第33話「ミキへの手紙は、みじかく」
十二月に入った。
朝、布団から出るのが、つらい。
37歳の体は、ひざも腰も、重いのに、寒さだけは、骨まで、しみた。
「さむっ」
声に出して、ふすまを開けた。
廊下の空気が、顔にぴしっと、あたる。
37歳のころは、冬の朝は、ただの「だるい」だった。
いまは、ちゃんと「さむい」。
さむいって言える朝が、ちょっと、うれしかった。
「ヒロキー! ごはんー!」
父さんの声だ。
台所からは、焦げた卵焼きのにおいと、味噌汁の湯気。
ミキは、ちゃぶ台の前で、半纏を着て、丸くなっていた。
「お兄ちゃん、おそい」
「ごめん」
「卵焼き、きょうは、父さん、しょうゆ、たらーって、入れすぎた」
「うまい」
「それしか言わないって」
何度目かわからない、朝のやりとり。
でも、毎朝、ちゃんと、おもしろい。
不思議だ。
同じ会話のくり返しなのに、飽きない。
これが、母さんの言っていた、「ふつうの日」の味なんだと思う。
その日の放課後。
ランドセルから、宿題を出そうとして、手が止まった。
ノートの間に、一枚の、折りたたんだ紙が、はさまっていた。
見覚えのない、紙。
ひらくと、ぐにゃぐにゃした字で、一行だけ、書いてあった。
『お兄ちゃんの、てがみ、まだ?』
ミキの字だった。
「…………」
ふきだした。
こっそり、ランドセルに、入れたんだ。
小2の、やり方だ。
でも、催促されても、しかたない。
約束した。
ミキが大きくなったとき、読めるように、手紙を書く、と。
でも、いざ、書こうとすると、鉛筆が、動かなかった。
何を、書けばいい。
「お兄ちゃんは、実は37歳でした」
そんなこと、書けるわけがない。
「お母さんのことは、お兄ちゃんが、ちゃんと、見送ったよ」
それは、ミキだって、知っている。
「ごめんなさい」
「ありがとう」
どれも、長くなりそうで、なのに、足りない気がした。
机の前で、一時間、固まった。
鉛筆の先で、原稿用紙を、とんとん、叩く。
消しゴムを、意味もなく、コロコロ、転がす。
「…………だめだ」
ひとりごとが、出た。
37歳の脳みそは、プレゼン資料なら、一晩で、五十枚、作れた。
でも、小2の妹に、書く、手紙は、一行も、書けない。
皮肉な話だ。
「お兄ちゃん」
ふすまの向こうから、ミキの声。
「入っていい?」
「いいよ」
ミキは、湯たんぽを、抱えて、入ってきた。
「てがみ、書けた?」
「…………まだ」
「やっぱり」
ミキは、あっさり、言った。
「お兄ちゃん、がんばりすぎ」
「え」
「ながいの、書こうとしてるでしょ」
「…………」
図星だった。
「いいんだよ、みじかくて」
「でも、大事な手紙だから」
「だいじなのは、ながさじゃないよ」
ミキは、ふんっと、鼻を鳴らした。
「おかあさんの手紙は、ながいけど、おかあさんの、だいすきは、ひとつだよ」
「…………」
「お兄ちゃんも、ひとつで、いいの」
ミキは、湯たんぽを、オレの膝に、ぽんと、のせた。
あったかい。
「ミキ」
「なあに」
「お前、ほんとに、小2か」
「小2です」
「ちゃんと、小2か」
「しつれいな」
ミキは、胸を、張った。
「でも、ちょっとだけ、おかあさんに、教えてもらった」
「…………母さんに?」
「うん。おかあさんが、病院に、行く前の日」
ミキは、湯たんぽを、ちょっとだけ、ぎゅっと、押した。
「『ミキ、ヒロキが、手紙を、書こうとして、困ってたら、教えてあげてね』って」
「…………」
「『手紙は、ひとつ、伝えたいことが、あれば、じゅうぶんよ』って」
オレは、言葉が、でなかった。
母さんは、そこまで、先を、読んでいたのか。
「だから、お兄ちゃんは、ひとつだけ、書けばいいの」
「ひとつ」
「そう。ひとつ」
ミキは、にっと、笑った。
「なにを、書くかは、お兄ちゃんが、決めるの」
「…………うん」
「ミキは、おふろ、入ってくる」
ミキは、ぴょんと、立ち上がって、出ていった。
オレは、湯たんぽを、抱いて、しばらく、動けなかった。
ひとつだけ。
伝えたいこと。
オレは、鉛筆を、持ちなおした。
ミキに。
ミキが、大人になったときに。
オレが、そばに、いても、いなくても。
伝えたいこと。
浮かんだのは、パンケーキだった。
くしゃっとした、雲みたいな、あの形。
「へたくそ」って、言いかけて、「これ、一番おいしそうだぞ」って、言った、あの朝。
それから、ねずみの、「うんとこしょっ!! どっこいしょっ!!!」。
台本と、ちがう、元気すぎる声。
「みじかく!」と書いた、ぐにゃぐにゃの、ひらがな。
