにも、聞こえなかった。


虫の声だけが、りーん、りーん、と、続いていた。


それから。


ほんの、かすかな、声が、したような、気がした。


「おかえり、ヒロキ」


オレは、目を、閉じた。


石けんの、においが、した。


日なたの、においも、した。


額に、そっと、あたたかい、手が、あてられた気が、した。


「……37度、かな」


つぶやいた。


自分でも、なんで、そんなことを、言ったのか、わからなかった。


でも、返ってくる、言葉が、わかっていた。


「平熱じゃ、ないわね。はい、元気!」


目を、あけた。


台所には、誰も、いなかった。


でも、オレは、笑っていた。


世界で、いちばん、しあわせな、顔で。


テーブルの、前に、座った。


箸を、持った。


卵焼きを、ひとくち、口に、入れた。


甘くて、焦げてて、ちょっと、しょっぱかった。


最後の、しょっぱさは、たぶん、オレの、涙だった。


窓の外で、虫が、りーん、と、鳴いていた。


八月十三日の、夜が、静かに、更けていった。


オレは、明日も、卵焼きを、焼く。


あさっても、焼く。


ふつうの日を、ちゃんと、大事に。


それが、母さんと、約束した、いちばんの、願いだから。



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