「ごめんなさいって、言えばいいじゃん」と、言ってくれた、あの朝。
ミキは、いつも、オレに、教えてくれた。
37歳の、オレが、知らなかった、いちばん、大事な、ことを。
鉛筆が、動いた。
『ミキへ。
おにいちゃんは、ミキの、おにいちゃんで、よかった。
ありがとう。
ヒロキ』
三行だけ。
書き終わって、読み返した。
短い。
あまりにも、短い。
でも、これ以外の、言葉は、ぜんぶ、余計に、思えた。
「…………」
鉛筆を、置いた。
紙を、封筒に、入れた。
封筒は、母さんの、裁縫缶の、中から、見つけた、小さな、水色の、やつだ。
表に、大きく、書いた。
『ミキが、大きくなったら、ひとりで、あけること』
その下に、もう一行。
『ただし、長くて、泣いても、おにいちゃんの、せいじゃ、ありません』
「…………最後の一行、いるか」
自分で、ツッコんだ。
でも、消さなかった。
ミキなら、笑ってくれる。
封筒を、ミキの、青い缶の、いちばん下に、そっと、しまった。
どんぐりと、ビー玉の、下。
母さんの手紙の、となり。
ふたを、閉じた。
その夜。
ミキが、お風呂から、上がってきた。
髪が、まだ、濡れている。
「お兄ちゃん、書いた?」
「書いた」
「どこ」
「ミキの、缶の、いちばん、下」
ミキは、ぱっと、缶を、見た。
そして、ふたを、あけようと、した。
「だめ」
「え」
「大きくなってから」
「えー!」
「約束だろ」
「でも、いま、読みたい!」
「だめ」
「ちょっとだけ!」
「だめ」
ミキは、むっと、ほっぺたを、ふくらませた。
でも、すぐに、にやっと、笑った。
「…………お兄ちゃん、みじかいの、書いたでしょ」
「…………なんで、わかる」
「顔に、書いてある」
「そんな、わかりやすいか」
「うん」
「じゃあ、読まなくても、いいんじゃないか」
「だめ。ちゃんと、読む」
ミキは、缶を、ぎゅっと、抱いた。
「大きくなってから、ひとりで、読む」
「…………うん」
「そのとき、お兄ちゃんが、となりに、いなくても、がんばって、読む」
「…………」
胸が、ぎゅっと、なった。
母さんの、手紙を、読む、大人の、ミキの写真が、頭に、浮かんだ。
となりで、ティッシュを、持っていた、大人の、オレ。
あの写真は、まだ、有効なんだろうか。
でも、考えるのは、やめた。
ミキは、缶を、枕もとに、置いて、ふとんに、もぐりこんだ。
「お兄ちゃん」
「うん」
「だいすき」
「…………」
「ひとつだけ、言いたかったの」
「…………うん」
「ミキも、ひとつで、いいの」
「…………オレも」
「ん?」
「オレも、ミキが、だいすき」
「えへへ」
ミキは、うれしそうに、布団を、頭まで、かぶった。
しばらくして、すーすー、寝息が、聞こえた。
寝る前に、財布を、ひらいた。
名刺入れは、白紙のまま。
でも、すみっこに、また、うっすら、文字が、浮かんでいた。
『ミキへの、てがみ。三行。』
『ミキは、大人になって、読んだ。泣いた。そして、ひとこと、言った。』
そこで、文字が、切れていた。
ひとこと、って、なんだろう。
続きは、浮かんでこなかった。
まだ、決まっていないんだ。
ミキが、大人になって、読んだとき、なんて言うのか。
それは、これから、ミキが、自分で、決めること。
「…………楽しみ、だな」
ぽつりと、言った。
未来が、見えなくて、いい。
見えないから、楽しみなんだ。
財布を、閉じた。
窓の外は、雪が、ちらちら、降りはじめていた。
十二月の、ひとつ目の、雪だった。
翌朝。
目が覚めると、世界が、白かった。
窓の外の、屋根も、庭も、電線も、ぜんぶ、うっすら、雪に、おおわれている。
「ミキ、雪だ!」
「えええ!」
ミキが、がばっと、布団から、飛び起きた。
「ゆきだるま!」
「朝ごはんが、先」
「ゆきだるまが、先!」
「どっちも、先」
「ずるい!」
「ずるくない」
ふたりで、わちゃわちゃ、言い合いながら、階段を、おりた。
台所では、父さんが、卵焼きを、焼いていた。
「おはよう。雪だぞ」
「知ってる!」
「卵焼きは、焦げたぞ」
「知ってる!」
「うまい」
「それしか、言わないで!」
三人で、笑った。
食卓の、窓から、雪が、きらきら、見えた。
箪笥の上の、写真の母さんも、窓の外を、見ているようだった。
「母さん、雪、積もったよ」
オレは、写真に、向かって、言った。
「ふつうの、日だけど、きれいだよ」
写真は、返事を、しなかった。
でも、ふと、窓から、さしこんだ光が、母さんの、顔を、ふんわり、照らした。
笑っているように、見えた。
気のせい、かもしれない。
でも、気のせいでも、よかった。




